女を叱りつける世界から離れ、自由に語り合うために
港区の男女平等参画センターで講演をキャンセルされた件についてここ(note)に記したところ、私が思っていた以上に一緒に悔しがってくれる人がいて、ありがたかった。なかには港区に抗議のメールを出したという人や、港区男女平等参画センターに連絡してくださったと報告してくれた方もいた。一人悶々とし、悔しさで夜中に目が覚める・・・そんな時間を過ごさずに、もっと”社会の声”を信じて早く書けばよかったのだと思った。
さらに朝日新聞の記者がこの件を取材してくれ、私の顔写真入りで記事が掲載された。私の講座を企画した市民団体には、国会議員や区議からも連絡があったと聞いた。私の個人的な体験としてではなく、男女平等参画センターのあり方、言論のあり方としてこの問題が届いたことにほっとしている。
今のところ(5月16日)港区の男女平等参画センターからは連絡はないが、市民団体他様々な立ち場の方から、港区として、男女平等参画センターとして、この件について対応をする意思があると聞いている。なので、待っています。私は港区男女平等参画センターに私の質問に答えてほしい。今回の判断が誤りだったと考えるのなら、市民団体と私に謝罪してほしい。これ以上この社会が萎縮し、自由な議論の場を失わないために。
前回のnote投稿を読んでいただきメッセージを下さった方に感謝です。
さて。
私が今回されたキャンセルの直接の原因ではないけれど、この数年、特に女性運動を萎縮させてきた言論状況について今の時点で思うことを、ここにつらつら書いてみようと思う。
「性自認」について議論が必要だという一歩ひいた態度を表明するやいなや、「ヘイター」「右派」とレッテル張りされるフェミニズムの言論状況について。ターゲットにされるのがいつも、女性の権利を主張する女性言論人であることも含めて。
数年前、知人が某書店でフェミニズム関連の選書をした。その知人に誘われ書店に行ったのだが、彼女が選書した本に『宗教右派とフェミニズム』(山口智美・斉藤正美)という本が入っていて驚いた、というより胃がキュンとした。
その本には私が名指しで「右派」扱いされていたのを知っていたからだ。ねぇ、この本、読まないで選書してるよね、もし読んでて私を誘ったのならすごいよね・・・と複雑な気持ちになりつつ我慢できなくて、「やだっ! この本、私の悪口が書いてあるのよ〜!」とふざけた感じで伝えたら彼女は気の毒なほど青ざめて、「実はパラパラとしか読んでない」と答えた。選書とはそんなものなのかと気が抜けたけど、少なくとも彼女は「悪い人ではない」とわかり、まぁ良かった・・・のか?
『宗教右派とフェミニズム』という本には、私が「右派」扱いされている箇所がある。
フェミニストの作家である北原みのりは千田の意見への批判は「キャンセルカルチャー」だとして千田への賛同を打ち出している。これらの主張は、トランスジェンダー女性を「犯罪」の可能性とつなげて語り、性別を「肉体的な差異」に還元し、シスジェンダー女性だけを念頭に「女性の安心」を打ち出すという点で、右派の主張とさほど変わらない。さらに批判を、「キャンセルカルチャー」だとする考え方も典型的な右派の主張であり、数年にわたって超党派議連や当事者団体が議論を重
ねてきたはずの超党派議連の「理解増進法案」についてさえも、「慎重」な議論や「丁寧な語り」が必要とされるという考えも、右派が繰り返してきた主張と重なる。
ちなみに私がしたXのポストは、本文には引用されていない。
正直、この一文を読んだとき、私は自分が「そんなこと」を書いたのか一瞬慌てた。ちなみに私がしたポストは以下だ。
千田有紀さんへの攻撃は異常だった。仕事も生活も人間関係も壊される勢いで、ここに関わるのは得策ではないと、誰もがダンマリを決めた。または過剰適応する道を選んだ。 キャンセルカルチャーの問題について話したとき、「千田さんは迂闊だったから仕方ない」と薄ら笑いしたフェミがいた。怖いよね。
フェミニズムは誰のものなのか。 リベラルの足元が揺らぐジェンダー問題。丁寧に思考する力、風通しの良い言論空間への誠実さが、言論人に求められていくのだろう(っていうか、当たり前のことだけどさ)。 千田さんが、公的空間でこの問題を書けるようになるまでに、何年かかったことか。応援したい。
え!? これ!? である。
私の悪い癖だが、伝えたいことが深刻であるほど少し茶化した感じで書いてしまうのだけれども、ここで言いたいのは、「言論空間を萎縮させるな、千田さんへの抗議は異常だ、千田さんが発信する力を取り戻したことを応援する」の3つですよね。・・・というこのXの投稿をもって、人を「右翼」と断じる乱暴さよ。それはアカデミアの人がやっちゃいけないはずの単なる印象論の域を超えず、何より尊厳ある個に対し「右翼」と断じるのならば、少なくとも私の発言をちゃんと引用すべきでしょ。
とはいえ、私はこの本に、けっこう抉れたのであった。「ばかばかしい」と笑って済ませたい(済ませるしかない)一方で、簡単に絶望することもできた。なぜならこのテキストからは、「ここでダメなフェミニストの名前をリスト化します。こいつらは右派と一緒でっせ!」とさらし者されたように感じたから。それをアカデミアの人がもっともらしい文章で書くことを、暴力だと感じたから。
そしてこの本のイベントをフェミニズムを標榜する出版社のエトセトラブックスさんが開催したことも、さらに私を抉った(さすがに全部読んでいるでしょうし)。
