【短編版】悪女矯正計画
奮闘物語です!
⭐︎こちらの短編をもとにした長編版が書籍化決定しました。お読みいただき本当にありがとうございます!
馬鹿みたいにふざけた話があるとしたら多分これだろう。
俺の目の前では以前の婚約者、そして現皇帝の愛人セラフィナが高らかに笑っていた。
「アーヴェル。過去の罪を精算する時が来たわ」
一体どう間違えたらこんな状況になるのかさっぱり分からない。
おい誰かこの女が何を言っているのか教えてくれ。この俺になんの罪があるっていうんだ?
「馬鹿か。皇帝の血筋の私を殺せるはずがないだろう」
この国を牛耳っているのは俺の叔父上であり、この俺自身も次期皇帝に手が届く地位にいる。だからいくら、セラフィナが現皇帝の寵愛を受けていようとも、そして政治的方針の相違がいくらあろうとも、俺を殺していいはずがないのだ。
すでに昨日遊んでいた女達は、セラフィナが引き連れてきた兵士達を見るなり悲鳴を上げながら散り散りになって逃げてしまった。馬鹿でかいベッドの上でほぼ裸の俺は、早朝の襲撃になすすべもなく一人ぽつんと座っている。そんな俺をどう思ったのか、セラフィナは、憎たらしいほど美しい顔を歪めてこう言った。
「馬鹿はそちらでしょう? あなたのお父様は争いに勝って皇帝となったのよ。いつだって、最後に笑うのはより強い勝者なのよ」
俺に勝つだって? 失笑は禁じ得ない。
「貴様、ついに頭がおかしくなったのか? この名高き魔法使いであるこの私に、無魔法の――」
と、そこまで言ったところで、セラフィナが手から恐ろしいほどの魔力を帯びた黒い光を作りだし、俺に目がけて発出した。
台詞さえ最後まで言えずに俺は死んだのである。
◇◆◇
というのが、さっきまでの記憶だ。
目の前に、幼いセラフィナがいる。
明らかな異変だ。俺の記憶が正しければセラフィナは十九歳で、大人といえば大人と言える年齢だったはずだ。だがここにいる幼い彼女は、不安げに瞳を揺らしているだけだった。
おかしいのはセラフィナだけでなく、死んだはずの兄、ショウまでがいて、俺に軽蔑したような視線を送っていることだ。
「アーヴェル。どうしたというのだ? 悲鳴なんて上げて」
直感的に思ったのは、ここは死後の世界か、さもなければ夢なのだろうということだ。近頃の俺は毎日が乱痴気騒ぎで、ひどい夢ばかり見ていたからだ。
自分を殴ってみる。痛い。セラフィナは大きな瞳をさらに大きく見開き怯え、兄貴は俺をごみでも見るような目つきで見つめてきた。
「こんな時ぐらい、奇行は抑えてもらいたいものだ」
「こんな時ってのはどんな時だ」
状況をまるで飲み込めない俺がやっとの思いでそう言ったというのに、兄貴は軽蔑するように冷笑した。
「私とセラフィナの婚約を、親族一同に知らせている時だ」
周囲を見渡すと、なるほど親族一同が長いテーブルにあほ面下げて並び、俺たちの方を見ているじゃないか。どうやらここは俺がかつて住んでいた場所――つまり実家の食堂らしい。
ようやく朧気に記憶が蘇ってきた。
俺が十三歳の時、五つ上の兄貴は、あろうことか九歳のガキと婚約したのだ。もちろん、恋愛の末の婚約ではない。皇帝の家系とは言え、直系は叔父上の方へ移り、俺たちの権威はいまいち落ちぶれかかっていたところに、兄貴が持ち込んだ企画というわけだった。
セラフィナの家は前王の時代――もっと言えばその前から国に大貢献してきた魔法使いの家系であり、最高権力者がころころ変わる不安定な我が国において、揺るがぬ地位を築き上げた大権威だ。つまるところ、混じりけない純粋な政略結婚だということだ。まあ、結婚する前に兄貴は死ぬのだが。
「ああ――ああ」
適当かつ曖昧な返事を手早く済ませ、気配を極力消すことにした。どの道、兄貴が死ぬまで俺は親族連中に気にも留められぬ存在だったから、黙っていたところで責められはしない。
冷静になど到底なれないが、これが夢でもあの世でもない以上、そうして、セラフィナがまだガキで、兄貴が生きていて、さらにこの光景に見覚えがあるということは、俺は過去に戻ったって考えるのが妥当だ。信じられないが、どうやらそうらしい。
俺はチラリと、悪女セラフィナを盗み見た。
たった一人で我が家に迎え入れられたセラフィナは、どうしていいか分からない様子で、もじもじと指先をいじっている。実に大人しく清楚な少女然としていて、見た目こそ確かに整っていると言えるものの、俺を排斥しに来たあの恐ろしい女の片鱗すら見当たらない。これが後に皇帝の愛人に成り上がり、気にくわない人間を何人も処刑し、稀代の悪女と呼ばれるのだから人間分からないものだ。
「おい、セラフィナ」
親族連中に饒舌に演説をかましている兄貴に気づかれないように小声で彼女に話しかけた。
「お前、大人になっても俺を殺したりするなよ」
意味が分からないのか、不安げな表情をしていたセラフィナは、今度は泣きそうな表情になった。年上の男に訳の分からないことを言われてどうしていいか分からなかったのだろう。
食事が滞りなく進んでいく最中も、俺はセラフィナばかりを観察していた。敵を知るにはなにより観察だからだ。
そうして気がついたのは、先ほどからちっとも彼女の食事が減っていないということだった。
「飯、食わねーのかよ」
「……さかな、きらい」
初めて聞く彼女の声は、驚くほど小さく、囁くほどの声量だった。
九歳のガキってこんなもんだっけか。自分の頃など、俺はもう忘れちまった。
そもそも子供に大人と同じ味付けで、同じ分量の食事を出すということ自体、いかに兄貴がこのガキに興味がないかを物語っていた。哀れなものだ。セラフィナも、この俺と同じように道具としてしか見られていないのだろう。思わず同情をした。
「じゃあ食ってやるよ。代わりにデザートをやるから、あとで文句を言うなよ」
俺は甘い物が苦手だから、これぞウィンウィンの関係ってやつだ。
甘味が運ばれて来たのを約束通りやると、セラフィナは目を輝かせて嬉しそうに言った。
「ありがとうお兄ちゃん」
俺の胸を、さわやかな風が駆け抜けたように思った。
なんだと。ちょっとかわいいじゃねえか。
セラフィナと言えば、魔法使いの家の娘であるが無能力として生まれた役立たずだと長い間思われていた。だが女が持つ別の才覚により、兄弟を凌ぐ地位を手に入れた。即ち、彼女は美貌を持っていた。
セラフィナはその美しさで、皇帝の愛人にまで上りつめたのだ。
