goo blog サービス終了のお知らせ 

人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

日本の人骨発見史20.北村遺跡(縄文時代):長野県で最大級の縄文時代人骨

2014年03月01日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 北村遺跡は、長野県安曇野市(調査時は、東筑摩郡明科町)に所在します。長野県教育委員会による発掘調査が、1987年から1988年にかけて行われました。この遺跡からは、縄文時代中期から縄文時代後期にかけての人骨が190体も出土しており、長野県で最大級の縄文時代人骨が発見されています。発掘報告書は、(財)長野県埋蔵文化財センターや長野県教育委員会による編で、1993年に『北村遺跡』として出版されました。

Kitamura1

図1.北村遺跡平面図の1つ[(財)長野県埋蔵文化財センター編(1993)『北村遺跡:図版編』を改変して引用]

 人骨が検出された墓坑は、合計279基ありました。この中で、埋葬姿勢が判明したものは117基・人骨と判断できる程度の部分骨が出土したものは51基・何らかの骨片が出土したものは111基です。埋葬姿勢が明かな135体の内訳は、屈葬が105体(77.8%)・伸展葬が2体(1.5%)で、屈葬が多いことが確認されました。

Kitamura2

写真1.取り上げられた北村遺跡SH1172人骨:胸部には猪の牙製の装身具が置かれている[(財)長野県埋蔵文化財センター編(1993)『北村遺跡:図版編』を改変して引用]

 ところが、人骨の多くは水分を含んだ焼き豆腐のような状態で、そのまま掘ると崩れてしまいそうでした。これは、海岸部の貝塚に埋葬されている縄文時代人骨や洞窟に埋葬されている縄文時代人骨とは明らかに異なる保存状態です。そこで、調査団は、埋葬状態が良いものについては、人骨の周囲を掘り下げ、段ボールや和紙で覆い、ウレタンフォームを流し込んで取り上げました。その後、人骨は約1ヶ月乾燥され、人類学報告を担当した獨協医科大学(当時・現京都大学名誉教授)の茂原信生の元に持ち込まれます。茂原信生は、解剖用メスで人骨を掘り出したり実測を行いました。また、保存のため、セメダインCを使って硬化させたそうです。

Kitamura3

写真2.研究室で解剖用メスを使い発掘中の茂原信生[(財)長野県埋蔵文化財センター編(1993)『北村遺跡:本文編』を改変して引用]

 人骨を報告した茂原信生によると、個体数は190体。性別は、男性51体(26.8%)・女性71体(37.4%)・不明68体(35.8%)でした。性別が判明した個体内では、男性41.8%・女性58.2%です。

 死亡年齢は、保存状態が悪いために歯の咬耗度で推定されました。その結果、新生児1体・幼児3体・少年少女7体・思春期19体・青年21体・壮年20体・熟年40体・老年7体・成人31体・不明41体という内訳で、熟年と老年を併せると47例(約40%)と、高齢が多いことが特筆されます。

 さらに、俗に虫歯と呼ばれる齲歯が少ない点が特徴的でした。東京大学(当時)の赤澤 威等による同位体による食性分析では、C3植物を多く摂取しているという結論が得られています。このC3植物として、クリ・トチ・コナラ等が推定されています。これにより、海岸部と異なり山岳部の縄文時代人の食性が明らかになりました。

 北村遺跡出土縄文時代人骨は、190体という長野県でも最大級の人骨が出土しました。実際には、1つの遺跡から出土した縄文時代人骨としては国内でも最大級だと言えるでしょう。それは、多くの関係者による努力の賜でした。

*北村遺跡出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • (財)長野県埋蔵文化財センター編(1993)『北村遺跡』
  • 茂原信生(1993)「第6章.人骨の形質」『北村遺跡』、pp.259-402
  • 赤澤 威・米田 穣・吉田邦夫(1993)「第8章.北村縄文人骨の同位体食性分析」『北村遺跡』、pp.445-468

日本の人骨発見史19.根古屋遺跡(弥生時代):穿孔歯と穿孔骨

2014年02月23日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 根古屋遺跡は、福島県伊達市(調査時は伊達郡霊山町)根古屋に所在します。この遺跡は、弥生時代の再葬墓で、霊山町教育委員会を主体とする発掘調査が、1982年10月から同年11月まで実施されました。報告書は、1986年に霊山根古屋遺跡調査団により、『霊山根古屋遺跡の研究』として出版されています。

 この遺跡では、25基の土坑から124個体以上の土器が出土し、100個体から200個体にものぼる焼人骨が出土しています。出土人骨の報告は、獨協医科大学(当時)の馬場悠男(現・国立科学博物館名誉研究員)・茂原信生(現・京都大学名誉教授)・阿部修二(現・獨協医科大学)・江藤盛治[1926-1999]等により行われました。

 馬場悠男等によると、人骨は900度以上の温度で焼かれており、収縮・変形・亀裂が著しい事から、白骨化した状態のものではなく、遺体の状態で焼かれたと推定されています。

 人骨には、歯や骨に穿孔を受けたものが16点発見されました。

 歯では、上顎右P2(第2小臼歯)・上顎右M3(第3大臼歯)・上顎左M3(第3大臼歯)・下顎左M1(第1大臼歯)・下顎左M2(第2大臼歯)の6本の歯種が同定されています。これらの歯は、歯冠部のエナメル質が熱により飛散しているため、被葬者が装身具として使用していた状態で遺体と一緒に焼かれたのかもしれません。

Negoya4

写真1.根古屋遺跡出土穿孔歯[馬場悠男等(1986)「第二編.根古屋遺跡出土の穿孔された人骨・歯装身具について」『霊山根古屋遺跡の研究』より改変して引用]

 骨では、右第4中手骨・左手第5中節骨・足基節骨・左足第5(4)基節骨・右足第3(4)基節骨・足第2(5)基節骨・足基節骨・右足第2中節骨の 8点が同定されています。

Negoya5

写真2.根古屋遺跡出土穿孔骨[馬場悠男等(1986)「第二編.根古屋遺跡出土の穿孔された人骨・歯装身具について」『霊山根古屋遺跡の研究』より改変して引用]

 この遺跡出土人骨には、上下顎の切歯及び犬歯に抜歯が認められています。しかし、興味深いことに、穿孔された歯はいずれも小臼歯又は大臼歯で、抜歯した歯を使用していません。この点は、群馬県で出土した穿孔歯も同様の傾向にあります。なぜ、抜歯した歯を使用せずに別の歯に穿孔したのかは不明です。

*根古屋遺跡出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 霊山根古屋遺跡調査団編(1986)『霊山根古屋遺跡の研究』
  • 馬場悠男・茂原信生・大竹憲治(1986)「第二編.根古屋遺跡出土の穿孔された人骨・歯装身具について」『霊山根古屋遺跡の研究』(霊山根古屋遺跡調査団編)、pp.114-120

日本の人骨発見史18.根古屋遺跡(弥生時代):東日本最大級の弥生時代再葬墓

2014年02月22日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 根古屋遺跡は、福島県伊達市(調査時は伊達郡霊山町)根古屋に所在します。この遺跡は、弥生時代の再葬墓で、霊山町教育委員会を主体とする発掘調査が、1982年10月から同年11月まで実施されました。報告書は、1986年に霊山根古屋遺跡調査団により、『霊山根古屋遺跡の研究』として出版されています。

Negoya1

写真1.根古屋遺跡の発掘調査風景[霊山根古屋調査団(1986)『霊山根古屋遺跡の研究』より改変して引用]

 この遺跡では、25基の土坑から124個体以上の土器が出土し、100個体から200個体にものぼる焼人骨が出土しています。出土人骨の報告は、獨協医科大学(当時)の馬場悠男(現・国立科学博物館名誉研究員)・茂原信生(現・京都大学名誉教授)・阿部修二(現・獨協医科大学)・江藤盛治[1926-1999]等により行われました。

