岩手県平泉町に所在する中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。
藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました。
藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用]
初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]
第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]
第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]
第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)
藤原氏四代のミイラを人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木 尚[1912-2004]でした。
藤原秀衡を計測中の鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]
藤原四代のミイラを研究した、鈴木 尚と長谷部言人は、これらのミイラは人工的ではなく自然にできたミイラだと推定しました。藤原一族は、従来蝦夷と呼ばれており、初代清衡の高祖父・安部忠頼が「東夷の首長」と呼ばれ、三代・秀衡は自ら「俘囚の上頭」と称していました。しかし、アイヌ的要素(現在で言う在来系あるいは縄文系)は無く、渡来系あるいは弥生系の形質を持つことも明らかにしています。
中でも注目された成果として、首だけが保存されているミイラでした。このミイラは、中尊寺では藤原忠衡のものと伝聞されていましたが、調査の結果、藤原泰衡のものである可能性が高いと結論づけられています。
藤原忠衡(藤原泰衡)のミイラを調査する鈴木 尚[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]
この藤原忠衡の首には、16箇所もの切創や刺創が認められました。中でも、眉間の左から後頭部にかけて直径約1cmの孔が認められ、これは、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にしたものと推定されています。
藤原忠衡(藤原泰衡)の首の切創と刺創(赤い部分が釘の跡)[朝日新聞社(1950)『中尊寺と藤原四代』より改変して引用]
これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処したと推定されました。
その後、1994年に中尊寺からの依頼で藤原氏四代の遺体を観察した埴原和郎[1927-2004]により、再検証が行われました。この中で、ミイラは自然にできたものであり、鎌倉時代人や近世アイヌよりも、現代京都人に近いことが確認されています。但し、藤原基衡は貴族化が著しいものの、清衡や秀衡はエミシ系の安倍氏出身の母親の影響を受けていることも指摘しました。但し、長谷部言人が指摘した、藤原基衡と藤原秀衡の遺体が入れ替わったかどうかは形態から推定するには限界があり、将来的にDNA鑑定を行う必要も指摘しています。
*藤原四代のミイラについて、以下の文献を参考にしました。
- 朝日新聞社編(1950)『中尊寺と藤原四代:中尊寺学術報告』、朝日新聞社
- 長谷部言人(1950)「遺体に関する諸問題」『中尊寺と藤原四代』(朝日新聞社編)、pp.7-22
- 鈴木 尚(1950)「遺体の人類学的観察」『中尊寺と藤原四代』(朝日新聞社編)、pp.23-44
- 鈴木 尚(1960)「中尊寺のミイラ」『骨』、学生社、pp.105-119
- 朝日新聞社編(1973)『日本人類史展:骨からみた移りかわり』、朝日新聞社
- 埴原和郎(1985)「ミイラからみた藤原四代」『シンポジウム平泉』(高橋富雄編)、小学館、pp.57-92
- 鈴木 尚(1996)「7.平泉中尊寺の奥州藤原四代ミイラ」『骨(改訂新版)』、学生社、pp.143-158
- 埴原和郎(1996)「再考・奥州藤原氏四代の遺体」『国際日本文化研究センター紀要・日本研究』、第13集、pp.11-33
- 埴原和郎(1997)「第9章.奥州藤原氏四代の遺体」『日本人の骨とルーツ』、角川書店、pp.189-215