そうして我らがぼんくら叔父上を見事操り、政治的介入をし、気に入らない家臣を処刑し、他国への侵略戦争を繰り返していた。だから嫌われて、恐れられていたのだ。
なぜこの子猫よりも弱そうな幼いセラフィナが、国中を震え上がらせるほどの悪女になったのか、残念ながらその答えを俺は持ち合わせていない。彼女と関わりを持ったのは、兄貴が死んでから俺と婚約し、そして解消するまでの数ヶ月だけであったし、その後は政治的対立もあり、互い憎しと嫌い合っていた。
思えば、兄貴が死んでからか? セラフィナがおかしくなったのは。
普通に考えて、幼少期に婚約者が死ぬなんて衝撃が、少女に与える影響は計り知れないだろう。
俺は別に兄貴が死んでも悲しまなかったし、わざわざ戦場に行って死ぬなんて阿呆だなとしか思っていなかった。だがセラフィナはどうだろう。政略結婚とは言え仮にも婚約者が死んだのだ。悲しみでとち狂ってしまったのかも知れない。
そうか、と俺は思った。
兄貴が死んで狂ったのなら、兄貴を死なさなければいいんじゃないのか。兄貴が死ぬのは戦場だ。だったら、理由をつけて、行かせなければいいのだ。
「なんだ、簡単なことじゃねえか」
声に出すと、セラフィナは再び怯えたような表情になった。
数日の間、セラフィナは俺たちの屋敷に滞在するとのことだった。不思議に思ったのは、彼女の家の使用人が一人も外泊に着いてこなかったということだ。
翌朝、兄貴のいない朝食の席で、感じた疑問をセラフィナ本人にぶつけると、栗色の瞳がぎこちなく向けられた。
「フィナは、いつも、ひとりで全部やってるの」
またしても、聞き取るのがやっとくらいの小さな声だ。
「嘘つけ。普通、お前ん家ほどの名家なら、山ほどの世話係を付けさせるものだろ。特にガキなら、一人で身の回りの世話などできないはずだ」
「だって、フィナは魔法がつかえないんだもん、使用人をもらうケンリなんてないの」
「誰がそんなことを言うんだ」
「みんな」
セラフィナは、消え入りそうな声でそれだけ言うと、小さな口でパンにかじりついた。
よく見れば彼女の手は赤くひび割れていたし、服のリボンは不器用に結ばれている。俺を殺しに来たセラフィナはド派手な金髪をしていたが、まだ染められていない素朴な色の髪はお世辞にも綺麗とは言えず、ボサボサだ。
どうして俺は気がつかなかったんだろう。もしや、幼いセラフィナは、家で虐げられ、挙げ句の果てに落ち目の家に厄介払いされたとんでもなく可哀想な娘なんじゃないのか。
まあ、以前の俺が気がつかなかったとしても仕方がない。十三歳の頃の俺の興味と言えば、飯と女くらいなものだったから、九歳の少女など存在さえ気にも留めなかった。今の精神では、まあまあ周囲に目を向けられるくらいにはなってはいるが。
俺にだって魔法くらいは使える。
なにせ死ぬ前は宮廷魔法使いをしていたのだから。
俺がパチリと指を鳴らすと、セラフィナの服は整えられた。髪も梳かし、適当な髪型に仕上げてやる。
精神力を主な糧としているせいか、魔力自体は、十三歳よりも成長しているようだ。
暗い表情をしていたセラフィナは驚いたように俺を見た。
「従者ごっこだ」
ふん、と鼻を鳴らしながら俺が言い訳のように言うと、察しが悪いのかセラフィナはぽかんと口を開けていた。
花だって、花瓶が悪いと悪く見える。見た目が悪い奴と食事をする気になれなかっただけだ。
「ありがとう」
小さく言うとセラフィナは、カップに入った紅茶で、自分の姿を確認しているようだった。
どうやって兄貴が戦場に行くのを阻止しようかと考えながら食後の茶を飲んでいると、セラフィナが窓の外に目をやっていることに気がついた。
つられて目をやると、庭師の手によって整えられた庭がそこにある。
「花、好きか」
過去の俺はセラフィナの相手など微塵も興味がなかったが、未来を知る今は、この娘を知ることを第一の課題と考えたのだ。
セラフィナは小さく頷いた。
「じゃあ、見てみるか?」
セラフィナは、今度は俺を見上げて頷いた。きっと喜ぶだろうと思ったが、その瞳は不安げに揺れていた。
庭へ出ると、あろうことかセラフィナが手を繋いできた。
ぎょっとしたが、嫌な気はしなかった。平素、女が勝手に体に触れてくるのは死ぬほど嫌なのだが、相手が幼すぎる子供であると、そうでもないらしい。
驚くほど小さな手を、どの程度の力で握り返せばいいのか分からず、握られるまま庭を歩き回る。
これが同じ歳の女を案内するのであればいい雰囲気の男女にもなっただろうが、相手は九歳児だ。そうして俺も十三歳だ。午前の健康散歩と言ったところだろうか。
兄貴と違って花の種類など分からない俺は、ほとんど無言でセラフィナを案内したが、それでも彼女は楽しそうにしていた。
他に相手をする人間がいないせいだろうか、午後になっても、セラフィナは俺の側を離れなかった。
特に用事もないので拒みもしないが、九歳児相手に何を話せばいいのか分からない。セラフィナにしたって、ソファーで本を読む俺の横に、何をするでもなくちょこんと座っているだけだった。俺が本当にガキだったならまだ話も合ったかもしれないが、あいにく立派な大人なのだ。俺に子供はいないし、普段関わることもない。つまるところ子供というのは、俺にとって未知の存在だった。
「やりたいこととか、ないのかよ」
耐えきれず声をかけると、セラフィナは目を丸くした。しかし何も答えず、大きな瞳が俺の言葉の意味を探るように、じっと見返してくるだけだ。
「なんでもいいぜ。食いたいもんとか、欲しいもんとかねえのか」
長い沈黙の後で、セラフィナは、やはり消え入りそうな声で言った。
「……らない?」
「あ?」と聞き返すと、先ほどよりも、わずかに声を大きくする。
「きらいにならない?」
「なにが」
「フィナが、欲しいものを言っても、お兄ちゃんは、きらいにならない?」
少なくないショックを受けた。今までセラフィナは、欲しいものを言ったら嫌われる場所で生活をしていたのだろうか。あの、欲しいものなら強引にでも手に入れる悪女セラフィナの幼少期が、これほどまでに悲惨であったと、誰が知っていただろうか。
欲しいものを言ったくらいで嫌われていては、人類は誰しも孤独になってしまう。
「……なんねえよ」
やっとの思いでそう言うと、あのね、と顔を赤らめ、内緒話をするように彼女は手を、俺の耳元に近づけて囁くように言った。
