先日、東京の「虎の門」の映像が出て来まして、どうやら「虎の門」の時に来たようなので、虎の意味を考察しました。
日本の新神道ではウシトラ金神・国常立尊が語られるわけですが、このウシトラの意味は東北(みちのく)と現在は退いている「艮」だけを意味するものではありません。熊野本宮の別当家であり、大本教が発祥した綾部の藩主であった九鬼神道家では「艮」ではなくて「宇志採羅」としています。ウシは「宇志」であり、トラは「採羅」で「羅」を採るになっています。
羅の羅王と言いますと、通称は閻魔大王のことですが、正式には「羅城門」で知られる「閻羅大王」の羅となります。京都千本九条の羅城門には鬼が住むと物語でも語られて来たわけです。鬼を言う時には「羅」なのです。
私自身が「ラ」神論に導かれた背景には「良心神」の良(ラ)のみにあらず、死者は甦る「羅」の意味合いもあります。この意味が解らなければ「輪廻転生」も理解が進みません。
大本教神諭に、このウシトラには「牛虎」もあるぞよと残されるように、牛虎の牛にはお釈迦様の祇園精舎の御守護神であるところの【牛頭天王】があります。
私自身修業に入って未だ数年ほどの時、牛頭の侍姿の方を霊視で見て、驚いてしまったことがあります。まさか、いくら霊的世界であっても「牛頭の侍」の存在を見るなど予想もしていなかったからです。
それは私個人の幻影ではなく、私がその光景を見ている時に2番目の師匠と共に居たのですが、私の異変を感じたその師匠が即座にその光景を一緒に居た霊媒者に転送することによって、私が見ている霊的光景はその霊媒者を通じて私の周囲に居る人達にもその様子がつぶさに告げられたわけです。
霊媒者が語るその光景に驚いた当時の師匠が氷川神社の素戔嗚尊をお呼びして理由を聞かれたところ、その答えは「既にその光景は消えていて解らねども、この者(私)は立派な若牛になるであろうと」と答えられたのです。
その師匠が、お前は「若牛」だそうだ。よかったなと言われて、自分は「牛」かと憮然としてその言葉を聞いていました。しかし、牛には大人(たいじん)の意味が存在して来ますので、その時は誉められたのであろうと取っておきました。
後日、東京の著名な霊能者の方に霊査してもらったところ、貴方の背後には神界を統一するだけの力を持った方が居られますと告げられます。いくらなんでも神界を統一する存在に驚いて、どんな姿の方ですかと尋ねましたところ、若い侍姿ですが神界を統一出来るだけの力を持たれている存在ですと告げられます。
私は神は白装束の仙人風の出で立ちの先入観がありましたので、若い侍姿をしているに訝しく思いましたが、あまり気にしていませんでした。
その著名な霊能者の方が自分に解らないことは、貴方がこれほど苦労されているのに、その若い侍姿の方は貴方を見守っているだけで何一つ助けようとはされていない。両腕を組んで見ておられるだけ。あなたはまるで見殺しに状態に置かれておられる。ただ、この方が腕組みを解いて采配を振られたら、神界はこの方によって統一に入って来ますと言われます。
しかし、今の貴方はその方と神人合一出来るだけの力が備わっておりません。神人合一に向かって修業を積んで下さいと教えられたのです。
そう言われても、神界を統一出来るほどの存在が若侍の姿に、どういう意味だろうと考え続けていました。
私が見た牛頭の侍が牛頭天王であるとは確認出来ませんでしたが、若牛の方を見たとは言えます。後日、私は平安時代の終わりから鎌倉時代と思われる若い侍姿の方を誰かと知らずに、その若い侍姿の方をその家来達の霊が「御舘」様と呼んでいるので、それに習って私もそう呼んでおりましたが、それは「源の義経」さんの霊でした。その義経さんの幼名は世に知られる「牛若」です。
大本教の出口王仁三郎聖師さんは、救世主は「素戔嗚尊」だと言ったり、「源の日出雄」で源の義経さんの演技をされたのは、一見すると意味が解りませんが、それは「牛」を意味していると考えられます。京都の祇園神社の御祭神は牛頭天王であり素戔嗚尊とされているからです。その共通点は「牛」です。