大浦山洞穴は、神奈川県三浦市南下浦町に所在します。1949(昭和24)年に偶然発見され、その年に第1次調査が行われました。また、1962(昭和37)年に第2次調査が、1963(昭和38)年に第3次調査が行われています。
この発掘調査は、横須賀考古学会を創設した考古学者の赤星直忠[1902-1991]や岡本 勇[1930-1997]を中心に行われています。第3次調査には、東京大学の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]が参加しています。
洞穴の大きさは、幅5m・高さ6m・奥行き20mで、堆積層は7層に分かれ、5層から7層までは弥生時代中期に比定されています。2005年には年代測定が行われ、360BCからAD50という年代が報告されました。
発掘報告書は、発掘調査から30年以上経過した、1997年に、三浦市教育委員会により三浦市埋蔵文化財調査報告書第4集『大浦山洞穴』として出版されました。この時、中心として発掘調査を行った赤星直忠は死去しており、岡本 勇も出版を見届けるかのように、出版された年に死去しています。この洞穴から、成人頭骨13体・上顎骨6体・下顎骨10体・四肢骨が発見されました。人骨の報告を行った鈴木 尚によると、これらは、男性6体・女性5体・性別不明2体の合計13体のものであると報告されました。
13個の頭骨の中でも、第4号人骨は接着復元後、最も保存状態が良いものでした。
大浦山洞穴1.第4号頭骨(T22)の出土状況[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]
この第4号人骨は、約20歳代後半の男性と推定されています。
大浦山洞穴2.第4号頭骨の前面観(左)と上面観(右)[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]
この第4号頭骨の左側は残存していましたが、右側は欠損部が多く、丸い石塊のようなもので、右側頭部に2回強い打撃を受けたと推定されています。人骨を報告した、鈴木 尚は、恐らく、脳を取り出すためだと推定しました。また、解体された傷を調べると、縄文時代人が動物を解体した時と同じ部位に認められたと報告されています。
大浦山洞穴3.第4号頭骨の解体痕[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]
大浦山洞穴4.第3次調査時(1963年)のスナップ[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]
その後、この大浦山洞穴出土人骨は、東京大学の佐宗亜衣子等により再検討が行われました。未整理人骨も加えて再検討した結果、頭蓋骨7体・上顎骨6体・下顎骨9体・肩甲骨7体・鎖骨8体・上腕骨10体・橈骨5体・尺骨3体・頸椎2体・胸椎3体・腰椎4体・肋骨5体・寛骨6体・大腿骨10体・脛骨7体・腓骨6体と推定されています。また、成人だけではなく、一部に幼年や若年・加齢傾向を示す骨片も発見されたと報告されています。さらに、人骨は獣骨よりも意図的に破壊され、洞穴内にばらまかれ、埋められたことを再確認したと報告されており、鈴木 尚が推定したように、意図的に行われたと結論づけられました。
*大浦山洞穴出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。
- 鈴木 尚(1983)『骨から見た日本人のルーツ』、岩波書店(岩波新書)
- 鈴木 尚(1997)「付編」『大浦山洞穴』、三浦市教育委員会、pp.117-147
- 鈴木 尚(1998)『骨が語る日本史』、学生社
- 佐宗亜衣子・剱持輝久・諏訪 元(2008)「大浦山洞穴の弥生時代人骨」『横須賀考古学会年報』、(42):7-13
根獅子遺跡は、長崎県平戸島根獅子免浜久保(現・長崎県平戸市根獅子町)に所在します。昭和8(1933)年と昭和16(1941)年に、診療所工事中と個人宅で4体の人骨が偶然に発見されました。その時発見された人骨は埋め戻されましたが、昭和25(1950)年に、京都大学平戸調査団の樋口隆康(現・京都大学名誉教授)によって再発掘され、人骨鑑定は、九州大学医学部解剖学教室の金関丈夫[1897-1983]に依頼されます。
4体の人骨は、弥生時代中期のものと推定されました。男性1体には抜歯痕は認められませんでしたが、女性2体には、上顎左右犬歯と下顎左右第1切歯及び第2切歯が抜歯されていました。
- 根獅子1号:成年男性。身長155.80cm。抜歯痕無し。
