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人類学のススメ

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日本の人骨発見史15.鍛冶橋人骨(中世):日本人の小進化研究の契機

2014年02月09日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 1951年7月、東京大学理学部(当時)の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]は、東京大学医学部解剖学教室の骨格標本室で21個の頭蓋骨を前にして頭をひねっていました。その頭蓋骨は、これまで見慣れていた現代日本人骨や縄文時代人骨とは異なり、頭を上から見ると前後に長い長頭型で、鼻は低く、反っ歯(歯槽性突顎)だったのです。鈴木 尚は、これらの頭蓋骨は、東南アジア出土のものだと考えました。

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写真1.東京大学医学部解剖学教室の標本室[鈴木 尚(1963)『日本人の骨』より改変して引用]

 翌年の1952年5月、鈴木 尚は、再び東京大学医学部解剖学教室の骨格標本室を訪問しました。頭蓋骨をさらに詳しく観察すると、麻紐がつけられていることに気付きます。この麻紐は、荷札のように頭蓋骨の発見場所等を記載する標本カードがつけられていたものだろうと推測しました。鈴木 尚は、頭蓋骨を番号順に並べてみましたが、23個あるはずのものが、何故か、18番と21番の2個の頭蓋骨が見当たりません。早速、戸棚を調べると、この2個の頭蓋骨を発見することができました。この2個には、まだ標本カードがついていたのです。

 そこには、鈴木 尚の人類学の恩師の小金井良精[1859-1944]の筆跡で「大正二年十月に東京市鍛冶橋回収工事の際に濠の底から発見され、神保小虎氏から入手」と書かれていました。恩師の小金井良精はすでに8年前に死去していましたが、その筆跡は見慣れたものでした。神保小虎[1867-1924]は、帝国大学理科大学の地質学者で、やはりすでに死去しています。鍛冶橋は、江戸城の外濠にかけられた鍛冶橋を意味しました。

 せっかく、手掛かりを発見しましたが、その関係者2人はすでに死去しており、直接確かめることができません。頭蓋骨の計測値は、現代日本人骨とも古墳時代人骨とも異なっています。鈴木 尚は途方にくれました。しかし、手掛かりは頭蓋骨そのものにありました。3個の頭蓋骨に梅毒の痕跡を見つけたのです。梅毒は、1512年にヨーロッパから西日本に到達し、1563年から1564年にかけて「唐カサ」として蔓延したことが文献の記録で判明しました。また、鎌倉時代人骨にはこの梅毒の痕跡は認められていません。すると、この鍛冶橋人骨は、少なくとも室町時代中期以後と推定されます。

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写真2.鍛冶橋出土人骨頭蓋骨[鈴木 尚(1963)『日本人の骨』より改変して引用]

 明治時代以来、日本人の骨の研究は、主に縄文時代人骨・古墳時代人骨・現代日本人骨の3集団を用いて行われてきました。これは、縄文時代人骨と古墳時代人骨の残存状態が良かったためです。何故、縄文時代人骨と古墳時代人骨の残存状態が良かったかというと、縄文時代人骨は貝塚に埋葬されることが多くその貝殻のカルシウムが、古墳時代人骨は石室に埋葬されることが多く土と触れないために比較的良く保存されていました。ちなみに、東京の寺院の墓地跡でも中世人骨や近世人骨が良い残存状態で発見されますが、これは、長い間水に浸かっていたからです。

 このようにして、室町時代人骨は、低顔・広鼻・鼻根の幅が広くて隆起が弱い・反っ歯(歯槽性突顎)・長頭という形質が明らかになりました。

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写真3.人骨を研究中の鈴木 尚[鈴木 尚(1960)『骨』のカバーより改変して引用]

 鈴木 尚は、さらに、1953年に鎌倉材木座で発掘調査を行い、鎌倉時代人骨約910体を発見し、空白であった時代の人骨の研究を行います。このように、鍛冶橋人骨と材木座人骨は、日本人の小進化研究の契機となりました。

*鍛冶橋人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 鈴木 尚(1960)『骨』、学生社
  • 鈴木 尚(1963)『日本人の骨』、岩波書店(岩波新書)
  • 楢崎修一郎(2006)「付論2.中世人骨の研究」『出土資料から見た東毛の戦国時代』、笠懸野岩宿文化資料館第41回企画展図録、p.5

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