“お友達になってほしいの”
◇◆◇
ともあれ数日は穏やかに過ぎた。初日に魚を食ってやったせいか、セラフィナは俺に懐き、心を開かない娘をどうやって手懐けたのかと、兄貴に驚かれたほどだ。
あまりみすぼらしい姿をした人間と一緒にいたくない俺は、毎日せっせと彼女の身支度を手伝った。
元々外見がいいせいか他の美少女が泣いて嫉妬しそうなほど、セラフィナは可愛らしくなった。身内のひいき目も、多少あることは否定しない。誰だって、自分が手を入れたものには愛着が沸くというものだ。
俺はセラフィナと友人になったか? については、まあ多分そうだ。少なくとも、彼女が退屈しないように、相手にはなっていた。あくまで俺にだけだが、セラフィナは、時折小さく笑みを見せることもあった。
だから兄貴がこう言って来たのも、納得はできた。
「アーヴェル。お前がセラフィナを家まで送ってやれ」
驚きはあったことはあった。それがたとえ、気難しい少女が俺に奇妙に懐いたからで、当主として忙しい兄貴の代わりという理由だけであったとしても、兄貴が俺に頼み事をするなんて過去に一度もなかったからだ。分かった、と頷くと、頼んだぞ、と兄貴は俺の肩を叩いた。俺の精神年齢は今の兄貴より上だが、それでも頼られたことについて、俺の胸はこそばゆくなった。
さすが由緒正しき伝統あるセラフィナの家は他を寄せ付けぬ威厳と重厚さが感じられた。門構えだけでなく、その内面にもである。孤高の精神が、そのまま建物にも反映されているかのようだった。
屋敷に着くなり出迎えた使用人は、玄関先でセラフィナを見ると、明らかに嫌そうな顔をした。
「旦那様は留守にされております。お嬢様はここで引き取ります。あなた様もお帰りくださいませ」
そういって、セラフィナの片腕を無理に引っ張った。
「いたっ」セラフィナがそう言った。
セラフィナはそう言っただけだ。使用人に腕を引っ張られて、痛がっただけだ。そうして助けを求めるように、俺に向かって手を伸ばした。それだけだ。
それだけだが、俺はもう、許せなかった。
九歳の娘が婚約者の家からやっと帰って来たというのに、出迎えたのはたった一人の使用人で、それさえ彼女を敬っていないのだ。この女を、誰だと思っているんだ? 俺の家の当主の、妻になる女だ。ふつふつと、怒りが沸いた。
これはつまり、俺の家に対する侮辱だ。
俺へ対する侮辱と同義だ。
――バチンッ!
「ぎゃあ!」
空中に、火花が炸裂し、使用人が悲鳴を上げた。俺の放った魔法は空中で小さな爆発を作り、使用人の手に、わずかな火傷を負わせていた。
「魔法使いを侮るから痛い目に合うんだぜ」
俺は腕に、セラフィナをがっちりと抱きしめていた。小さな体温が震えている。
「セラフィナは連れ帰る」
使用人は絶句して手を押さえながら俺を見つめている。俺は、自分に言い聞かせるように言った。
「こいつは兄貴の婚約者で、もうほとんど俺の家の者だ。どうしたって、こっちの自由だろう!」
それだけ言うと、セラフィナを抱え、乗ってきた馬車に再び乗り込んだ。馬車に座ってもセラフィナは、俺の体にしがみついたまま、離れそうもない。それでいいと、俺も放っておいた。頭はひどく、混乱していた。
以前の記憶だと、セラフィナを送りに行ったのは兄貴であったし、きっちりと返却して、俺たちの家に住むなんてこともなく、兄貴が死ぬまで、表面上、二人はそれなりに付き合いを続けていたと思う。
だが俺はセラフィナを連れ帰ってしまった。どうなってしまうかは分からない。以前とはまるで、違う展開なのだから。
でもいいだろう、と言い訳のように心の中で呟いた。
セラフィナを悪女にせず真っ当に育て上げれば、俺の命は守られるし、叔父上も操られず、処刑された多くの奴らが救われるのだから。これは世のため、俺のためだ。
セラフィナを伴って帰ったとき、兄貴が怒らなかったのは意外だった。苦笑を浮かべてはいたものの、俺が彼女の家の話を伝えると、納得したようだった。
「お前がそう思ったなら、それでいいさ」
とさえ言ったのだ。もしや、見た目がよくなったせいで、セラフィナへの態度が、軟化したのかもしれない。あるいは少しのうぬぼれが許されるのならば、兄貴は俺を信頼したのだ。
◇◆◇
それから、セラフィナは俺の妹のような存在になった。
セラフィナが学校へ通いたいと言えば通わせたし、海へ行きたいと言えば連れて行った。
ドレスも何着も買ったし、食事にも、旅行にだって連れ出した。その全てに、セラフィナは嬉しそうに目を輝かせた。不在がちな兄貴の代わりに、彼女を真っ当に育て上げるのは必然だった。
兄貴との関係も悪くはなさそうで、日に日に美しくなっていく彼女に、兄貴が目を奪われているのには気がついていた。
二人はよく連れ立って出かけていた。
そのたびに、胸の奥が、チリチリと焦げ付くように痛んだが、俺はそれに、気がつかぬフリをした。
一方で俺の体も順当に成長していた。
魔法の才能を見いだされ、専門の学校に通っていた。以前は寮へと入っていたが、それではセラフィナを見張る時間が少なくなってしまうから、家から通うことにした。二度目の勉強であるから当たり前でもあるが成績はよく、成績が良ければ文句を言う連中はいない。毎日通わなくても、問題はなかったのだった。
俺が十七歳になり、セラフィナが十三歳になったときのことだ。休日にも関わらず、新しく始めた事業がどうのこうので、兄貴はおらず、俺とセラフィナは隣り合ってソファーに座りながら、過ごしていた。
「ショウのことは好き。だけど恋なのか分からないわ。どきどきするのはアーヴェルといる時だもの」
俺は読んでいた本を、テーブルに置いてあった紅茶のカップの上に取り落とした。セラフィナを見ることもできずに俺は言った。
「馬鹿だなお前、そりゃ、俺とお前は友達で、兄妹みたいなもんだろ。一緒にいる時間も長いし、忙しい兄貴よりも俺といる時間が多いのは当たり前だ。だから遊びの楽しさで、どきどきするんだろうが」
動揺しすぎて早口だ。
「そういうもの?」
首をかしげるセラフィナは、このところぐっと大人びたが、表情にはまだ幼さが残る。
「じゃあアーヴェルも、わたしといるとき、どきどきするの?」
顔を近づけるセラフィナと、束の間見つめ合った。こいつ、からかっているんだろうか。もう悪女の片鱗が見え始め、男を弄んでいるのか?