 馬場悠男等によると、人骨は900度以上の温度で焼かれており、収縮・変形・亀裂が著しい事から、白骨化した状態のものではなく、遺体の状態で焼かれたと推定されています。縄文時代から弥生時代にかけて、東日本では再葬墓が多く発見されています。多くは、遺体を一旦埋葬してしばらく経ってから掘り出して、白骨化したものをそのまま土器に再埋葬したり、あるいは白骨化したものを焼いて土器に再埋葬する場合が多いのですが、その点で、この根古屋遺跡出土人骨は遺体をそのまま焼いたという点が異なります。

Negoya2

写真2.根古屋遺跡出土歯[馬場悠男等(1986)「第一編.根古屋遺跡出土の人骨・動物骨」『霊山根古屋遺跡の研究』より改変して引用]

 報告書の写真を見ると、歯の歯冠部が残存しています。もし、白骨化させたものを焼いた場合、エナメル質の歯冠部は熱で飛散してしまいます。この事から、遺体をそのまま焼いたために口腔内にある歯は十分な熱が伝わらずに残存したと推定されます。

Negoya3

写真3.根古屋遺跡出土四肢骨[馬場悠男等(1986)「第一編.根古屋遺跡出土の人骨・動物骨」『霊山根古屋遺跡の研究』より改変して引用]

 また、出土した四肢骨は、捻れ・歪み・亀裂等が認められ、この事からも白骨化したものを焼いたのではなく、遺体をそのまま焼いた事が推定されます。

 なお、この根古屋遺跡では、指の骨や歯に穿孔した事例も知られています。

*根古屋遺跡出土人骨について、以下の文献を参考にしました。

  • 霊山根古屋遺跡調査団編(1986)『霊山根古屋遺跡の研究』
  • 馬場悠男・茂原信生・阿部修二・江藤盛治(1986)「第一編.根古屋遺跡出土の人骨・動物骨」『霊山根古屋遺跡の研究』(霊山根古屋遺跡調査団編)、pp.93-113

日本の人骨発見史17.山下町第一洞穴(旧石器):日本最古の人骨

2014年02月16日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 山下町第一洞穴は、沖縄県那覇市山下町に所在します。1962年、当時琉球政府文化財保護委員会に勤務していた多和田真淳[1907-1990]の元に比嘉初子が訪ねてきました。比嘉初子達は洞穴を信仰しており、これまでに訪ねてきた1000箇所にも及び洞穴を天然記念物に指定してくれるよう頼んだのです。多和田真淳は、洞穴から人骨や獣骨が出土する場合がある事を説明して、もしそれらを発見した場合は連絡をしてくれるよう頼みます。やがて、比嘉初子達が山下町第一洞穴から発見したシカ(鹿)の化石を持参しました。

Yamashitacho1

写真1.山下町第一洞穴の遠景(矢印が洞穴開口部)

 この山下町第一洞穴は、標高約14m~15mに位置し、開口部はほぼ南西に面しており幅約1.2m・高さ約3.2mで、長さは約5.5mという小さい洞穴です。早速、琉球政府文化財保護委員会の多和田真淳と高宮広衛(現・沖縄国際大学名誉教授)は、1962年12月28日から同年12月31にかけて、洞穴の前半部約2.5mの発掘調査を行いました。この第1次調査では、叉状骨器(鹿)と石器(石弾・礫器)が発見されています。

 第2次発掘調査は、東京大学(当時)の渡邊直経[1919-1999]を団長とする第1次沖縄洪積世人類発掘調査団により、1968年12月26日から1969年1月6日まで発掘調査が行われました。この調査で、小児のものと推定される大腿骨・脛骨・腓骨が出土しています。洞窟内の堆積物は約3mで、表土のⅠ層からⅥ層にまで分けられ、第Ⅲ層と第Ⅴ層に木炭が多く認められたことから生活層だと推定されました。獣骨は、第Ⅳ層~第Ⅵ層からシカ(鹿)が出土しており、総計794点中、第Ⅳ層で442点・第Ⅴ層で334点が東京大学名誉教授の高井冬二[1911-1999]により報告されています。

Yamashitacho3

写真2.山下町第一洞穴第2次発掘調査の関係者[大山盛保生誕100年記念誌刊行会(2012)『通いつづけた日々』より改変して引用]

 この山下町第一洞穴出土人骨の報告は、発掘調査から14年経過した1983年に東京大学名誉教授(当時)の鈴木 尚[1912-2004]により、フランスのパリ人類学会誌に英文で発表され、同年に出版された『骨から見た日本人のルーツ』にも同様の内容が発表されました。

 鈴木 尚によると、人骨は石灰華に覆われて良く化石化しており、右大腿骨は約18cm(約17cmという記載もある)・右脛骨は約14cmで、復元すると右大腿骨は全長約26cm・右脛骨は全長約20cmと推定され、同一個体のもので性別不明の約7歳と推定されました。日本人の骨と比較すると、大腿骨後面にある大体骨稜が高く隆起しています。

Yamashitacho2

写真2.山下町第一洞穴出土人骨前面観(右大腿骨と右脛骨)

 1996年に、アメリカのニューメキシコ大学のエリック・トリンカウス(Erik TRINKAUS)とジョンズ・ホプキンス大学のクリストファー・ラフ(Christopher B. RUFF)により、再検討が行われました。彼らによると、右大腿骨の最大長は約24.5cm・左脛骨は約21.8cmと推定されるとし、死亡年齢は約6歳と報告しています。また、X線検査により右脛骨には成長遅滞を示すハリス線が3本認められました。さらに、形態からはホモ・サピエンスでは無く、古代型ホモ・サピエンスであると推定しています。

 2007年に新潟の日本歯科大学で開催された第61回日本人類学会では、沖縄県立博物館の藤田祐樹等によって、山下町第一洞穴出土人骨の再検討が行われました。藤田祐樹等によると、石灰華をクリーニングし、主に縄文時代人骨と比較するとほとんどの計測項目で縄文時代人骨と変わらない事が判明し、トリンカウスとラフが提唱したような古代型ホモ・サピエンスではなく、ホモ・サピエンスであると結論づけられています。

 2011年には、東京大学総合研究博物館の諏訪 元等により、東京大学総合研究博物館に所蔵されている標本を再検討した結果、右大腿骨の遠位部が発見されたと報告されています。

 なお、山下町第一洞穴の年代測定は、第Ⅲ層及び第Ⅴ層から出土した木炭からおこなわれており、32,100±1,000B.P.(TK-78)と測定されており、現時点(2014年1月)では日本国内最古の人骨になります。最近話題となっている石垣島から出土した、白保竿根田原遺跡出土人骨は、約26,000年前と測定されています。山下町第一洞穴は人骨から直接年代測定を実施していませんが、白保竿根田原遺跡は人骨から直接年代測定を行っており、直接測定した人骨としては最古となります。