言論には言論で返すべきと思いつつも、その気力すら奪われるような無気力に私ははまってしまった。抉られる、とはそういうことなのだと気づいた。
「言論には言論で」
ようやく最近になってそんな気力が戻ってきていはいるが、ここまで数年かかった。
「議論したい」「議論が必要だ」と言いながらも、議論する気力すら奪われる無気力の沼に沈んでいた自分を、ようやく自分で守らなくちゃねと思うところまで戻れた。それはキャスリン・ストック『マテリアルガールズ』の読書会を開き、そこで思いがけないほど面白い女性たちが集まったことや、様々な国の女性たちと女性の権利について語るシスターフッドの時間があってこそ、取り戻すことができた自尊心だと思う。
ここ数年、千田有紀さんが、女性の権利とトランス女性の権利が拮抗する可能性について遠慮がちに書いたテキスト(でしたよね)をきっかけに「ヘイター」と断定され、そのために千田さんがアカデミアや言論の場で攻撃されキャンセルされるのを私は遠巻きに見てきた。
さらにそういう千田さんに対して「千田さんは間違っていない」と裏で言いながらも表だって庇う人はほぼ皆無で、むしろ我先に「トランス女性は女性です」と標語のように言い始める人たちを不思議な気持ちで見ていた。
もちろん無関係なこととして見ていたのではない。そういう渦にいつか私も巻き込まれるのだろうな・・・という予感をもって見ていた。
予想していたよりもそれは早く、そして予想していたことではあったけれど身内からやってきた。
フラワーデモの仲間たちから、「『トランス女性を差別しない』と北原みのりとして発信してほしい」と言われるようになったのは2020年の末頃だったか。なぜそれを言わなくてはいけないのか? と聞くと、「フラワーデモがトランス女性を排除していると思われないために」とのことだった。いわゆる「空気を読め」というやつである。私は「標語」のような言葉が嫌いだし、私は私の意思で私のタイミングで私の言葉で私が考えていることを発信したいので、「用意された言葉を私として発言すること」は断った。
とはいえ、「フラワーデモには社会的な責任があるのだから、現代的な問題に応答する義務がある」という仲間の声を尊重し、トランスアクティビストの方を招いて勉強会を開いたこともある。そしてそれは「女の問題しか念頭にないフェミニストに反省と自覚を促す」ような内容だった。曰く。ジェンダーアイデンティティと生物学的な性が一致する女性は「シス女性」である。「シス女性」は自分たちの特権に自覚的であるべきだ、というものだ。
案の定、勉強会の後に「性被害で妊娠するかもしれないという恐怖」を感じることはシス女性の特権ではないかと言い始める人がいた。さらに性被害者を「シス女性」「ノンバイナリー」「トランス女性」と区別し、その被害の重さを比較する人が出てきた。「シス女性」という新設カテゴリーに押し込められた上で、その特権性を自覚しろ! という強烈な理屈に、真面目で優しく、熱心に運動をしている女性ほど萎縮していった。
『宗教右派とフェミニズム』のなかで「右派」の定義は明確で、ジェンダー平等やLGBTQ+の権利に反対する人達である。
港区男女平等センターの方々にも伝えたことだが、私は性暴力問題に一貫して取り組んできて、そして当事者として90年代からセクシュアルマイノリティの権利運動に関わってきた。そして女の身体で産まれたことで味わう理不尽と差別に抵抗し、女性たちが希望をもてる社会を目指して女性向けのプレジャーグッズや生理用品やローションや色んなオンナモノを売る会社を30年経営してきた。
そして、で、だから何? と突っ込みは私自身、常にしている。そういう立場で生きていたって、間違える。だいたいそもそも私のフェミニズムは私のフェミニズムであり、誤りながらも、右往左往しながらも、語りあい、学び、歴史を知り、自分の言葉で考えるしかないものだからだ。あなたから見える世界、私から見える世界、そこに個が立った上で話合っていくしかないからだ。
でも、だからこそ、だろう。お前は私と違う意見だ。お前はヘイターだ。反省しろ。語るな。と断じ、女をしつけるような言論空間には抗わなければいけないのだ。シスターフッドを感じられない、女を叱りつけるような姿勢には抗いたいのだ。
なぜなら私は、女の身体から産まれる言葉を軽んじてならないと身を以て知っているから。そして、フェミニストならば全ての差別に反対すべきだ! という無茶に、そこまで求めないでくれ、と言う自由があっていいと信じているから。
正直、もうやってらんないよ・・・と、抉られたものを抉られたまま放置して、私は私が好きなものだけに囲まれて静かに生きていきていけばいいよ・・・という思いになることもあるが、そろそろきちんと言論には言論を、という姿勢で発信していこうという心が整いはじめた。
そしてそれは、この数年に渡って、「この状況は何かおかしい」「このフェミニズムの流れは何かおかしい」「女の身体について語れないのはおかしい」「シス女性という言葉そのものがおかしい」「”ジェンダー”の意味が混乱しすぎてておかしい」「女に全てを押しつけすぎてておかしい」・・・等々と、抑圧的な言論の流れに諦めずに抵抗してきた市井の女性たちが積みかさねてきたものがあってこそ薄れた恐怖だと思う。そういう女性たちの声と共に私も、自分が考えていることを、本当に自分が信じていることを、心からそうだと思えることを、自分のタイミングで、自分の声で話していきたい。
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