だがセラフィナの表情は純粋そのもので、邪気の欠片も感じない。
こいつが男連中の気を引く外見に変わってきたことには気がついていた。実際、セラフィナが通う学園の連中など、ショウの存在があるにも関わらず結婚を申し込んでくるらしいのだ。セラフィナが未だそう言った話題に疎いのは幸いだが、それは俺があえてそういった話題から彼女を遠ざけていたおかげでもある。己に恋愛的価値があると気がつき魔性が開花したら大変だからだ。
「俺はしねえよ、大人だからな」
ふうん、とセラフィナはつまらなそうに呟いた。
セラフィナと俺との関係同様、違いがあったのは兄貴と俺との関係だった。
以前は道ばたの小石を見るよりも俺に無関心だったショウは、少なくともわずかの信頼を置くようになっているようで、事業の一端を、任せることも時にはあった。時が戻る前は数個の事業を転がしていたせいもあり、俺が実によくこなすので、兄貴は感心しているようだった。
精神年齢的に言えば今年二十二歳になる兄貴よりも俺は大人ではあるのだが、それでもやはり、俺にとって兄貴は兄貴であり、越えられない壁でもあり、その存在はこの家にとっての支柱だった。
ある日、セラフィナが観劇に行きたいと言い出した。その日は兄貴も休みで、だから三人で向かったのだ。有名な戯曲であり内容は知っているし、過去では当時の恋人にせがまれて実際に観に行ったこともあったのだが、何度観ても正直言って俺はよく分からん話で、おそらくは恋愛物なのだが、主人公の行動が理解できないのだ。
劇が終わり、いたく感動しているセラフィナに向かって俺は言った。
「これ面白いか? なんで女は男を殺すんだ? 好きだったんじゃないのかよ。結局は憎んでたのか」
「違うわ」セラフィナは、ため息を吐きながら俺を睨みつけた。「サロメは、ヨカナーンのことを本当に好きだったのよ。愛していたから殺したんでしょう? だってそうしたら、永遠に自分のものになるから」
「なるほど分からん。哲学の話かよ」
俺の言葉に、セラフィナは笑った。
「アーヴェルは、恋愛の話になるとからきし鈍感になるんだもん」
兄貴はじっと、そんな俺とセラフィナを見ているようだった。
そうしてその日から、徐々に俺たちの関係は変わっていった。
俺はその劇を二度と観る気はなかったため、セラフィナと兄貴は二人で劇場へ行くことが多くなった。兄貴が恋愛劇を観るなんて意外なことだが、劇場は社交の場でもあり、顔を広める意味合いも、兼ねているのかもしれない。
俺は気楽なものだった。セラフィナと兄貴の距離はこのところぐっと縮まって、もし彼女が戦争に行くなといえば、きっと兄貴は行かないだろうとさえ思った。そうすれば、セラフィナは不特定多数の愛人になることもなく、ただ一人の男の妻として、平凡な幸せを歩むのだろう。俺も殺されない。
ショウとセラフィナは、歳こそ離れているものの、誰がどう見ても、親密な恋人だった。だが実際、どこまで進んでいるのかは俺にはさっぱり分からなかった。
◇◆◇
また数年が経った。俺は首席で学校を卒業し、前と同じく宮廷魔法使いになった。
セラフィナは十六歳になり、その美しさはもはや隠しようがなかった。しかも兄貴が彼女を方々へ連れ出すため、帝都中で彼女の噂が囁かれるようになっていた。
事件が起きたのはそんな折だった。
時が戻る前の世界でも経験したことだが、叔父である皇帝の息子の、誕生日を祝う舞踏会が開かれた。正直言って俺は行きたくなかったし、実際、前は適当な言い訳をつけて行かなかった。叔父上のことは好きではないし、その息子シリウス――俺にとっての従兄弟殿だが、そいつのことはことさら嫌いだった。
告白すると嫉妬のせいだ。
シリウスは、糞みたいな父親から生まれたとは思えないほど嫌味のない爽やかな奴で、子供の頃から非の打ち所がないくせに、俺のような人間にも見下すことなく分け隔てなく接し、実に皇子の器であり、つまり俺の対極にいる最たる人間だった。奴に会うと己の醜さばかりが露呈し、惨めになるから嫌いなのだ。
だが俺は、行かねばならなかった。
なぜなら、このパーティで、セラフィナは叔父上他、貴族連中に目を付けられることになる。まあ、叔父上始め傲慢な貴族どもも、ショウが死ぬまではセラフィナには手を出さなかったのは一応は常識的ではある。
だが行くなとも言えないのは、俺はセラフィナの婚約者でもなんでもないからだ。それに、俺たち一家が行かなかったとしたら、叔父上に反発しているとも捉えられない。政治的立ち回りというのは、中々ままならないものだ。
少なくとも今日できることは、なるべくセラフィナから目を離さないことだった。
肝心なセラフィナはというと、普段家にいるときよりも一層輝きを増しており、これだけ大勢の中にあっても彼女だけが存在する唯一の物であるかのように、他を寄せ付けぬ美貌を放っていた。
兄貴もそんな彼女が自慢でもあり心配もしているようで、片時も側を離れない様子に俺も安心し、ならば少しぐらい楽しんでもいいだろうと、寄ってきた令嬢達の相手をしていた時である。
兄貴が焦った様子で近づいてきて、そうして小声で囁いた。
「アーヴェル。セラフィナを見なかったか?」
見渡しても、たしかに彼女はいない。この時ばかりは「くそ兄貴」と、声に出して罵ってしまいそうだった。お前が守ってやらないでどうするんだよ。世間知らずのセラフィナが、今まさに貴族の阿呆たれどもに絡まれているかもしれないのだ。
探す、と言って、俺と兄貴は、それぞれ彼女の行方を追った。
異変を感じたのは庭だった。こんなパーティの場では、人知れず抜け出した男女が庭で背徳的な愛を愉しむことが常だ。一瞬、その類いだろうかと考えた。だが、様子がおかしい。数人が言い合う声がしたのだ。
「放して! 嫌よ!」
明らかにセラフィナのものだった。音楽が鳴り響く会場へは、この騒ぎが届いていないらしい。
「お高くとまりやがって。いくら名家に生まれたからって、無魔法のお前は女としての価値しかないんだろう! その美貌で皇帝一家に取り入ったか? どうせショウにもやられてるんだろうが! 男を知らないとは言わせないぜ!」
「もうやっちまおうぜ」
男の笑い声がした。やばい、と直感的に思った。声のした方へ走っていくと知らない男たちが、セラフィナを羽交い締めにしているところだった。
心臓が凍り付いてしまったかのようだった。だが次には、燃えるほどに熱くなった。覚えているのはそこまでだ。
気がつけば、セラフィナが俺の腕に触れていた。
会場の音楽は鳴り止んでいて、さっきまで会場にいたはずの貴族どもが、俺を取り囲むように見つめていた。皆、一様に、怯えた表情を浮かべている。