 ただ、発見されたと報告された腓骨については、未だに記載が無く、人骨だったのか獣骨だったのかもわかりません。

 なお、この山下町第一洞穴は私有地内にあり訪問する際に不便でしたが、現在、公園整備が行われており2014年度中にも完成するそうです。

*山下町第一洞穴出土人骨について、以下の文献を参考にしました。

  • 高宮広衛・金武正紀・鈴木正男(1975)「那覇山下町洞穴発掘経過報告」『人類学雑誌』、第83巻第2号、pp.125-130
  • 高宮広衛・玉城盛勝・金武正紀(1975)「山下町洞穴出土の人工遺物」『人類学雑誌』、第83巻第2号、pp.137-150
  • 高井冬二(1975)「山下町第1洞発見の鹿化石」『人類学雑誌』、第83巻第3号、pp.280-293
  • 渡辺直経(1980)「沖縄における洪積世人類遺跡」『第四紀研究』、第18巻第4号、pp.259-262
  • H. SUZUKI[鈴木 尚](1983)「The Yamashita-cho Man: A late Pleistocene infantile skeleton from the Yamashita-cho Cave (Okinawa)」『Bull. et Mem. de la Soc. d'Anthrop de Paris』、t10・serieⅩⅢ、pp.81-87
  • 鈴木 尚(1983)『骨から見た日本人のルーツ』、岩波書店(岩波新書)
  • Erik TRINKAUS & Christopher B. RUFF(1996)「Early modern human remains from eastern Asia: the Yamashita-cho 1 immature postcrania」『Journal of Human Evolution』、30: 299-314
  • 楢崎修一郎・馬場悠男・松浦秀治・近藤 恵(2000)「日本の旧石器時代人骨」『群馬県立自然史博物館研究報告』、第4号、pp.23-46
  • 藤田祐樹・水嶋崇一郎・近藤修・海部陽介 (2007)「山下町第一洞穴人と縄文人の形態比較」[第61回日本人類学会大会、新潟、10月7日]
  • 楢崎修一郎(2010)「日本の更新世人骨の現状と課題」『古代文化』、第62巻第3号、pp.19-38
  • 諏訪 元・藤田祐樹・山崎真治・大城逸朗・馬場悠男・新里尚美・金城 達・海部陽介・松浦秀治(2011)「港川フィッシャー遺跡(沖縄県八重瀬町)の更新世人骨出土情報に関する新たな知見」『Anthropological Science (Japanese Series)』、第119巻第2号、pp.125-136
  • 大山盛保生誕100年記念誌刊行会(2012)『通いつづけた日々』、大山盛保生誕100年記念誌刊行会

日本の人骨発見史16.鎌倉材木座(中世):日本初の最大級の中世人骨

2014年02月15日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 1953年1月、東京大学理学部人類学教室の人類学者・鈴木 尚は、研究室にいました。そこへ、学生の岩本光雄(現・京都大学名誉教授)が訪ねてきて、1月8日付けの「毎日新聞」を差し出しました。鈴木 尚は、その新聞を読むと目が釘付けになりました。そこには、鎌倉在住で『ビルマの竪琴』を執筆したことで有名な独文学者の竹山道雄[1903-1984]の自宅の裏山から人骨が出土したことが書かれていたのです。早速、鈴木 尚は、竹山家を訪問し、竹山の母親から1935年頃に多数の人骨が出土し、九品寺に無縁仏として埋葬されたという情報を得ました。早速、九品寺を訪ねるとその通りの情報がえられましたが、住職の代も変わっていて正確な場所は不明との返答を得ます。鈴木 尚は、それらが、鎌倉時代の人骨に違いないと確信し、鎌倉付近を歩き回りました。すると、簡易裁判所建設予定地の地表面に多くの人骨片が散乱していることに気付きます。

 鈴木 尚は、早速、東京大学理学部人類学教室主体で発掘調査を行うことにし、1953年の5月と10月及び1956年3月の3回にわたり材木座で発掘調査を行いました。

Zaimokuza1

写真1.1956年の第3次調査で出土した集積墓(209個の頭蓋骨が出土)[日本人類学会編(1956)『鎌倉材木座発見の中世遺跡とその人骨』より改変して引用]

 東京大学理学部人類学教室による3回の発掘調査で、合計約910体の人骨が出土しました。これらは、通常の土に埋められた人骨とは異なり、砂浜に埋められていたため保存状態が非常に良いことが特筆されます。

 人骨の多くには刀創が認められ、歴史学者の三上次男[1907-1987]により、1333(元弘3)年の新田義貞による鎌倉攻めの際の死者であることが判明しました。

 材木座遺跡出土人骨は、1951年に東京大学医学部解剖学教室の骨格標本室で発見した、鍛冶橋出土の室町時代人骨と同様に、頭が前後の方向に長い長頭型で、鼻は低く、反っ歯(歯槽性突顎)でした。頭蓋骨は、半数以上の54.2%が長頭型でした。

Zaimokuza2

写真2.鎌倉材木座No.27頭蓋骨前面観[日本人類学会編(1956)『鎌倉材木座発見の中世遺跡とその人骨』より改変して引用]

Zaimokuza3

写真3.鎌倉材木座No.27頭蓋骨上面観(前後に長い長頭型)[日本人類学会編(1956)『鎌倉材木座発見の中世遺跡とその人骨』より改変して引用]

Zaimokuza4

写真4.鎌倉材木座No.27頭蓋骨左側面観(反っ歯・歯槽性突顎)[日本人類学会編(1956)『鎌倉材木座発見の中世遺跡とその人骨』より改変して引用]

 この報告は、1956年に『鎌倉材木座発見の中世遺跡とその人骨』として、岩波書店から出版されました。報告書は、当初、東京大学理学部人類学教室編として出版される予定でしたが、直前に日本人類学会編として出版するように進言したと、日本人類学会会長(当時)の長谷部言人[1882-1969]により書かれています。

 東京の鍛冶橋出土室町時代人骨とこの鎌倉材木座出土鎌倉時代人骨を発見した事で、鈴木 尚は、中世時代人骨が他の時代の人骨と異なる形質を持っていると確信し、頭の形は時代と共に変化すると発表します。当時、日本の人類学会では頭の形が時代と共に変化するという意見は全くとりいれられず、鈴木 尚は孤立しました。しかし、その後、日本各地で出土した中世時代人骨がこの鎌倉材木座出土人骨と同様の形質を持つことが判明し、今では、鈴木 尚の説が正しかったことが証明されています。

*鎌倉材木座出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 日本人類学会編(1956)『鎌倉材木座発見の中世遺跡とその人骨』、岩波書店
  • 鈴木 尚(1960)「鎌倉の人骨群」『骨』、学生社、pp.120-143
  • 鈴木 尚(1962)「Ⅱ.鎌倉時代の戦士」『日本人の骨』、岩波書店(岩波新書)、pp.36-52
  • 鈴木 尚(1996)「6.鎌倉材木座の中世人骨群」『改訂新版・骨』、学生社、pp.120-142

日本の人骨発見史15.鍛冶橋人骨(中世):日本人の小進化研究の契機

2014年02月09日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 1951年7月、東京大学理学部(当時)の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]は、東京大学医学部解剖学教室の骨格標本室で21個の頭蓋骨を前にして頭をひねっていました。その頭蓋骨は、これまで見慣れていた現代日本人骨や縄文時代人骨とは異なり、頭を上から見ると前後に長い長頭型で、鼻は低く、反っ歯(歯槽性突顎)だったのです。鈴木 尚は、これらの頭蓋骨は、東南アジア出土のものだと考えました。

Kajibashi1

写真1.東京大学医学部解剖学教室の標本室[鈴木 尚(1963)『日本人の骨』より改変して引用]

 翌年の1952年5月、鈴木 尚は、再び東京大学医学部解剖学教室の骨格標本室を訪問しました。頭蓋骨をさらに詳しく観察すると、麻紐がつけられていることに気付きます。この麻紐は、荷札のように頭蓋骨の発見場所等を記載する標本カードがつけられていたものだろうと推測しました。鈴木 尚は、頭蓋骨を番号順に並べてみましたが、23個あるはずのものが、何故か、18番と21番の2個の頭蓋骨が見当たりません。早速、戸棚を調べると、この2個の頭蓋骨を発見することができました。この2個には、まだ標本カードがついていたのです。

 そこには、鈴木 尚の人類学の恩師の小金井良精[1859-1944]の筆跡で「大正二年十月に東京市鍛冶橋回収工事の際に濠の底から発見され、神保小虎氏から入手」と書かれていました。恩師の小金井良精はすでに8年前に死去していましたが、その筆跡は見慣れたものでした。神保小虎[1867-1924]は、帝国大学理科大学の地質学者で、やはりすでに死去しています。鍛冶橋は、江戸城の外濠にかけられた鍛冶橋を意味しました。

 せっかく、手掛かりを発見しましたが、その関係者2人はすでに死去しており、直接確かめることができません。頭蓋骨の計測値は、現代日本人骨とも古墳時代人骨とも異なっています。鈴木 尚は途方にくれました。しかし、手掛かりは頭蓋骨そのものにありました。3個の頭蓋骨に梅毒の痕跡を見つけたのです。梅毒は、1512年にヨーロッパから西日本に到達し、1563年から1564年にかけて「唐カサ」として蔓延したことが文献の記録で判明しました。また、鎌倉時代人骨にはこの梅毒の痕跡は認められていません。すると、この鍛冶橋人骨は、少なくとも室町時代中期以後と推定されます。