私自身、出雲の大国主さんは大黒さんや権太夫さんとして拝見して来ましたが、素戔嗚尊さんはよく解りません。東京の根津神社から呼び出しを受けて、その御祭神は素戔嗚尊とされていますが、私が根津神社で拝見した姿は衣冠束帯の若い姿の方で、受けた印象はどこか「義経」さんに似ている程度でした。
仮説として、素戔嗚尊の魂を受けた存在が平安末期に「源義経」として出たであるならば、大本教の出口王仁三郎聖師の演技の意味も紐解けるわけです。余談かも知れませんが、「紐」の「丑」は牛ですし、解も「牛」なのです。牛で無ければ神の仕組みが紐解けないことになります。
チベット仏教において、最高仏として牛頭で虎の皮を敷く像がありますが、地獄閻魔庁(羅城)の使員である邏卒達は牛頭で虎パンツの「牛虎」であり、その羅卒達を鬼だと言って【節分の日に鬼は外】などと言って、炒り豆をぶつけているわけです。
それらの行為は自分が犯した悪の行為を認めない悔い改めない意味合いになって来ます。自己の悔い改める反省する良心神をないがしろにするわけです。大本教で節分の炒り豆で「鬼は外」をする行為は国常立尊様を追う行為と言ったのはその為です。そこに「牛虎」の意味は出ています。なお、九鬼家の綾部藩では「鬼は内、福は外」だったのです。
大本教と言う宗教が起きていなければ、牛虎(ウシトラ)で閻魔大王(閻羅大王)=国常立尊の図式は誰にも解らなかったでしょう。そして、その閻魔から「円真」である「⦿」記号を出して来ているのです。
なのに、黒点を○にゝ(チョボ)などを言っていると、逆に深い意味が紐解けずに神の仕組みに惑わされてしまいます。円真の牛虎(鬼と云う)が理解出来なくなります。魂の中の「核」です。
そうした内容は、私のHPやブログで意味を説いて来ましたが、私自身不可解だったのは牛(宇志)はともかくとして「虎」の意味なのです。インドで「牛」は神の化身として崇められていることは多くの方も御存知ですが、「虎」も神の化身と言われています。インドの住民達は虎に襲われても神の化身として虎を殺さずに共存しています。しかし、それをもって「虎」の意味が解りません。
「虎」の言葉に秘められていた意味は虎(虍)の字を見れば解る様に「七」が存在しています。そして虎の「寅」は【演じる】なのです。ですから、演じるの【劇】の字にも「虎の虍」が存在して来るのです。
私達は漢字は中国の産物だと思い込んでいますが、私は鍾馗神の御案内で中国で天子とも創造神ともされる磐古大神に拝謁して、本来の創造神の仕組みは中国で創造神とされる磐古大神まで神の一駒として使った仕組みだと推察したのです。大本教霊界物語にある「中国の磐古大神から国祖国常立尊に神界の大政奉還です」。
聖書で言葉は神と共に在ったと説きますが、言霊の意味を勘違いしている方が多数おられます。言霊とは連なって言葉を組成するのであって、その言葉がどういう意味を持つかなのです。そもそも言霊そのものが何であるかも知らないで、言霊学に走っていたのでは言葉が意味する本質は解りません。
虎の字が必要なのは、大本教神諭が予告した「九つ花」を見れば、それは「みろく」を語りますが、そこに「七」の意味がなければ「九つ花」から【五十六億七千万】が出て来ません。その七によって、その後に来るであろう、大本教神諭予告、ダルマ大師として現れたの【七転び八起】につなげるのが難しくなります。七の世を転がして、永遠の「八」の世を起こすです。
今の世が「七」の時代は聖書において創造神は六日間で世を創造されて、七日目は安息日を意味しています。大本教出口王仁三郎聖師は紫陽花の七変化と残しておられますが、その程度しか今日までの宗教界からはヒントは出ていないのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は「九つ花」を紐解けておられなかったことで、霊界物語を読めば五十六億七千万の意味を理解してはおられなかったことが解ります。それは出口王仁三郎聖師は出口開祖が言われた本当の「みろく」様ではなかったと言うことなのです。
たぶん、出口王仁三郎聖師自身は自分が「みろく」様でないことぐらいは百も解っておられたでしょうが、それも神の仕組みだと受けられたのでしょう。