俺は自分の呼吸の音を聞いた。セラフィナが、泣いている声も聞いた。自分の手が赤く染まっているのも見た。セラフィナに絡んでいた男達が、血まみれで芝生の上に倒れていた。いつの間にか側に来ていた兄貴が、何かを言いながら、俺の肩を抱き、無理矢理歩かせた。
――結局、男達は全治数週間の怪我を負った。再び会ったら、今度こそ殺すことを俺は誓った。
あの後すぐセラフィナと俺は帰されたから知らなかったが、パーティは一応最後まで続いたのだと兄貴は言っていた。従兄弟シリウスなどは、招待客が無礼を働いたことを大層気に病んだらしく、後日お詫びの品と手紙が届いた。どこまでもできた皇子である。
兄貴が俺を叱らなかったのは、セラフィナの証言によるところが大きい。俺たちが大事に育てたセラフィナが、あやうく糞みたいな男に襲われるところだったんだ。しばらくの謹慎の他には、兄貴は何も言ってこなかった。
家にいる間中、俺は考えていた。
もしかすると時が戻る前の世界でも、セラフィナは男に襲われたんじゃないのか。恐ろしい予感だが、あり得なくはない。以前のセラフィナはどんな女だった? 傲慢で気が強く冷血で欲望に忠実で、人を駒としてしか見ていなかった。このセラフィナも、同じセラフィナのはずだ。だとしたら、前の世界のセラフィナも、元は純真で良く笑う少女だったのかもしれない。魔法使いの権威の名家で無魔法の娘として疎まれ、権力しか頭にないような男の婚約者になり、そうしてパーティ会場で、男達に襲われた。極めつけは、婚約者の死により、その弟と婚約したことだろう。その弟も、兄とはまた違ったタイプの糞野郎で、女遊びとギャンブルにしか興味がなかった。挙げ句の果てにその弟は、別の男が彼女と結婚したいと申し出たら、どうぞどうぞと差し出したのである。セラフィナのプライドも誇りも、砕け散ったのかもしれない。
その糞の弟こそ、この俺である。
だが、今は違う。
今の世界は何もかも違うのだ。
初めは権力目当てだったかもしれないが、兄貴はセラフィナを大事に思っている。それが恋愛感情なのかは知らないが、少なくとも、家族のようには思っている。それを裏付けるように、二人は以前にも増して頻繁に、連れ立って出かけるようになっていた。
俺の謹慎がまだ解けないある日のこと、兄貴とセラフィナはまたしても朝からどこかへと出かけていて、戻ってきたのは深夜だった。二人が帰ってくる気配を、俺は自室で聞いていた。
それで終わるはずだったが、なぜかセラフィナが俺の寝室を訪ねて来た。
ガキの頃、度々彼女は眠れないと言っては、俺のベッドへと潜り込んできたが、それなりに成長してからは、一度もなかったことだ。セラフィナの表情は明るいとは言えず、思い悩んでいるようだった。
明かりを付け、ソファーへと促すと、彼女は言った。
「ショウと、キスをしたわ」
驚いて顔を見ると、目が合った。彼女の目は赤く、泣いていたようにも見える。
「彼と結婚するんだって、やっと分かった」
胸元のリボンの結び目が、出かける前と違うことには気がついていた。こんな深夜に帰ってきて、酒も飲んでいるような二人の間に、何が起こったかなど考えなくても分かることだ。十六歳になれば、結婚する奴だっている。兄貴とセラフィナの間にどんな関係があろうと、なにもおかしい話ではない。
「よかったじゃないか」
心にもないことを俺は言った。
このところ、めっきり見せなくなった泣きそうな表情で、セラフィナは俺を見ていた。それは初めてこの屋敷に連れてこられた時の彼女の表情と寸分違わず同じであり、そのことに俺は、計り知れない衝撃を受けた。
「アーヴェル。でも、わたしあなたが」
「言うな」
体がびくりと震えて、俺は言った。
「それ以上は、聞きたくない」
聞いたところでどうしようもないことだ。恐ろしかった。いつのころからか俺を取り巻くようになったこの感情に、向き合うことが怖かった。だがセラフィナは、俺を逃がしてはくれなかった。真剣なまなざしで、俺を見つめる。
「あなたはいつだってわたしの側にいてくれた。助けてくれたし、どんな望みだって叶えてくれた。わたしの側にいたのはショウじゃない、あなただった。わたしが好きなのは……好きなのは、あなたなの」
セラフィナの声は震えているが、俺は首を横に振った。
「お前は兄貴と結婚するんだ」
俺じゃない。
「部屋に戻れよ。俺はお前を、どうすることもできやしないんだから」
拒絶の言葉だった。
セラフィナの目から、ついに涙がこぼれ落ち、そうして立ち上がると、黙ったまま部屋を出て行った。彼女は傷ついていた。傷つけたのは、この俺だ。
――これでいいじゃないか。
今は傷ついていても、いずれ時が経てば忘れることだ。
俺は自分に言い聞かせた。
ショウとセラフィナは、近く結婚するんだろう。ショウは戦場になんかいかない。死ぬこともない。俺は前と同じく叔父上のコネで宮廷魔法使いになり、自由気ままに暮らすのだ。その生活の中では、セラフィナが殺しに来ることはない。俺は彼女にとって、取るに足らない存在になるのだから。
そうとも、これでいいんだ。いいはずだ。
だが、もう一方で、気づきたくもなかった感情に気がついてしまった。
ありふれたことだ。よくある話だ。
俺はセラフィナに恋をしていて、たった今、失恋したのだ。
◇◆◇
セラフィナが俺を振ったのか、俺がセラフィナを振ったのかはともかくとして、俺たち二人の距離は、前よりも離れていた。仕事の忙しさもあり、俺は一人で過ごすことが多くなり、相変わらず忙しい兄貴とも、顔を合わせる機会は減っていた。
そんな生活の中で、珍しく兄貴が酒に誘ってきた。
食事の後でセラフィナも眠っていたし、むさい男二人で、ワインを飲むことにした。
「兄貴が俺を誘うなんて、どうしたんだ」
「たまにはいいだろう、お前も私も、近頃まともに話していなかったんだ」
それもそうだ。失恋の感傷により、俺が兄貴を避けていたんだから。
「仕事はどうだ」などと世間話を始めた兄貴に、適当に返事をし続ける。以前の世界での俺と兄貴は顔を合わせても挨拶さえしたかどうか怪しいところだ。だが今は。今は普通の兄弟くらいの関係は築けていた。それも全て、おそらくはセラフィナがいたせい――いや、おかげだろう。
たった一人の存在が我が家に現れただけで、これだけ仲が改善するとはおかしな話だ。
「従軍することにしたんだ」
話し続ける兄貴の声の中で、その言葉だけが嫌にはっきりと聞こえた。
「は――!?」間抜けな声を出す俺を見ながら、兄貴は静かに続けた。