Kajibashi2skull

写真2.鍛冶橋出土人骨頭蓋骨[鈴木 尚(1963)『日本人の骨』より改変して引用]

 明治時代以来、日本人の骨の研究は、主に縄文時代人骨・古墳時代人骨・現代日本人骨の3集団を用いて行われてきました。これは、縄文時代人骨と古墳時代人骨の残存状態が良かったためです。何故、縄文時代人骨と古墳時代人骨の残存状態が良かったかというと、縄文時代人骨は貝塚に埋葬されることが多くその貝殻のカルシウムが、古墳時代人骨は石室に埋葬されることが多く土と触れないために比較的良く保存されていました。ちなみに、東京の寺院の墓地跡でも中世人骨や近世人骨が良い残存状態で発見されますが、これは、長い間水に浸かっていたからです。

 このようにして、室町時代人骨は、低顔・広鼻・鼻根の幅が広くて隆起が弱い・反っ歯(歯槽性突顎)・長頭という形質が明らかになりました。

Kajibashi3

写真3.人骨を研究中の鈴木 尚[鈴木 尚(1960)『骨』のカバーより改変して引用]

 鈴木 尚は、さらに、1953年に鎌倉材木座で発掘調査を行い、鎌倉時代人骨約910体を発見し、空白であった時代の人骨の研究を行います。このように、鍛冶橋人骨と材木座人骨は、日本人の小進化研究の契機となりました。

*鍛冶橋人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 鈴木 尚(1960)『骨』、学生社
  • 鈴木 尚(1963)『日本人の骨』、岩波書店(岩波新書)
  • 楢崎修一郎(2006)「付論2.中世人骨の研究」『出土資料から見た東毛の戦国時代』、笠懸野岩宿文化資料館第41回企画展図録、p.5

日本の人骨発見史14.日本橋人・日比谷人:幻の東京初の旧石器時代人骨

2014年02月08日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 東京都内でビル建設ブームが起きていた1951年3月9日の正午頃、東京都中央区日本橋室町の三井別館建設工事現場で、ある人骨が発見されました。この人骨の発見の第一報は、早稲田大学(当時)の直良信夫[1902-1985]へ届きます。直良信夫は、昼食中でした。しかし、第一報から約1時間20分後、直良信夫は居合わせた立教大学の石嶋 渉[1906-1980]と共に、工事現場を訪問しました。二人の目の前には、下肢部が失われた人骨が横たわっていました。

Nihonbashijin1

写真1.日本橋人の出土地点:赤丸が人骨発見地点[直良信夫(1965)『古代人の生活と環境』]

 直良信夫は、この遺骨は漂着遺体と推定し、下部有楽町貝層から出土していることから、更新世であると考えて、発見地の地名から、ホモ・ニッポンバシエンシス(Homo nipponbashiensis)、つまり、「日本橋人」と命名しました。この時の事情は、直良信夫と親しい間柄にあった人類学者の清野謙次[1885-1955]の『故清野謙次先生記念論文集第三輯:随筆・遺稿』に、「将来或は第二、第三の古代人骨が東京から発掘せられるかも知れぬと思ったので、此女性人骨を日本橋人類とするがよいと思った。」と書かれています。実際、1951年3月25日と同年4月7日には、東京都日比谷の日活国際会館の工事中に人骨4体が発見され、「日比谷人」と命名されました。1951年当時、日本国内で古いと考えられていた人骨には、「明石」と「葛生」があり、どれも直良信夫が関わっていました。

Nihonbashijin2

写真2.日本橋人の頭蓋骨左側面観[直良信夫(1954)『日本旧石器時代の研究』より改変して引用]

 直良信夫は、この報告を1951年に『武蔵野手帖』に発表しました。また、清野謙次は、1954年に出版された『人類の起源』の改訂版で、日本橋人骨について計測値も掲載して報告しています。

 ところが、東京大学の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]は、1956年に発表した論文で「いわゆる日本橋人類は発見地層のほかプログナート(註:突顎)を有力な根拠として縄文時代以前に由来すると見なしたが、私が実見した所では本人骨のプログナートは上・下顎ともに中世および近世のものと同型であって、いわゆる、Alveolare Prognathise(註:歯槽性突顎)に属し、古人骨のプログナートとは区別さるべきで、単に「そっぱ(註:反っ歯)」であるに過ぎない。又頭骨の大さ(註:ママ)は歴史時代日本人女性の変異内にあり矮小人種を考える必要はない。本人骨の形質には全体として石器時代人的な何らの特徴がないのみならず、中世又は近世初に由来する頭骨の形態に類似しているところから、私は恐らくこれらの時代に属する人骨と見倣している。」と注に書いています。

 清野謙次は、多数の縄文時代人骨と古墳時代人骨の報告を行ってきましたが、中世人骨や近世人骨の報告は行っていません。そもそも、日本人の起源の問題は、保存状態が良い縄文時代人骨と古墳時代人骨を現代日本人骨と比較する事で行われてきました。鈴木 尚は、この日本橋人骨が発見された年の1951年7月に東京大学医学部解剖学教室の骨格標本室で奇妙な人骨を見て、それは、東南アジア出土のものだと考えました。ところが、後にこれは大正時代に鍛冶橋で出土した中世の室町時代人だと判明しています。

 1954年頃から、都内で多数出土した近世人骨を研究した、東京慈恵会医科大学の河越逸行[1903-1977]が出版した『掘り出された江戸時代』には、「埋葬の深さも、当時は身分によって異なり、一般庶民は約一メートルぐらい、それより身分が高くなるにつれ、深くなっている。その一例として、三百石以上は約二メートル、家老は約二メートル半、殿様は約三メートルぐらいともいわれる。」とあります。

 恐らく、この日本橋人も日比谷人も、中世か近世の人骨だと考えられます。しかし、これらを古いと考えた直良信夫や清野謙次を責めることはできません。1951年当時は、後に日本人の時代的変化をまとめた鈴木 尚でさえ、とても日本人では無く東南アジア人だと考えていたのです。直良信夫や清野謙次は、縄文時代人骨や古墳時代人骨については深い知識と経験を持っていましたが、さすがに、歴史時代人骨については知らなかったのです。

 この日本橋人は、実は、現在所在が不明です。直良信夫によると、ある弟子が南山大学に持っていったままだそうです。この日本橋人と日比谷人の問題に決着をつけるには、その所在を確かめて、年代測定や形態の再検討が必要でしょう。

*日本橋人と日比谷人について、以下の文献を参考にしました。

  • 直良信夫(1951)「日本橋人類について」『武蔵野手帖』、2
  • 清野謙次(1954)『人類の起源』、弘文堂(アテネ新書)
  • 鈴木 尚(1956)「縄文時代人骨」『日本考古学講座3.縄文文化』、河出書房、pp.353-375
  • 鈴木 尚(1963)『日本人の骨』、岩波書店(岩波新書)
  • 河越逸行(1975)『改訂増補版・掘り出された江戸時代』、雄山閣出版
  • 直良信夫(1981)『学問への情熱』、佼成出版社
  • 直良信夫(1985)「日本橋人類について」『日本旧石器人の探究』、六興出版、pp.168-173
  • 春成秀爾(1985)「解説」『日本旧石器人の探究』(直良信夫)、六興出版、pp.331-353

日本の人骨発見史13.帝釈峡遺跡群:幻の帝釈原人

2014年02月02日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 帝釈峡遺跡群は、広島県庄原市と神石郡にまたがる地域に所在します。この遺跡群は、1961年9月10日に馬渡林道工事の際に発見され、1961年11月1日に試掘調査が行われました。1962年8月から発掘調査が始められ現在でも調査が継続されています。この一帯は石灰岩地帯で、洞窟遺跡が多く発見されており、馬渡岩陰遺跡・寄倉岩陰異性・猿穴岩陰遺跡・猿神岩陰遺跡・名越岩陰遺跡等が著名ですが、人骨は、寄倉遺跡・猿神遺跡・名越遺跡・穴神遺跡・豊松堂面遺跡・観音堂遺跡で発見されており、多くは、縄文時代のものです。

