悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】。実はこれはお釈迦様(仏陀)が瞑想の末に辿り着かれた【悟り】なのです。
すると、エッーとなります。
ほとんどの人が知るのは、お釈迦様は「仏とは慈悲」と悟られたと思っているからです。
私がこれを知ったのは、私が【巳(蛇)帰る(ミカエル)】の現象を起こした後に、私は曹洞宗の門徒で有り、その曹洞宗の本山から檀那寺を通じて配られた小冊の機関誌でこの一文を知ったのです。つまり仏教の経典に残されていても、その残された経典からこの内容に気づいた人がほとんど居なかったとなります。
すると、
当然にお釈迦様の悟りで有る【悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】は、56億7千万をもって、みろくで説かれなければならないわけです。
「みろく菩薩」とは、お釈迦様の死後の56億7千万後に表れて、お釈迦様の悟りを忘れた人達に「正しいお釈迦様の悟り」を告げて、人々を未来の世に導く最後の菩薩とされているからです。しかし、他の仏教典ではお釈迦様の死後、正法の期間、像法の期間を過ぎて末法となり、末法1万年でこの世は終わることになっています。
すると、56億7千万の数字はあり得ないことで、この56億7千万は何の意味の数だということになります。日蓮さんが出られた時代。末法に入ったとして日本では新仏教が起きて来ました。この末法に関しては、だいたい誰でも今は末法だと思うほどの世にはなっています。
日本に大本教という宗教が起きて、日本最高の予言者の評価がある出口王仁三郎師は、自らが「みろく」神とも名乗り、この56億7千万はこの地球が出来てからの時間だ式のことを言われましたが、それは苦し紛れの言い逃れとも言えます。この地球は46億年と言われていて56億年などに達していないからです。そこで、この56億7千万は人類の数ではないかの説も出たほどですが、現実にはこの地球には今や70億もの人が居ます。だとすれば、人の数でもないのです。
巷で自分は仏教の「みろく菩薩」だと自称されている方は多々あります。だが、その誰一人として「56億7千万」の意味を証してはおられません。その56億7千万の意味を証してこそ、みろく菩薩を言うべきでしょう。
大本教が出したみろくの意味は、仏教のお釈迦様の弟子の弥勒菩薩の意味ではなくて、全宇宙のエネルギーを統括する創造神の存在を「みろく」大神と言ったのです。しかし、
そこには【人類最後の菩薩・新しい未来の世に渡す最終菩薩】の意が込められているわけです。
その意味は「米」型の九つ花で解ることでもあるのです。
丹波の片田舎に大本教と言う宗教が起きて、「みろく」神が表に出されて、大本教神諭に「九つ花」が予告されました。
その「九つ花」が如実に「369(みろく)」をもって、56億7千万の意味を解読させるわけです。それが【米】教です。
しかし、この米教は単にお釈迦様の悟りとか、みろくとか、56億7千万の意味を語るだけでなく、輪廻転生が何故に起きるのか、閻魔大王の存在の意味すら語って来るのです。それらはお釈迦様が説かれた以上の内容なのです。ただ、それを解読するにはどうやっても大本教神典が欠かせないのです。
巷には自分が「永遠の仏陀だ」とか、「釈迦の生まれ変わり」だとか、「みろく」ですと自称する人達が続出しているわけですが、
ミロクとか56億7千万を語る仕組みが「日本語」でなされていたなどとは誰も気づかなかったのです。
精神世界とか宗教の世界では、そうしたことの証明よりも「嘘」八百でも言った者が勝ちのところがあります。天之御中主がこう言われた。天照太御神がこう言われた。西洋で天使長とされるミカエルがこう言った。そうしたことは、全て「嘘」でもペテン師でも言えるので「証明」論としては成り立たないのです。
自分は神霊から言われたと主張しても、その神霊の名乗りが本物の神霊なのかどうかの証明はどうするのですかとなります。それを頭から信じた貴方が悪いとなるのです。
しかし、