「我が家の地位は、そうでもしなければ確保できない。叔父上は、私やお前が皇帝の座を狙っていると恐れているんだ。彼に睨まれては我々は生きていけない。国に尽くすことを、見せてやらなければなるまい」
「行ったら死ぬぞ……!」
俺は立ち上がった。衝撃でグラスが揺れる。
そうして自分でも、思いもしなかったことを叫んだ。
「じゃあ俺が行くよ! 誰かが行かなきゃいけないんだったら、俺が行く! 俺が戦場へ出て、俺たちが国家と皇帝に従順だと示せばいいだろう! 第一、セラフィナはどうなるんだよ!」
「あれはお前を好いている。私が死んだら、お前が面倒を見てやればいい」
「違えよ!」
本当に兄貴は馬鹿でクソ野郎だ。俺が言いたいことを一つも理解していなかった。
「俺は、兄貴に死んで欲しくないんだよ!!」
しん、と静寂が訪れた。兄貴は驚いたように俺を見ていたし、俺だって自分で言った言葉に驚いていた。なんてこった、俺は、兄貴に死んで欲しくなかったんだ。戦場へ行ったら、俺が死んでもおかしくないのに、自分の死を防ぐためではなく、単純に、兄貴が死ぬのが嫌だった。
俺は、再び椅子に座り直して、やや冷静になった頭で言った。
「そうだ、俺が行くよ。当主が死んだらどうするんだ。俺だって仕事が忙しい。家がやってる事業なんて引き継げるわけがない。だけど宮廷魔法使いの仕事は別だ。俺よりも魔法が使えて頭のいい奴なんて腐るほどいる。換えはいくらでもいるんだ」
兄貴は、眉間に皺を寄せた。
「アーヴェル。お前はそれでいいのか?」
いいかなんて知るかと言いたかった。だが、それが最適解のように思えたのだ。
「だけど兄貴、ひとつだけ約束してくれ」
俺たちは、まっすぐに見つめ合った。
「あいつを、セラフィナを幸せにしてやってくれ。政治の道具としてじゃなく、一人の女として、幸せにしてやってくれ。セラフィナは、俺にとっても――……妹、同然なんだ」
結局俺は、核心から逃げた。妹だなんて思ったことは、一度もなかったくせに。
しばらく考え込んでいた様子の兄貴は、長い沈黙の後で、ようやく首を縦に振った。
そうして俺は、戦争へ行った。セラフィナは泣いたが、引き留めはしなかった。俺の決意が固いことを、彼女なりに悟ったのだろう。
俺がセラフィナの側を離れる決心が着いたのは、もう彼女は、どう転んでも悪女になどならないと確信したからだ。兄貴の花嫁として、幸せな女になるのだろう。
一年と数ヶ月、従軍した。
戦場での話はあまりしたくない。暗く血なまぐさい死があっただけだ。
兄貴が死んだと知らされたのは、戦場に届いた手紙でだった。
◇◆◇
俺が帰った時にはすでに葬儀も終わり、兄貴は埋葬された後だった。屋敷には、俺が戻ると知っていたらしいシリウスもいて、セラフィナと一緒に待っていた。出来のいい皇子は、俺に気遣わしげな視線を向けてくる。
「アーヴェル、なんと言っていいか分からないよ。ショウは、強盗に襲われて、ナイフで刺された。ほとんど即死で、苦しまなかったのが救いだ」
泣き出したセラフィナの背を、シリウスは慰めるようにぎこちなく撫でた。
シリウスの視線に、従兄弟の婚約者に向ける以上の感情が込められているのを横目で見ながら俺は言う。
「墓へ行ってくる」
セラフィナが、一緒に行くと言った。
一族が葬られている墓地の一角に、兄貴の墓は佇んでいた。あれほど威厳たっぷりで偉そうだった兄貴はいま、たった一人、誰にも尊敬されることなく墓石の下にいる。
「ちょっと待て。……ちょっと待てよ! おかしいだろこんなこと!」
墓を見て、ようやく俺は兄貴の死を実感した。
周りも憚らず墓にすがりつき、大声を上げて泣いた。
こんなはずじゃなかったんだ。こんな――。
兄貴は幸せになるはずだったんだ。
そうとも、幸せになるはずだった。誰よりも美しいセラフィナと結婚して、子供を何人も作って、皇帝の従順な家来として誰からも尊敬されて、そうして老いて、惜しまれながら死ぬはずだった。そのはずだったんだ。その未来を、誰もが夢に見ていた。
俺は声を上げて泣いた。悲しみか怒りか、もはや判断がつかなかった。
兄貴が死んだことが、今、耐えきれなかった。
俺は馬鹿だ。ショウが死んだことが、今更悲しいだなんて。
前は悲しいとすら思わなかったのに。
ガキの頃俺は、兄貴が好きだった。いつだって後を追っかけて回っていた。兄貴は困ったように笑いながらも、俺を邪険にすることは決してなかった。俺は前の世界でだって、今の世界でだって、ショウを愛していた。そのことに、やっと今、気がついたのだ。
「ごめんね、ごめんね……」
セラフィナが、俺の背中に抱きついて、何度も謝罪を口にした。
ショウはセラフィナといるとき、強盗に会って殺されたらしい。兄貴はセラフィナを庇ったのだ。
殺す気はなかったのだろう、強盗は何も盗らずに逃げ出し、後に捕まり絞首刑台に送られた。
セラフィナのせいじゃない。お前は何も悪くない。
もしこの世に運命というものがあるのなら、ショウがそれに負けただけの話だ。戦争に行かなくても兄貴は死んだ。
……ならセラフィナも悪女になって、俺を殺すのかもしれない。
だが正直もう、どうでもよかった。
ふらりと立ち上がった俺を、セラフィナが不安げに見た。
「……どこに行くの?」
「戦場へ、戻るんだ。俺は将校なんだ、そう何日も空けてはいられない」
「行かないで。お願い。行かないで!」
セラフィナが、再び背中にすがりついた。俺より遙かに背が低く、体は細い。美しく、儚げで、誰よりも清い心を持っている。俺が自分よりも、何よりも、大切に育てた女だった。
「側に、いてアーヴェル。わたし、心細いの……。あなたがいないと、わたしは不幸になってしまうわ」
セラフィナの声が聞こえた。
「わたし、なにが不幸かなんて知らなかった。だって幸福を知らなかったから。だけどもう知ってしまったの。元には戻れない! アーヴェル。あなたが教えてくれたのよ! わたし、あなたのためなら死んでもいい。愛してるの、あなたが好きなの……!」
「無理だ」
俺は、セラフィナに体を向け、彼女を引き剥がした。
「無理だよ」
自分でも、驚くほど冷たい声色だった。セラフィナの目が、怯えたように見開かれる。
俺はセラフィナを兄貴の妻にするために育て上げたんだ。自分の妻にするためではない。
俺には無理だ。俺は前の世界で自堕落な生活を送っていた最低のクズだ。時が戻ってマシになったが、根は腐りきった出来損ないだ。兄貴とは違う。どうして、セラフィナを幸せにできるって言うんだ? しかも、兄貴が死んだ直後だぞ。
なおも、セラフィナは俺の服を掴んだ。
「アーヴェルじゃなきゃ、嫌なの」
「分かってくれ」
俺自身が分かっていないのに、セラフィナに分かってくれというとはとんだ間抜けだ。