 この帝釈峡遺跡群は、広島大学文学部考古学教室に設けられた「帝釈峡遺跡群発掘調査団」により1975年まで調査が行われ、1976年からは「帝釈峡遺跡群発掘調査室」により現在に至るまで調査が行われています。団長は、長い間、松崎寿和[1913-1986]が務めました。

Taishakukyokannondo1

写真1.帝釈峡遺跡群観音堂洞窟外観[松崎寿和(1976)『帝釈峡遺跡群』より改変して引用]

 帝釈峡遺跡群の発掘調査の特徴として、多くの人類学者が参加している事が特筆されます。発掘調査に参加した人類学者は、1976年時点で、あいえお順に、池田次郎[1922-2012]・遠藤萬里・小片 保[1916-1980]・金関丈夫[1897-1983]・鈴木 尚[1912-2004]・永井昌文[1924-2001]・渡辺直経[1919-1999]の名前が認められます。

Taishakukyokannondo2

写真2.帝釈峡遺跡群観音堂洞窟内部[松崎寿和(1977)『帝釈原人』より改変して引用]

 観音堂洞窟の第11次調査中の1974年8月11日、観音堂洞窟のGE区第25層のB層から骨が出土しました。 この場所は、地表から約9m下にあり、長さ150mm・重さ113gの化石化した骨が露出し、この骨は、「鹿の骨」と記録されて取り上げられました。そこに、新潟大学医学部(当時)の小片 保[1916-1980]が現れます。小片 保は、午前中、帝釈峡遺跡群の戸宇牛川岩陰遺跡の調査を行っていましたが、新潟に帰る途中で立ち寄ったのです。

Taishakukyokannnodo3

写真3.帝釈峡遺跡群観音堂洞窟「帝釈観音堂人第1号」出土状況[松崎寿和(1976)『帝釈峡遺跡群』より改変して引用]

 小片 保は、「いや、大変なものが出ましたね。これは人骨ですよ。」と言い、左大腿骨の可能性が高いとして、6点を勤務先の新潟大学医学部に持ち帰りました。1974年当時、日本の旧石器時代人骨は、「葛生」・「日本橋」・「三ヶ日」・「浜北」・「牛川」・「明石」・「聖嶽」・「港川」しか知られておらず、この帝釈観音堂人第1号が9遺跡目になると期待されました。やがて、この骨は、年代測定を行う必要性から、1974年9月24日に東京大学(当時)の渡辺直経[1919-1999]の元に預けられます。年代測定は、弗素法により行われることになりました。その後、小片 保が渡辺直経を訪問し、人骨の形態について説明します。この骨の疑問点として、一面を石灰華で覆われているが、彎曲が強いことや一部石灰華がはがれた表面に1・2の小さな隆起がある点でした。しかし、その点を除くとほとんどが左大腿骨の形態と似ており、栄養孔も認められたと言われています。

 ところが、古生物学者の長谷川善和が石灰華を取り除くクリーニングを行っていると、ニホンジカの角の表面にみられる顆粒状彫刻紋様が出現したため、1979年11月に小片 保・山口 敏・長谷川善和の3人で検討し、人骨ではなく、ニホンジカの左角の第1・第2枝間の角幹であるという結論に達しました。この結論は、小片 保自身により発表される予定でしたが、1980年1月26日に小片 保が急性心不全で急逝したため、1981年3月に出版された『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』に発表されました。この中には、念のため小泉政啓による組織学検査も行われ、シカの角であるという結果も掲載されています。

 小片 保は、新潟医科大学(現・新潟大学医学部)及び東京大学理学部人類学科を卒業しており、人骨には詳しいはずです。1973年に出版された『考古学ジャーナル』第80号には、「人骨の研究法」という論文も発表し、その中で、シカを含む獣骨と人骨の違い等にも言及しています。渡辺直経は、前出の年報に「鑑定を誤らせたのは標本を覆っていた石灰華の被膜であり、慎重の余りこれを速やかに除去するのに躊躇したのは、結果からみて不覚であり不幸であったというほかはない。」と書いています。

 この事から、私たちが学べることは、骨を覆った石灰華は速やかに除去した上で形態を再検討する必要があるということでしょう。また、場合によっては、古生物学者や動物考古学者との連携が必要だと考えられます。帝釈峡から出土した骨は、私たちに大きな教訓を与えてくれました。

*帝釈峡出土人骨について、以下の文献を参考にしました。

  • 小片 保(1973)「人骨の研究法」『考古学ジャーナル』、第80号、pp.7-13
  • 松崎寿和(1975)『帝釈原人』、学生社
  • 松崎寿和編(1976)『帝釈峡遺跡群』、亜紀書房
  • 小片 保(1976)「Ⅲ.帝釈峡遺跡群人骨略報」『帝釈峡遺跡群』(松崎寿和編)、亜紀書房、pp.193-200
  • 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室(1981)『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』
  • 小泉政啓(1981)「Ⅴ.帝釈観音堂人第1号について、1.帝釈観音堂人第1号の組織学的観察」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』(広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室編)、pp.95-98
  • 長谷川善和・山口 敏(1981)「Ⅴ.帝釈観音堂人第1号について、2.帝釈観音堂人第1号の再検討」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』(広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室編)、pp.99
  • 渡辺直経(1981)「Ⅴ.帝釈観音堂人第1号について、3.帝釈観音堂人第1号の鑑定について」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』(広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室編)、pp.100-101
  • 篠崎義博(1983)「帝釈峡遺跡群」『日本の遺跡発掘物語1.旧石器時代』(森 浩一編)、社会思想社、pp.225-250
  • 潮見 浩(1999)『帝釈峡遺跡群』、吉備人出版
  • 楢崎修一郎・馬場悠男・松浦秀治・近藤 恵(2000)「日本の旧石器時代人骨」『群馬県立自然史博物館研究報告』、第4号、pp.23-46
  • 河瀬正利(2007)『中国山地の縄文文化:帝釈峡遺跡群』、新泉社

日本の人骨発見史12.夜見ヶ浜人:山陰地方初の旧石器時代人?

2014年02月01日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 1969年12月5日、鳥取県境港市外江町にある新日本合板株式会社(現・日新林業株式会社新日本工場)の敷地で機会台を設置するためにコンクリートの床堀りが行われました。その時、錦織文英が人骨を発見します。

 この人骨は、翌年の1970年に早稲田大学理工学部教授であった、直良信夫[1902-1985]の元へ届けられました。人骨は、下顎骨の左部分で、第1大臼歯と第2大臼歯が植立している状態でした。直良信夫は、地表下約6mの海成小砂層から出土したこの人骨の時代を、上部洪積世(更新世)と推定しています。また、原人級ではなく、新人Homo sapiensのものと推定しました。直良信夫は、この人骨を、発見地の地名をとって「夜見ヶ浜人」と命名しました。

Yomigahama1

写真1.夜見ヶ浜人(下顎骨左側面観)[Naora(1972)より改変して引用]

Yomigahama2

写真2.夜見ヶ浜人(下顎骨咬合面観)[Naora(1972)より改変して引用]

 直良信夫は、1972年に出版した『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』に、和文と英文で、この夜見ヶ浜人について記載しています。ちなみに、この本は、直良信夫が古稀になって早稲田大学を定年退職するのを記念して出版されたものです。

 直良信夫は、この夜見ヶ浜人は、50歳前後の女性のものと推定しました。

 夜見ヶ浜人は、その後、再研究のために東京大学(当時)の埴原和郎[1927-2004]に預けられていましたが、直良信夫が死去した後で早稲田大学から返還を要求され、再研究結果は発表されないままになっています。埴原和郎は、著書の『日本人の成り立ち』の中で、「この骨は一時私に研究を託されたことがあるが、データ収集などの準備をしている時に直良が世を去り、その直後に早稲田大学から返還を要求された。私の印象のみをいえば、化石化が進み、少なくとも縄文人の古いタイプを思わせる形だった。しかしその後研究の機会は失われた。」と書いています。