この度、私に東京の【虎の門】が出て来たのですが、無論、東京の虎の門に神界の重大な何かがあるではないのです。「虎」の言葉の意味です。牛虎(ウシトラ)の虎の部分です。
よく知られる虎を秘めた言葉に【虎の巻き】があります。本来は秘伝書の意味ですが、普通は虎の巻きと言うと具体的な「解説書」を意味します。
一部において、この虎(トラ)はユダヤ教における【トーラー】の意味だという説があります。それを証明するには、古代ユダヤとこの日本の関係を証明しないといけなくなりますが、霊的映像としては古代ユダヤ人とは日本人なのですが、考古学的には証明は不可能です。それは【日ユ同祖論】を言われる方達とは時代背景が違っていて、その論理では解けないのです。
ただ、ヘブライ語の「トーラー」は神の律法による教えの意味で、神の「虎の巻き」たる教えの解説書を指して来るのです。
しかし、ヘブライ語では「虎」で「七」までは読解は出来ないのです。漢字を使う私達でも虎に「七」が隠されているところまでは読み切れなかったわけです。私は子供の頃に臨んだ声から、これは神の舞台ぞ。演劇ぞと聞かされていたので、演劇に「寅」と「虍」が含まれていることに何か引っ掛かってはいたのです。
中国の諺に、【前門の虎に後門の狼】があります。この類義が【一難去ってまた一難】です。
東京の虎の門で何が起きたのか?。それを調べますと、西暦1923年(大正12年)12月27日に、虎ノ門外で皇太子・摂政宮裕仁親王(昭和天皇)が社会主義者の難波大助により仕込み杖の散弾銃で狙撃を受けた事件があります。裁判で難波大助は死刑となりました。
この虎の門事件に出て来るキー・ワードは昭和天皇ではなくて「難波大助」と思われます。私は神の虎の巻(律法)たる「九つ花」から、人に内在する良心神を導きましたが、後門の「狼」は自己の良心神を獣化した者達の襲いであり、狼に対しては獣から脱却した「良」心神で防げますが、前門に来る虎に対してはどのようにすれば「難の波」を防げるのかとなります。
創造神が命じて吹く天使のラッパとは、それが吹かれた時には自分がどれほど神に仕えていますとか神をおなざりにして来ましたとか、善人とか悪人とかは関係無く、全ての人にその虎たる難波は襲いかかります。
やはり、中国の諺に【虎穴(こけつ)に入らずんば虎子(こじ)を得ず】があります。虎の門をくぐるとは、虎穴に入るです。この場合の虎の子とは【宝】とか【大成功】を意味して来ます。危険だとか恐いで逃げていたのでは、何の成功(宝を得る)も無いと言うことです。
お釈迦様の逸話として、「捨身飼虎」があります。お釈迦様の前世の時の薩捶王子の時の物語です。その行為によって薩捶王子は次の世にお釈迦様と成られたです。だが、南無妙法蓮華経だ!。そうしたことを言っている方達がこの「捨身飼虎」の話を御存知無いと言う不思議な現象が見られます。私は子供の時にこの話を知りましたが、仏典では「金光明経」にも書かれているようです。
この「捨身飼虎」の精神は、別に飢えた虎に我が身を食べさせれば次の世に仏陀となる意味ではないのです。明治25年に発祥した大本教神諭の【我れよし】は行けないの自己中心主義を諫めているのです。
何でも愛を言えば偉い人だ。立派な人だと勘違いされることから、愛だ!愛だ!と言って肉食している西洋人の博愛主義などは嘘の愛にしか過ぎないのです。牛や羊だって命ある存在です。牛や羊の肉はほおばってクジラの肉は食べては行けないと言っている西洋人であっては神の眼鏡には適わないのです。
自分はこの世でそうした命ある存在を食べて生かして貰っている。ならば、今度は自分の肉を食べて命を長らえなさい。その意味が解らない者に神を語る資格など存在して来ないのです。
そこにお釈迦様の前世とされる「捨身飼虎」の意味を知るようでないと、【虎の門】をくぐることは出来ないのです。
やがて「虎の門」の時がやって来るのです。その時、貴方は捨身で神の律法で行けますかとなります。身を捨てて次の世は仏陀と成るかです。
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