だがそれからも、俺は戦場へは戻れなかった。兄貴が死んで、宙ぶらりんになった仕事を、いくつも抱え込んでしまったからだ。
◇◆◇
セラフィナとショウの婚約がだめになった以上、俺と婚約させるのが筋だ、と親族連中が言い出した。セラフィナの家との繋がりを、保持しておきたかったのだろう。だが俺は無視し続けた。愛がなかった以前は抵抗もなく彼女と婚約したのに、愛した今、そうしないとはなんとも皮肉な話だった。
セラフィナは彼女の生家に戻り、もはや俺とは、なんら関係のない人物になった。
そんな中で、律儀にも、俺にお伺いを立ててきた人間がいる。
“セラフィナと婚約したい”
それは皇子、シリウスだった。ショウの死からセラフィナが立ち直ったのは、急速に仲が深まったシリウスのおかげでもあった。自分の誕生パーティから彼女を見初めていたのだろうか。だとしたら、なんとも気の長い話だ。
すでにショウの死から、三年も経った頃であり、どうぞどうぞ、ご勝手に。そう言いたい気分だったが、一応当主になった責任として、俺はセラフィナに会いに行った。
相変わらず重苦しい外見の家だ。セラフィナが虐げられていないか不安に思ったが、皇子の想い人を無下にするほど愚かではないだろう。
出迎えたのは、セラフィナ本人だった。
「久しぶりね」
幼さは過ぎ去り、大人になった彼女は、背筋が凍り付くほど美しい。そう思うのは、久しぶりに会ったせいだろうか。
一方の俺は、ひどい有様だっただろう。このところの俺は、前の自分に戻ったようで、恋人を何人も作り、酒と賭博に溺れていた。もうどうでも良かった。仕事の義務こそ果たしていたものの、他の全てが自暴自棄になっていたのだ。
「入って。お話しましょう」
手を引かれるまま、中に入った。
「お父様も兄弟たちも、前とは打って変わってわたしに優しいわ。シリウス様が気にかけてくれているせいだけど、それって少し、馬鹿みたいって思っちゃった。わたしはわたしなのにね」
客室に促されても、セラフィナは話を止めなかった。
「アーヴェルが心配だわ。結婚もせずに、仕事に忙殺されて。趣味が賭博と酒と女性じゃ、健全な精神にはなれないわ」
セラフィナが笑う。
「この家に戻って三年経ったけど、あんまり家って感じがしないのよ。眠っている時の夢でも、出てくるのはあなたとショウと暮らした、あの家だけだもの。あなたがよければ、また戻っても」
「セラフィナ」
彼女の話を遮るように、俺は言った。床で固まる彼女の視線をみて、既に何を話しに来たのか知っているのだと分かった。
俺は一気に言った。
「シリウスがお前と結婚したいと、俺に許可を求めてきた。ショウとお前が婚約していたことを、気遣ってのことだと思う」
ゆっくりと、セラフィナの視線が俺の顔に動いた。審判を待つ罪人のように、セラフィナはじっと俺を見つめている。
「あなたは、どうするの?」
「俺に権限などない」
「権限があったら、どうするつもりだったの?」
わずか息を飲み込んで、俺は言った。
「認めるさ。当たり前だろう」
その瞬間、セラフィナの瞳が暗く澱むのが分かった。俺の背筋は凍りつく。まるで、俺を殺しにきたあのセラフィナと、同じ瞳に思えたからだ。
「そう。……そう、なの」
だがそれも一瞬のことで、次には元の明るい瞳に戻った。
「そうしたら、すぐにでも結婚するわ。ずっとそのことが、気がかりだったから」
結婚についての話題はそれきり終わり、他愛もない話に変わった。仕事の話だとか、ショウとの思い出だとか、友人のように、俺たちは語り合った。
結婚式は、その日から本当にすぐのことだった。俺もシリウス側の親族として参加する。天気も良く、誰もが晴れやかな表情で出席していた。
聖堂の控室にいるセラフィナが呼んでいるというので向かうと、目も眩むほど美しい女がそこにいた。新郎よりも先に彼女の晴れ姿を見てしまったことが後ろめたくなるほどだ。
「綺麗だよ」
率直な感想を言った。
「地球上の女が全員泣いて嫉妬するくらい、綺麗だ」
ありがとう、と彼女は照れたように微笑む。
「アーヴェル、来てくれてありがとう。式の前に、会いたかったの」
もじもじと、彼女は指先を動かした。
「呼んだのは、その、お礼を言いたくて。あなたがいなかったら、わたし、ひどい人間になっていたかもしれないって、思うから」
意図が分からず立ち尽くす俺に、セラフィナは困ったように眉を下げる。昔から、考えを整理するときに彼女がする仕草だった。
「あなたが、側にいて見守っていてくれたから、わたしは真っ当に生きてこれたんだと思うの。冷たい家族に代わって、育ててくれたのよ、わたしの心を」
「俺たち、家族みたいなもんだっただろ、当たり前だ」
うん、と自分を納得させるようにセラフィナは頷いた。伏せられた目を、長いまつ毛が覆っている。
「ねえ、アーヴェル。聞いてほしいの。少し前に、夢を見たの。不思議な夢だったわ。あなたがいて、わたしもいて――」
遠くを見るように目を細めながら、セラフィナは言う。
「だけどわたしの人生は、今とは全然違った。魔法使いの家に生まれながら魔法が使えないわたしは、有力者と結婚することだけが存在の価値だった。
そんな家でずっと過ごして、心はいつだって寒かった。そうしてシリウス様の誕生パーティで、知らない貴族たちに、乱暴されるの。その瞬間、わたしは、自分の心が死んだのが分かった。
その後で、婚約者は戦争で死んでしまって、わたしはその弟と婚約するの。わたし、その人を見て、生まれて初めて心臓が高鳴った。一目惚れだったわ。だけど、その人はわたしを愛してはくれなかった。その人に愛されないなら、わたしはもう、この先も幸せになれないと思った。他の貴族から、声がかかって、婚約を解消してもその人は、興味さえないみたいだった。
それどころか、わたしたち憎み合っていたの。彼は戦争に反対で、わたしは、そうじゃなかったから。
わたしはどんどん、いろんな貴族たちに気に入られて、まるで娼婦のように、彼らの間を渡り歩いたわ。だけどある日、わたしは、ふと自分の身の上を思ったの。――虚しいって」
聞きながら、俺の肝は冷えていくようだった。それはまさしく、悪女セラフィナの記憶だった。セラフィナは、小さく微笑んだ。
「わたしは、思ったの。やり直すことができたら、今度は、本当に愛するその人と、一緒になりたいって、思った。その人って、誰かわかる?」
分かるさ。
「あなただったの、アーヴェル」
「そんなの単なる夢だろ。お前に悪女なんて務まらない」
俺の声は震えていた。
セラフィナは、悲しげに瞳を揺らす。