 実は、1990年代初頭に、私は人類学者の馬場悠男先生と早稲田大学理工学部を訪問し、人骨の所在を調べていただいたことがあります。しかし、その人骨の所在を確かめることはできませんでした。

 この夜見ヶ浜人は、年代測定も行われておらず、所在も行方不明であるため決定的な事はわかりません。現時点では、埴原和郎が指摘しているように、縄文時代人なのかもしれないという事しかわかっていません。将来的に、所在を確かめて形態学及び年代学から再検討が必要でしょう。

*夜見ヶ浜人について、以下の文献を参考にしました。

  • 直良信夫(1972)「鳥取県境港市発見の人骨」『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』、pp.161-166
  • NAORA, Nobuo(1972)「Evidence of Upper Pleistocene Hominid from Western Japan」『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』、pp.193-197
  • 直良信夫(1985)『日本旧石器人の探究』、六興出版
  • 埴原和郎(1995)『日本人の成り立ち』、人文書院
  • 楢崎修一郎・馬場悠男・松浦秀治・近藤 恵(2000)「日本の旧石器時代人骨」『群馬県立自然史博物館研究報告』、第4号、pp.23-46
  • 楢崎修一郎(2010)「日本の更新世人骨の現状と課題」『古代文化』、第62巻第3号、pp.19-38

日本の人骨発見史11.三貫地貝塚(縄文):福島県最大級の縄文時代人骨出土遺跡

2014年01月25日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 三貫地貝塚は、福島県相馬郡新地に所在します。この遺跡は、縄文時代後期から晩期の貝塚で、小規模な発掘と2度にわたる大規模な発掘調査で100体を超える縄文時代人骨が出土しました。

 大規模調査は、以下のように2度行われています。

  • 1952年3月26日~同年4月4日:日本考古学協会の縄文文化編年研究特別委員会が、甲野 勇[1901-1967]を調査責任者として実施
  • 1954年10月25日~同年10月31日:東京大学理学部人類学教室の鈴木 尚[1912-2004]を調査責任者として実施

 この発掘調査の全容は、調査から30年以上経過した1988年に、『三貫地貝塚』として福島県立博物館から出版されました。

Sanganji1

写真1.三貫地貝塚の発掘調査風景(1952年)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

 2回にわたる大規模発掘調査では、縄文時代人骨が約100体以上出土しましたが、その多くが合葬あるいは再埋葬であり、単体の埋葬は29体でした。残念ながら、発掘調査報告書が出版されるまでに30年以上経過しているために、資料が紛失したり別のラベルがつけられていたりと整理作業はかなりの困難を極めたそうです。

Sanganji2

写真2.三貫地貝塚の縄文時代人骨の出土状況(1952年)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

 報告書に記載されている人骨数は、以下の通りです。

◎1952年調査

  • 総数:36体
  • 性別:男性17体・女性17体・男性?1体・女性?1体
  • 死亡年齢:男性18体(若年3体・青年3体・壮年8体・熟年4体)・女性18体(青年2体・壮年12体・熟年4体)

◎1954年調査

  • 総数:37体
  • 性別:男性22体・女性11体・不明5体
  • 死亡年齢:男性22体(若年1体・青年2体・壮年13体・熟年1体・若年~壮年1体・青年~壮年1体・壮年~熟年1体・不明2体)・女性11体(若年1体・壮年6体・青年~壮年3体・不明1体)

 人骨の埋葬形態は屈葬が多いのですが、中には伸展葬・合葬・集積埋葬も認められています。人骨の形態は、頭蓋観察を鈴木隆雄(10例)・頭蓋計測を埴原和郎と内田亮子・歯を松村博文・頭骨の形態小変異を百々幸雄・四肢骨を馬場悠男(最大30例)・古病理学を鈴木隆雄・埋葬状態を埴原和郎が報告しています。

 頭蓋骨や歯の多変量解析による分析では、三貫地貝塚出土縄文時代人骨は、東北圏よりも関東圏や中部日本の縄文人ともかなり強い類似性を持つことが示唆されています。また、頭骨の形態小変異では、前頭縫合の出現率が高く、34.2%と約1/3にも達しており、東日本縄文人全体の11.1%と比べてもその特異性が明らかになっています。

Sanganji3

写真3.三貫地貝塚22号人骨出土状況(壮年男性)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

Sanganji4

写真4.三貫地貝塚22号人骨頭蓋骨前面観(壮年男性)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

Sanganji5

写真5.三貫地貝塚22号人骨右側面観(壮年男性)[福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』より改変して引用]

 この三貫地貝塚の発掘調査には、甲野 勇[1901-1967]・酒詰仲男[1902-1965]・吉田 格[1920-2006]・芹沢長介[1919-2006]・江坂輝彌・岡本 勇[1930-1997]・伊東信雄[1908-1987]等が発掘調査に参加しており、考古学及び人類学史上で著名な遺跡です。

*三貫地貝塚に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 福島県立博物館(1988)『三貫地貝塚』
  • 鈴木隆雄(1988)「第11章第1節.頭蓋・頭蓋観察」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.416-427
  • 埴原和郎・内田亮子(1988)「第11章第1節.頭蓋・頭蓋計測」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.427-434
  • 松村博文(1988)「第11章第1節.頭蓋・歯牙」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.434-438
  • 百々幸雄(1988)「第11章第1節.頭蓋・頭骨の形態小変異」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.439-443
  • 馬場悠男(1988)「第11章第2節.四肢骨」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.443-480
  • 鈴木隆雄(1988)「第11章第3節.古病理学的所見」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.481-492
  • 埴原和郎(1988)「第11章付編.埋葬状態」『三貫地貝塚』、福島県立博物館、pp.492-494

日本の人骨発見史10.一の谷中世墳墓群(中世):日本最大級の火葬遺構

2014年01月19日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 一の谷中世墳墓群は、静岡県磐田市に所在します。磐田市教育委員会による発掘調査が、1984年6月から1988年12月まで実施されました。1,249基の遺構が発見され、墓888基・火葬遺構46基・集石遺構104基・土坑197基等が検出されています。

 これらの遺構から、鎌倉時代中期~室町時代の人骨467体が出土しました。これらの人骨は火葬人骨で、国内でも最大級の火葬遺構だと推定されます。出土人骨の報告は、聖マリアンナ医科大学(当時)の森本岩太郎[1928-2000]・現聖マリアンナ医科大学の平田和明・現順天堂大学の工藤宏幸により報告されています。

 森本岩太郎等による分析では、成人骨348体・小児人骨32体・性別及び年齢不明人骨87体の合計467体にものぼりました。この内、成人骨で性別推定ができた92体の内訳は、男性60体・女性32体でした。また、死亡年齢が推定できた36体の内訳は、壮年13体・熟年21体・老年2体でした。

Ichinotani1

写真1.一の谷中世墳墓群450号墓(左)と451号墓[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

Ichinotani2

写真2.一の谷中世墳墓群450号墓近接[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

Ichinotanino4501

写真3.一の谷中世墳墓群450号墓出土火葬人骨:頭蓋骨片[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

Ichinotanino4502

写真4.一の谷中世墳墓群450号墓出土火葬人骨:四肢骨片[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

Ichinotani3

写真5.一の谷中世墳墓群451号墓近接[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

Ichinotanino451

写真6.一の谷中世墳墓群451号墓出土火葬人骨[磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群』より改変して引用]

 この一の谷中世墳墓群出土火葬人骨を観察すると、骨に歪み・捻れ・亀裂が認められるため、白骨化させたものを火葬にしたのではなく、死体をそのまま火葬にしたと推定されます。また、すべての部位が検出されていないので、火葬後に、収骨(拾骨)していることも推定されます。状況からは、別の場所で火葬を行い一部を収骨(拾骨)して、墓に埋葬した火葬墓でしょう。