大本教神諭が予告した「九つ花」の仕組みは、この日本の「言葉」の仕組みとして為されているので、それ自体が証明論となるのです。ただ、大本教神諭はそれを誠で紐解ける人は唯一人と予告したのは、一見すると実に簡単な仕組みで、俺は凄いのだと思っている霊能力者は一見して「バカ」にするような仕組みです。それは
言葉が何も書かれていない単なる数字の並びにしか過ぎないからです。
確かに、そんな仕組みを解読している者は「バカ」かも知れません。いくら「バカ」と言われようとも、
数字の配列から言葉が成るを理解する「誠」の者でなければ、それは紐解けないということだったのでしょう。
大本教の出口王仁三郎聖師さんは、最初の頃は「自分が救世主」だと名乗っておられましたが、途中から「聖師」に留められました。それは、大本教に在籍して大本教出口なお開祖派で反出口王仁三郎であり、後に
神道天行居の開祖となられた「友清歓真(ともきよ よしさね)」師がある神から大本教神諭予告の「九つ花」とは、この事だと教えられた「九の数理盤」が「九つ花」のことだと発表されました。
しかし、神から「九つ花」を示された友清師も、その内容は誠で説き明かすまでには至らなかったわけです。ただ、真ん中の「41」は天之御中主様のことだで終わってしまったのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、推察するに大本教の神旗が「九つ花」ではないと反出口王仁三郎派の者に神から流された時、ス神ではない「九つ花」を誠で解読する演技は自分の役ではなくて、さらにこの神芝居は続くと理解されたのでしょう。
為に、私の元に一度は大きな漢字で「漢字」と書かれた浴衣で出て来られたり、イスラム教回教宣伝使の姿を私に見せて、その「九つ花」を誠で紐解けるヒントを私に下さったようです。
確かに、米教と成る「九つ花」は、その仕組みそのものが「救世主」と成っていて、自分は救世主とか、みろく菩薩とか名乗るのではなくて、それは人間たる存在ではないことを証明しています。
巷で、自分が仏陀ですとか弥勒菩薩ですと名乗っている方は、自らが自分はニセ者ですと世に発表しておられることになります。創造神はそうしたことを全て織り込んで言葉の仕組みをなされたのでしょう。
私は「九つ花」を紐解いていて、あまりにもその大きなスケールに、とても神は語りきれる存在ではないと認識しました。だが、「九つ花」など一瞥(いちべつ)すらしない方は、そのスケールの大きさが理解出来ないことになります。
お釈迦様が悟られた【悪魔は実体のない現れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】が世の表から消されて、「仏は慈悲」だから仏を信仰さえすれば助けられるとなってしまったのは、
お釈迦様の悟りの仏教は小乗の自力信仰なので大衆を助けられない。もっと大衆を助ける為には他力信仰の仏を生み出そうとする大乗仏教の流れが起きて来たことが主因なのかも知れません。そこからお釈迦様の悟りから逸脱が始まったと思われます。お釈迦様の教えでは無い後世の僧達による創作された「仏は慈悲」の仏教の始まりです。
他力信仰の場合、【悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】は必要が無い悟りの教えとなるからです。ただただ「仏」様を拝めです。キリスト教だとイエスを拝めです。
お釈迦様の死後500年間、あるいは1000年間はお釈迦様の悟りは正しく伝えられるが、その後の像法の時は修業する者は居ても悟りを開く者は存在しないとされて来ました。
お釈迦様の入滅は紀元前500年前、あるいは1000年前とか説はありますが、
大乗仏教が起きて来た時にはもう忘れられてしまったのが【悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】だったのでしょう。
ですから、過去の仏教の高僧も名僧も、お釈迦様が悟られた【悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】の悟りには至らなかったのでしょう。私が神霊世界に修業に入った最初の頃、どうして私に日蓮さんがこれほど出て来られるのかの意味が解りませんでした。
しかし、日蓮さんとそのお弟子さんが私に見せられたある光景で、この
【悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】は、驚くことに南無妙法蓮華経にとつながっていたのです。
日本最大の宗教団体とも言われる創価学会さんでは、【南無妙法蓮華経】とお題目さえ上げればいいと教えておられますが、日蓮さんが私に見せられたのはお題目を唱えるではなかったのです。そこで調べましたところ、
南無妙法蓮華経とは、【自分は白蓮の様な汚れがない仏様に帰依します】の意味で、お題目を唱えていれば良いではなかったのです。
自分は白蓮の様な汚れがない仏様に帰依しますは、例えその身(根)は泥の様な世界に置いても、天界では美しい花を咲かせますの意義で、それは各自の「良心」神の実践です。そうした意味で【南無妙法蓮華経】のお題目なのです。唱えるのではなくて実践することなのです。
大乗仏教を起こして来た者達はお釈迦様の悟りであった【悪魔は実体のない表れで、人には良心と呼ばれ神が内在する】が理解出来ていなかったのでしょう。その原因になったと思われるのが【悪魔は実体の無い表れ】です。
キリスト教の場合、映画などでは牧師が聖書を手にして「イエスの名の元に、悪魔よ立ち去れ!」等と叫んでいます。牧師は悪魔とは実体を持った存在だと思っているからです。これは
キリスト教の牧師達は真理にうとく、イエス一人が神の子だという間違った教義を説いていることから理解には至らないのです。イエスに任せておけば、何の真理も知る必要が無いからです。キリスト教は他力信仰の典型です。
仏教においても、お釈迦様の悟りである「悪魔とは実体のない表れ」は、お釈迦様以外の者は気づかなかったようです。かく言う私も、良心神に至るまでは悪魔は実体を持った存在だと思っておりました。私も決して誉められた立場の者ではありませんでした。
しかし、
全ての気づきは「良心」神からなのです。
人は全て「神の子」であり、自分の神の子で有る「良心」神が坐る位置を「空く間」としているのが悪魔であって、【惡(悪)】の字は、主を墓に葬った裏切り者の意味だと、以前のブログにも書きました。
元々悪魔などは存在しないのです。自己の魂の中における良心神の割合で起きる現象で、お釈迦様が悟られた「悪魔は実体が無い表れ」なのです。
自己の魂の良心神が坐る間から「空く間」をなくせば、その人に「悪魔」は存在しないのです。そこに、【悔い改めなさい】があるのです。
米教において一番重要なのは「九つ花」の真ん中の「41」にあります。イエスは40日間荒野をさ迷って悪魔を退け、「41」日目に神の御子となられた。米教の九つ花にある「41」の位置は、神の子である「良心」神の位置です。その位置から「悪魔」を退けるがあるのです。ですから、それまでは「40」荒野のさ迷いでいいのです。
この良心神は自体は、日本神道では「直霊」と呼ばれ、天帝の分魂とされて来ました。それ自体が一つの「霊」神なのです。
図式しましょう。
キリスト教の根本的な誤りは、イエス一人が40日間荒野をさ迷って悪魔を退けて「41」日目に神の御子になられたのではなくて、誰もが悪魔(空く間)を退ければ「41」にて神の御子と成るだったのです。
ただ、これは【日本語】でないと理解出来ません。それは、日本語は【神の言葉】だからです。
私は魂に良心神の点数が出る不思議に遭遇しました。私以外にそれを見たことがある方は一人しか確認が出来ませんでしたが、その方も私と同様に腐った魂とか捻れた魂を見て来た方でした。
その原因は他の人のことを考えない「我れよし、自己本位」などから起きて来ます。
我が宗教、我が教えに従えば天国に行けるなど【真っ赤な嘘】と言えます。
自分のこの世での「生き方」が問われるのです。
良心神の無い生き方をしていれば、それは当然に地獄行きなのです。ただ、
単に自分は良心の者ですと言ったところで創造神を認識していなければ、それは【一厘が入らない米】となります。
愛は日本神道で説く「一霊四魂」の幸魂のことであり、幸魂は主の分魂とは成らないのです。【悪魔】でも説けるのが「愛」の教えで有り、「愛」ばかりを説く者の正体は「悪魔(空く間)」優勢でもあるのです。
私は良心神に行き着くまで、善人は天国に進んでいる者とばかり思っていましたが、