- 根獅子2号:熟年女性。身長149.67cm。上下顎に抜歯有り。
- 根獅子3号:成年女性。身長152.57cm。2号と同じ部位に抜歯有り。
- 根獅子4号:性別不明幼年。
根獅子1.根獅子2号人骨前面観[金関・永井・山下(1954)より改変して引用]
根獅子2.根獅子2号人骨上下顎骨抜歯(上顎左右犬歯と下顎左右第1及び第2切歯を抜歯)[金関・永井・山下(1954)より改変して引用]
根獅子2号人骨には、もう一つ、興味深い所見が認められました。それは、頭頂部に銅鏃の先端部が刺さって残存していたのです。その傷は、長径8mm・幅径4mm・深さ1mmの陥凹で、金属は長径6.5mm・幅径3mmの大きさでした。周囲には、骨増殖の痕跡が認められたため、受傷後、十数日は生存していたと金関丈夫は推定しました。また、この傷が元で脳膜や脳の化膿性の炎症が原因で死亡したとも推定しています。
根獅子3.根獅子2号人骨頭頂部の受傷部(矢印)[金関・永井・山下(1954)より改変して引用]
根獅子4.根獅子2号人骨受傷部近接[金関・永井・山下(1954)より改変して引用]
金関丈夫は、この女性が小さい集団の女酋長の統率者であり、戦争ともなれば集団の先頭に立って敵に向かった巫女だったろうと推定しています。
なお、金関丈夫は銅鏃と推定しましたが、後に、橋口達也は銅剣と推定し、春成秀爾は銅戈だと推定しています。また、1972年にも調査が行われており、9体が出土していますが、この人骨は長崎大学医学部解剖学教室に保管されています。
*根獅子人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。
- 金関丈夫・永井昌文・山下茂雄(1954)「長崎県平戸島獅子村根獅子免出土の人骨に就て」『人類学研究』、第1巻第3~4号、pp.178(450)-226(498)
- 金関丈夫(1975)「前線で戦死した巫女:ヤジリがささった頭骨」『発掘から推理する』、朝日新聞社(朝日選書)、pp.7-10
- 金関丈夫(1976)「根獅子人骨について(予報)」『日本人の起源』、法政大学出版会、pp.242-248
吉母浜遺跡は、山口県下関市大字吉母に所在します。この遺跡は、1962年の第1次調査と1964年の第2次調査で、金関丈夫[1897-1983]を団長として調査が行われ、弥生時代中期の人骨11体が出土しました。その後、1979年から1981年にかけて第3次から第8次にわたる調査が行われています。
この調査により、土坑墓から中世の人骨107体が出土しました。また、19基の火葬跡も検出されています。砂浜に埋葬されていたため、人骨の保存状態が良いのが特徴的です。例えば、他の場所に埋葬された中世人骨は、通常、歯やわずかな骨片しか残存しない場合が多いのですが、ここでは、ほぼ全身骨格が残存しています。
人骨107体の内訳は、成人男性22体・成人女性25体・性別不明成人3体・未成年57体で、未成年が53%とほぼ半分を占めるのが特徴です。人骨の報告は、九州大学医学部(当時)の中橋孝博と永井昌文[1924-2001]により、1985年に出版された報告書で詳細に報告されています。
土坑墓に被葬者を埋葬する場合、以下のように、大きく3つに分かれます。この中で、伸展葬はあまり見ることがありません。私も、数例しか経験していません。座葬は、縦棺に納める場合に見られるもので、近世から多く認められます。全般的に、屈葬が圧倒的に多いというのが現状です。
- 伸展葬:全身を伸ばして寝たように埋葬する方法
- 座葬:座棺に埋葬する場合、座ったように埋葬する方法
- 屈葬:身体を強く曲げて、脚が胸につくように埋葬する方法
吉母浜遺跡では、107体の人骨が出土しましたが、葬法が確かめられた事例は92例でした。まず、伸展葬は認められませんでした。座葬は、3例が認められました。屈葬が圧倒的に多く、89例に及びます。
屈葬は、仰向けに埋葬する仰臥屈葬・横向きに埋葬する横臥(側臥)屈葬・俯せに埋葬する俯臥(伏臥)屈葬の3つに分かれます。また、横臥(側臥)屈葬の場合、右側を下にする方法と左側を下にする方法とがあります。
吉母浜遺跡での仰臥屈葬の事例は、45例が認められました。これは、全体の48.9%にあたります。
吉母浜遺跡1.仰臥屈葬の事例:LG68(成年男性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