*一の谷中世墳墓群に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 磐田市教育委員会(1993)『一の谷中世墳墓群遺跡』、磐田市教育委員会
  • 森本岩太郎・平田和明・工藤宏明(1993)「一の谷中世墳墓群遺跡出土人骨について」『一の谷中世墳墓群遺跡:本文編』、磐田市教育委員会、pp.471-503

日本の人骨発見史9.石田光成の骨(中世):敗軍の将の骨

2014年01月13日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 関ヶ原の戦いで有名な石田三成[1560-1600]は、永禄3(1560)年に生まれました。やがて、豊臣秀吉[1537-1598]に仕えて佐和山19万石の城主となり五奉行の1人になります。秀吉没後の慶長5(1600)年9月15日(10月21日)には、関ヶ原の戦いが行われ、石田三成は西軍の中心人物として五大老の1人であった毛利輝元[1553-1625]を総大将として、徳川家康[1543-1616]率いる東軍と戦いますが破れます。

 石田光成は戦場から何とか逃げますが、9月21日に発見されて捕らえられ、10月1日に六条河原で斬首されて三条河原にその首をさらされました。その後、石田光成の遺体は京都大徳寺の三玄院に葬られています。

 石田光成の没後約300年後の明治40(1907)年5月19日、三井財閥の実業家・朝吹英二[1849-1918]が依頼した、東京帝国大学の歴史学者・渡辺世祐[1874-1957]等が三玄院の石田三成の墓を発掘調査しました。この調査の主催は、時事新報社により行われています。調査のきっかけは、石田光成墓地の移転だったと言われています。渡辺世祐は、調査の成果をまとめて『稿本石田三成』を明治40(1907)年11月に出版しました。しかし、この本には、光成の遺骨についての記載はされていません。

 発掘で出土した石田三成の遺骨は、京都帝国大学医学部の解剖学者・足立文太郎[1865-1945]に届けられました。しかし、様々な理由で足立文太郎はこの結果を学会発表もせず論文にも記載していません。足立文太郎の弟子で、後に京都帝国大学医学部の病理学者となる清野謙次[1885-1955]は、石田三成の遺骨に関する記録をとどめるため、昭和18(1943)年4月に、足立文太郎の自宅を訪問して聞き書きした内容を3冊の著書に書いています。その後、同年5月12日に足立文太郎から清野謙次に手紙と同時に石田三成の遺骨の写真が届けられました。

 清野謙次による足立文太郎への聞き書きの内容は、以下の通りです。

・墓地移転に際して、墓石から多少ずれてはいたが一人分の人骨が出土。

・頭蓋骨は、かなり著しく破損していた。足立文太郎は丹念にこれを接ぎ合わせてかなり完全に頭蓋骨が復元出来た。

・改葬するために、その前に頭蓋骨の石膏模型を作らせた。

・上腕骨や大腿骨その他の四肢骨を自ら計測記載して表を作っておいた。

Mitsunariishidaskull1

石田三成の頭蓋骨前面観[清野謙次(1949)より改変して引用]

 足立文太郎による観察の結果は、以下の通りです。

・優さ男の骨格で、生前には腺病質[註:体質虚弱で神経質]ではなかったかと思われる。骨格を見ただけでは男女いずれであるか、性の決定が少し困難な程度のもの。年齢は、光成没時(41歳)[註:40歳]に相当した。

・頭型は長頭[註:前後に長い]で、かなり著名なる反っ歯[註:歯槽性突顎]

Mitsunariishidaskull2

石田三成の頭蓋骨左側面観:1.鼻根部は陥凹しておらず平坦・2.歯槽性突顎(反っ歯)である[清野謙次(1949)より改変して引用]

 石田三成の遺骨は、明治40(1907)年10月20日に改葬されました。足立文太郎は、石膏像・歯2本・第1脊椎骨[註:第1頸椎]・鉄片1個[註:小づか]・四肢骨の計測表とを一緒にして京都帝国大学医学部解剖学教室の標本室に保存します。ちなみに、「小づか」とは、首と胴とをつなぎあわせるものです。ところが、足立文太郎が保存したはずの資料すべてが紛失しました。展覧会や大学に貸し出した際に、そのまま返却されなかったらしいとのことです。足立文太郎は石膏模型から石田三成の顔を復顔したかったらしいのですが、その研究もできませんでした。石田光成の遺骨は、急に改葬するとの事だったので、実物を計測することができなかったため、足立文太郎は後日写真で計測しました。写真撮影は歪みを無くすため、3.5m離れた距離から撮影しています。

Mitsunariishidaskull3

石田三成の頭蓋骨後面観[清野謙次(1949)より改変して引用]

・頭蓋最大長:178mm

・頭蓋最大幅:133mm

・頭蓋長幅示数:75.3

・ナジオン・イニオン:171mm

・耳高:121mm

・顔高:121mm

・眼窩高:36mm

・眼窩幅:39mm

 足立文太郎による石田三成遺骨の計測と観察の記録は、清野謙次によって公にされる事により、今日まで残されました。

 その後、この石田三成の遺骨は、東京大学の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]により再検討されています。鈴木 尚は、以下のように要約し足立文太郎の観察を裏付けています。

・顔の形は細面で、眉間から鼻の付根にかけての高まりは弱いので、ごつい顔ではなくむしろ優男という表現は適切である。

・光成の頭は前後に長い形をしていたことがうかがわれるが、これは、現在の日本人に比較すると、前後の長さでは普通であるが、左右の幅がきわめて狭い。

・光成はひどい反っ歯[註:歯槽性突顎]であった。

*石田三成の遺骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 清野謙次(1944)「第2章2.石田三成の頭蓋骨」『日本人種論変遷史』、小山書店、pp.80-86
  • 清野謙次(1946)「第3編第3章.石田三成の頭蓋骨」『日本民族生成論』、日本評論社、pp.111-113
  • 清野謙次(1949)「第2編第2章.史上有名なりし人物の白骨鑑識:石田三成の頭蓋骨」『古代人骨の研究に基づく日本人種論』、岩波書店、pp.95-98
  • 鈴木 尚(1960)「石田三成の頭骨」『骨』、学生社、pp.164-174
  • 鈴木 尚(1996)「9.戦国武将石田三成の頭骨」『改訂新版・骨』、学生社、pp.179-189

日本の人骨発見史8.スダレ遺跡(弥生時代):石剣が刺さった人骨

2014年01月12日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 スダレ遺跡は、福岡県嘉穂郡穂波町椿(現・福岡県飯塚市)に所在します。1975年に、採土工事中に甕棺と人骨が発見されたため、1975年8月~同年10月まで穂波町教育委員会による発掘調査が行われました。調査の結果、土坑墓17基・木棺墓32基・土坑墓か木棺墓か不明なもの6基・甕棺15基の合計70基が検出されています。

 遺跡の報告書は、1976年に穂波町教育委員会より穂波町文化財調査報告書第1集『スダレ遺跡』として出版されました。出土人骨の報告は、九州大学医学部(当時)の永井昌文[1924-2001]により行われました。人骨は、以下の2体が報告されており、時期はいずれも弥生時代中期中頃と推定されています。

  • スダレK-1人骨:熟年初期の男性。身長158.4cm。
  • スダレK-3人骨:熟年初期の男性。身長162.1cm。

 この内、スダレK-3人骨の第2胸椎には、石剣の先が刺さった状態で検出され、話題になりました。

Sudare1

写真1.スダレ遺跡K-3号人骨出土状況[穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』より改変して引用]

 このK-3号人骨の頭蓋骨は、渡来系の弥生時代人骨に典型な形質を持っており、頭の高さが高く、上顔高も高く、眼窩も高いという特徴を持っていました。また、身長が高いという点も渡来系の特徴です。

Sudare2

写真2.スダレ遺跡K-3号人骨頭蓋骨前面観[穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』より改変して引用]

Sudare3

写真3.スダレ遺跡K-3号人骨頭蓋骨左側面観[穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』より改変して引用]

 このスダレ遺跡K-3号人骨の第 2胸椎には、石剣の先が折れた状態で突き刺さっているのが発見されました。この第2胸椎には骨増殖が認められました。報告者の永井昌文によると、被葬者はこの石剣によって即死したのではなく、約2ヶ月近くしてから死亡したと推定しています。即死した場合は骨増殖が認められず、受傷してからしばらく生きていた場合は骨増殖が認められるからです。