善人で地獄に行くはないにしても天国の門が開いていない。この謎はどういうことかと思っていました。中有界と呼ばれる広大な霊界が存在していたのです。中有界は単に天国か地獄に行く迄の判定界ではなく、中有界そのものに天国如き世界も地獄如き世界も存在しているのです。この意味は仏教の「三途川」が教えていて、西洋の天国・地獄論の二界説では間違っていたのです。
霊感頼りの無知なるスピ系、低い世界と関わる霊感で
「神は愛であり、何をしても許される」と等と平気で説いている方達は、当然に「閻魔大王」等の存在は否定されます。何故ならば何をしても許されるのであれば、「閻魔庁」は存在しないのです。ただ、そうした方達が
閻魔庁など存在しないと思われた原因は解ります。それは霊界には邪神や悪神が蔓延っているからです。
確かに、仮に【閻魔大王】が存在するのであれば、「邪神や悪神」が存在していることは論理としてもおかしくなります。どうして、閻魔大王は邪神や悪神を取り締まらないのかと言う声は当然起きるでしょう。
閻魔庁とは、正式には閻羅大王が鎮まる「羅(ラ)」城のことであり、人間界に出る為の「来世門」があり、その門をくぐらないと人間界に出て来ないわけです。その一点であって、霊界で邪神や悪神のままで過ごすのであれば、別に羅城の「来世門」をくぐる必要はさらさら無いのです。ですから、霊界では邪神や悪神のままでいいのです。存在出来ます。
あるがままの意味を理解していない霊能者の方は、どうぞ邪神界や悪神界にと進んで下さい。別に遠慮は要りません。お好きにどうぞ。天帝がお許しくださるでしょう。
天帝の裁きとは、【捌き】の立替で永遠に正神界と邪神界とに別れます。私は子供の時に旧約聖書の神と名乗る声から「永遠の別れ」と告げられた者なのです。
片方は天帝が表に出て来られる「みろく世」。片方は天帝など糞喰らえと言ってやりたい放題をされている神々で万物を育成されたらいいのです。多くのスピ系の人達が邪神界の神々に味方をされることでしょう。数では圧倒的に正神界が負けるでしょう。邪神界は大賑わいになるでしょう。
悪神や邪神が存在するから「閻魔庁」が存在しないではないのです。人が霊界で高い位置に行こうとするのであれば、必ず人間界に出て、その人間界での学びにおいて高い霊界へと進めます。その為にはあの世での「羅城門」をくぐらないといけません。そこである程度の罪を払って「この世」に出して貰うのです。
九つ花の真ん中の「41」は単に良心神の為の「ラ」だけではなくて、新たに人間界に進む為の【羅(ラ)】の意味を秘めるのです。そこに閻魔の意味には魂の「円真」があると説いて来たのです。これを大本教の出口王仁三郎聖師が出された「ス」神論で行くと、意味が解らなくなるのです。
ですから、
出口王仁三郎聖師さんが説かれた「ス」神では似せ型となるので、【美濃か尾張の国から出る国道41号線】で説かしていただきました。
その「ラ(羅)」神論が解れば、大本教が説いた【節分の炒り豆で鬼は外と追われた神】の意味も解るわけです。節分の炒り豆で追われているのは来世門の門番たる「羅」城の番卒。京都千本九条の羅城(来世)門には鬼が住むと歌われ、映画「羅城門」もありました。
その羅城(来世)門の門番は牛頭の虎パンツ。牛虎(ウシトラ)金神の配下の羅卒達。その長官は「国常立尊」様。別名「閻羅(閻魔)大王」。悪を取り締まる警察官のことを「羅卒」と言いました。
その存在(牛頭に虎パンツ)に対して、皆さんは「鬼(牛頭の虎パンツ)」は外と節分の炒り豆をおもしろ半分に投げておられるでしょう。それは、国常立尊様を鬼として追う行為なのです。
言葉など関係が無い。自分の直感に従うのが正しいと言う霊感者で、いくら自分は霊界で高い者だと思っていても、さほど高くはないのです。こうした言葉の仕組みをするだけの力などどこにもないのです。
言葉の仕組みは自分の霊感程度で出来ることではないと
気付けないとは気の毒な人達です。
げに恐ろしきは邪(蛇)霊の囁きに踊る人達
巳(蛇)帰るも理解出来ず
どこで目を覚ますかは本人次第と言えます。
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