吉母浜遺跡での横臥(側臥)屈葬の事例は、29例が認められました。これは、全体の31.5%にあたります。この内、右側を下にしたものは18例・左側を下にしたものは11例で、右側を下にしたものが多いという結果です。
吉母浜遺跡2.右側を下にした横臥(側臥)屈葬の事例:LG96(熟年女性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
吉母浜遺跡で特徴的なものは、俯せに埋葬する俯臥(伏臥)屈葬が多く認められたことです。全部で15例が認められました。これは、全体の16.3%にあたります。
吉母浜遺跡3.俯臥(伏臥)屈葬の事例:LG1(成年男性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
吉母浜遺跡4.俯臥(伏臥)屈葬の事例:LG4(成年女性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
俯臥(側臥)屈葬は、全国でもあまり事例が報告されておらず、私も数例しか経験した事がありません。私が知る限り、1つの遺跡としては、この吉母浜遺跡の事例が一番多いと思われます。被葬者の性別や年齢にも偏りが無く、どうしてこのように多いのかは不明です。
*吉母浜遺跡に関する資料として、以下の文献を参考にしました。
- 下関市教育委員会(1985)『吉母浜遺跡』、下関市教育委員会
- 中橋孝博・永井昌文(1985)「Ⅵ.人骨」『吉母浜遺跡』、下関市教育委員会、pp.154-225
吉母浜遺跡は、山口県下関市大字吉母に所在します。この遺跡は、1962年の第1次調査と1964年の第2次調査で、金関丈夫[1897-1983]を団長として調査が行われました。金関丈夫は当時、九州大学医学部を定年退官後、山口県立医科大学(現・山口大学医学部)に移籍していました。その後、1979年から1981年にかけて全部で8次にわたる調査が行われています。
この第1次調査と第2次調査により、弥生時代中期の人骨8体が出土し、その後、工事中に出土したもの3体をあわせて合計11体が出土しました。人骨の報告は、九州大学医学部(当時)の中橋孝博と永井昌文[1924-2001]により、1985年に出版された報告書で詳細に報告されています。
吉母浜遺跡1.弥生時代人骨出土状況[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
出土人骨11体の内訳は、成人男性5体・成人女性4体・未成年2体です。この人骨で特筆すべき特徴は、前頭縫合が成人9体中3体に認められたことです。前頭骨は、胎児や新生児では2つに分かれており、その間に前頭縫合があります。この前頭縫合は、通常、生後2年ぐらいで癒合して消失しますが、稀に、成人になっても癒合しない場合もあります。その比率は、報告者により異なりますが、日本人では約4.5%~約7.8%と報告されています。また、日本人頭骨研究班の報告では、現代畿内人男性に21.43%というのが最高の出現率で、通常は10%代かそれ以下でした。さらに、現代北九州人では男性6.32%、女性11.11%という報告もあります。
吉母浜遺跡2.吉母浜5号人骨前頭縫合(成人女性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
吉母浜遺跡3.吉母浜9号人骨前頭縫合(老年男性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
吉母浜遺跡4.吉母浜D1人骨前頭縫合(熟年女性)[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
ところが、この吉母浜遺跡出土弥生時代人骨の場合、観察可能な7体中3体にこの前頭縫合が認められたのです。母数が少ないのですが、出現率は43%にも達しており、報告者の中橋孝博と永井昌文は、「吉母浜弥生人の遺伝的特徴に関係する可能性も考えられる」と報告しています。
吉母浜遺跡5.吉母浜遺跡第1次調査スナップ[下関市教育委員会(1985)より改変して引用]
1962年の第1次調査と1964年の第2次調査には、団長の金関丈夫の息子で考古学者の金関 恕(現・天理大学名誉教授)も参加し、親子で調査した珍しい遺跡です。
*吉母浜遺跡の関する資料として、以下の文献を参考にしました。
- 下関市教育委員会(1985)『吉母浜遺跡』、下関市教育委員会
- 中橋孝博・永井昌文(1985)「Ⅵ.人骨」『吉母浜遺跡』、下関市教育委員会、pp.154-225