Sudare4

写真4.スダレ遺跡K-3号人骨第2胸椎と刺さった石剣[穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』より改変して引用]

Sudare5

写真5.スダレ遺跡K-3号人骨第2胸椎と刺さった石剣のレントゲン(X線)写真[穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』より改変して引用]

Sudare6

写真6.スダレ遺跡K-3号人骨の第2胸椎に刺さっていた石剣[穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』より改変して引用]

 弥生時代前期末~同中期後半にかけて、北九州及びその周辺地域では、銅剣・銅戈・石剣・石戈等の遺物が多く出土しています。ところが、これらの遺物は、弥生時代中期以後になると、鉄器が普及することで出土しなくなります。また、鉄器は前出の遺物に比べると折れることが少なく、同時に弓矢が多く使用される事と符号するそうです。いずれにしても、当時の戦闘状況がわかる直接的証拠として貴重な事例です。

*スダレ遺跡出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 穂波町教育委員会(1976)『スダレ遺跡』、穂波町教育委員会
  • 永井昌文(1976)「Ⅲ.磨製石剣嵌入人骨について」『スダレ遺跡』、穂波町教育委員会、pp.40-45

日本の人骨発見史7.新町遺跡(弥生時代):埋葬形態と被葬者の形質が異なる人骨

2014年01月11日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 新町遺跡は、福岡県糸島郡志摩町(現・福岡県糸島市志摩新町)に所在します。志摩町教育委員会(現・糸島市教育委員会)による発掘調査が、1986年10月から1987年1月にかけて行われ、弥生時代早期及び前期の支石墓や甕棺墓等57基が発見されました。この内、人骨は14体が検出されています。

 1987年に、志摩町文化財調査報告書第7集『新町遺跡:福岡県糸島郡志摩町所在支石墓群の調査』として、志摩町教育委員会から出版されました。この中で、出土人骨の報告は九州大学医学部(当時)の中橋孝博と永井昌文により報告されています。

 出土人骨14体の性別は男性6体・女性2体・不明6体で、死亡年齢は幼年1体・少年~若年1体・成年~成人9体・熟年3体という内訳です。これらの人骨の内、保存状態が良い9号人骨は、支石墓に埋葬されていました。この支石墓は、中国大陸や半島で良く認められる埋葬形態で、土坑墓の上に大きな石を置いているのが特徴的です。

Shinmachie1

写真1.新町遺跡9号墓検出状況:支石墓[志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

Shinmachie2

写真2.新町遺跡9号墓人骨検出状況[志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

 大陸や半島と同様な埋葬方法であることから、被葬者も、恐らく渡来系(弥生系)の形質を持っているだろうと予想されていました。ところが、この熟年男性と推定された9号墓出土人骨は、予想に反して頭は前後に長く(長頭)・顔面部は低顔性・低眼窩・鼻根部の陥凹という、在来系(縄文系)の形質を持っていたのです。男性3体の身長は、平均で157.1cmと低く、この点でも在来系の特徴を示していました。

Shinmachi9fc

写真3.新町遺跡9号墓出土人骨前面観:眼窩が低いことに注意[志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

Shinmachi9u

写真4.新町遺跡9号墓出土人骨上面観:前後に長い長頭であることに注意[志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

Shinmachi9rc

写真5.新町遺跡9号墓出土人骨右側面観:鼻根部の陥凹が強いことに注意[志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』より改変して引用]

 何故、渡来系(弥生系)の埋葬形態である支石墓に、在来系(縄文系)の被葬者が埋葬されていたのかはわかりませんが、縄文時代から弥生時代への移行期に、元々いた在来系が何らかの貢献をしたことが推定されます。

*新町遺跡に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 志摩町教育委員会(1987)『新町遺跡』、志摩町教育委員会
  • 中橋孝博・永井昌文(1987)「Ⅱ-3.福岡県志摩町新町遺跡出土の縄文・弥生移行期の人骨」『新町遺跡』、志摩町教育委員会、pp.87-105

日本の人骨発見史6.広田遺跡(弥生時代):人工変形頭蓋

2014年01月05日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 広田遺跡は、鹿児島県種子島の南種子町広田に所在します。この遺跡は、九州大学(当時)の人類学者の金関丈夫[1897-1983]と永井昌文[1924-2001]、農林水産講習所(当時)の考古学者の国分直一[1908-2005]等が調査しています。3次にわたる発掘調査で、弥生時代後期後半~古墳時代(3世紀から7世紀頃)の人骨153体が出土しました。人骨には、人工変形頭蓋が認められており、国内における貴重な事例です。本遺跡は、2008年に国史跡に指定されました。

 発掘調査は、以下のように、3次にわたり行われました。この後、2005年から2006年まで南種子町による追加調査が行われており、追加人骨も発見されています。

  • 第1次調査:1957年7月14日~同年8月2日
  • 第2次調査:1958年8月13日~同年9月13日
  • 第3次調査:1959年7月22日~同年8月28日

  出土人骨の報告は、調査から40年以上経過した2003年に『種子島 広田遺跡』として、広田遺跡学術調査研究会と鹿児島県立歴史資料センター黎明館により出版されました。この報告書以前には、調査に参加した金関丈夫による論考しかありませんでしたが、ようやく全貌が明らかになりました。ちなみに、金関丈夫(1975)によると、「額のまん中が丸く平たくなって、頭のふくらみがなくなっています。しかもこの頭骨の周囲には浅い溝があります。これは、この人が頭骨の完成しない若いときから、鉢巻きのようなものをしめ、その額のところに円板状のものをつけていたからだ、と考えられます。」と記載されています。

Hirotad32

写真1.金関丈夫が記載したDⅢ地区2号人骨出土状況[『広田遺跡』(2003)より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

 出土人骨の報告は、九州大学の中橋孝博により行われています。出土人骨の性別は、男性52体・女性42体・不明59体で、男性がやや多く認められます。また、153体の内、未成人は16体で、成人が137体と未成人が少ないことが目立ちました。身長は男性で約154cm・女性で約142.8cmと低身長集団であることが明らかになっています。

 頭蓋骨の特徴では、低顔性が著しく、同様に低眼窩・広鼻傾向も明らかになっています。また、鼻根部の陥凹は顕著であり、顔面の平坦度は弱く、東日本縄文時代人やアイヌに匹敵する立体的な顔貌を持つことも判明しました。その中でも、脳頭蓋は板でも当てたように後頭部が扁平に変形して頭長幅示数は全個体で80以上の過短頭であり、何らかの人工変形が行われたと推定されています。

Hirotac8e

写真2.広田遺跡C-8号人骨出土状況[『広田遺跡』(2003)より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

Hirotac8f

写真3.広田遺跡C-8号人骨前面観:低顔性・低眼窩・広鼻に注意[『広田遺跡』(2003)より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

Hirotac8l

写真4.広田遺跡C-8号人骨左側面観:鼻根部の陥凹に注意[『広田遺跡』(2003)より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

Hirotac8u

写真5.広田遺跡C-8号人骨上面観:上から見ると円く短頭であることに注意[『広田遺跡』(2003)より改変して引用](*画像をクリックすると、拡大します。)

 日本国内においては、まだ明らかに人工変形頭蓋と認められた事例は非常に少なく、島根県の古浦遺跡が金関丈夫により報告されています。その点で、広田遺跡出土人骨は貴重な事例となっています。

*広田遺跡出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 金関丈夫(1975)「種子島広田遺跡の文化」『発掘から推理する』、朝日選書、pp.94-115
  • 金関丈夫(1976)「着色と変形を伴う弥生前期人の頭蓋」『日本民族の起源』、法政大学出版局、pp.299-306
  • 中橋孝博(2003)「Ⅳ-2.鹿児島県種子島広田遺跡出土人骨の形質人類学的所見」『広田遺跡』、広田遺跡学術調査研究会・鹿児島県立歴史資料センター黎明館、pp.281-294