「あなたにとって、わたしは本当に、ただの妹だったのね。いいえ、妹でさえ、なかったのかもしれない。自分が死なないために、守ってくれただけだったのね」
俺はもう、何も言えなかった。
はじめはそうだ。自分のためだった。だが、気がつけばそうではなくなっていた。セラフィナが大事だった。セラフィナに恋した。セラフィナを愛した。だがそんなこと、今更言えないだろ。愛しているなんて、言えるはずもないだろ。シリウスと結婚するお前に言ってどうする? ならば今まで通りにするしかないだろ。分かってるだろセラフィナ、お前にだって、今更どうしようもないことくらい。
「夢のことなんて、忘れろ。お前はこの国で一番立派な男と結婚するんだ。幸せになれよ」
そう言うしかないことくらい、分かれよ。
俺は冷静なつもりだった。淡々と事実を受け入れていたつもりだった。今の今まで、そのつもりだった。
だが控室を出た瞬間、自分でも引くくらいの量の涙が溢れた。
俺とセラフィナの道は数奇にも重なって、そして今日離れたのだ。
自分よりも大切にして、自分よりも愛した。
思えば過去に戻った俺が、ずっと祈っていたことは、たった一つのことだけだった。
幸せになれ、幸せになれ、幸せになれ。
幸せになれセラフィナ。
幸せになれ。
お前が幸せになることが、俺とショウの願いなんだ。
こんな顔と感情をぶら下げて式には出れまいと、頭を冷やすべく聖堂を出て、一番始めに目に入った酒場で酒を煽っていた時だ。
酔っ払って気が大きくなった男たちが騒いでいる声が聞こえてきた。普段だったら気にも留めない輩どもだ。だがその時ばかりは、そいつが言ったことが嘘みたいに明確に聞こえてきた。
「皇子殿も大したことねえな。俺とあいつを、間違えて殺すなんてよ」
振り返ると、ゴロツキのような男たちが酒を飲んでいた。昼間から酒場に入り浸るような輩だ。どうしようもない連中に決まっていて、話す内容もどこまで真実か疑わしい。だが今あいつは、確かに皇子と言ったのだ。
意識を向けていると、男はさらに続けた。
「皇子直々にこの俺にご命令してきたんだぜ。で、俺はやったわけよ」
周囲の男たちから、馬鹿げてると呆れる声がした。
「なんでそいつが皇子殿ってわかるんだ? どこぞの別人物だったんだろ。それにどうして皇子がてめえなんかに仕事を頼むんだ。もっとマシな、お抱えの家来だっているだろう」
なんの話かちっとも分からないが、妙に気にかかる。シリウスがこいつのような人間に何を頼むというのだろう。
男はムキになったようだ。
「そりゃ、シリウス様と言えば品行方正、道徳の塊のような人間だ。だからこそ近しい家来なんかに頼めばどこから噂が漏れるか分からない。その点、俺みたいな奴はうってつけよ。仕事の後で実行犯なんざ始末しちまえばいいからな。街のゴロツキ一人消えたところで、探す人間などいまい」
周りの男のうち、信じたらしい一人が言った。
「で、皇子はあんたに何を頼んだんだ?」
「決まってるだろ、セラフィナの婚約者だったショウの殺しさ」
聞いた瞬間、俺は立ち上がった。
◇◆◇
俺の放った魔法により酒場はめちゃくちゃに壊れ、男の顔もまたぐちゃぐちゃになった。俺はそいつの胸ぐらを掴みながら叫ぶ。
「もう一度聞く。お前がショウを殺したって!?」
「あ、あんた、アーヴェルか。きゅ、宮廷魔法使いの……」
「聞いてるのはこっちだぜ。嘘を吐いたら容赦はしない」
破壊された壁の外からギャラリーが覗いていても、俺は自制ができなかった。
すでに戦意を喪失しているらしい男は怯えたように頷いた。
「そ、そうだ、お、俺が刺したんだ。ショウを、ナイフで、それで、逃げた……! か、勘弁してくれよ! 俺はただ、命令に従っただけだ! 断ったら殺されちまう! 実際、俺と間違えられた奴は縛り首だった!」
「誰が命じたんだ」
ほとんど確信のある答えを聞くのは怖かった。だが、男は必死に答えた。
「分かるだろ、シリウス皇子だ!」
解は、おそろしいほどすんなりと、俺の中に落ちてきた。
シリウス、あいつはいい奴だった。誰からも好かれる人間で、隙のない皇子で、失敗などあり得なかった。
もし惚れた女がいたとして、それを強引に奪おうとするほど愚かでもなかった。従兄弟の婚約者を奪うなどもっての外だ。出来すぎるほど出来た皇子が、そんなことをしていいはずがない。
なら、どうするのか?
簡単だ。従兄弟が死ねばいい。自分とは、関係のないところで。
結果、シリウスは見事、セラフィナと結婚する。
魔性の女だ。セラフィナは。皇子をも、狂わせた。
「どうしたんだ。なんの騒ぎだアーヴェル」
その声がした瞬間、俺は魔法を放ち男の頭を破壊した。血飛沫をあげる男を見て、ギャラリーから悲鳴があがる。
勘弁なんてするわけないだろ。ショウを殺した男を、どうやって許せって言うんだよ。
俺は声の主を見た。
騒ぎを聞いて駆けつけたのか、周囲に護衛をつけながらも、華麗なる花婿姿でシリウスはそこにいた。だが端正な顔は、この有様を見て引き攣っているようだ。俺が殺した男は顔などもう見分けがつかなかったから、単に状況が飲み込めなかったのだろう。
あるいは俺が、笑っていたせいかもしれない。
「シリウス、お前がショウを殺したんだな。セラフィナが欲しかったのか? 真正面からくれと頼むのは、プライドが許さなかったのか。そうだよな、清廉潔白な皇子殿が、従兄弟の婚約者を奪うはずがない。だけど従兄弟が死んで、その悲しみを癒したとなれば、誰だって文句は言わないさ」
「僕には、君が何を言っているのか分からない」
澄み渡る空の下には晴れ姿のシリウスがいて、薄暗い酒場の中には血塗れの俺がいる。交わらないはずの二人の境界は、俺が酒場の壁を破壊したため奇妙に混じり合ってしまった。
「本当なの……?」
涼やかな声が聞こえ目を向けると、顔面蒼白なセラフィナが、花嫁姿のまま立ち尽くしていた。シリウスが彼女に向かって叫ぶ。
「セラフィナ、来てはだめだ! アーヴェルは正気じゃない!」
シリウスは勘違いしている。俺が正気だったことなんて過去一度もない。
「強盗のくせに物も盗らずに逃げたのはなぜだったのか、やっと疑問が解けた。初めから目的はショウの命だったからだ。お前はセラフィナを手に入れるためだけに、ショウを殺したんだろう」
「ち、違う……!」
シリウスは取り乱した。いつだって冷静沈着で完璧な皇子が初めて見せた焦りだった。俺にはそれが答えに見えた。確信したのは俺だけではなかったらしい。
「そんなことって……」
セラフィナが、力なく呟きシリウスから一歩離れた。
俺はシリウスに向かって手を翳した。敵を殺すに最適なのは、体ごと燃やし尽くしてしまうことだと、俺は戦場で学んでいた。
だが、臨戦態勢を取ったのは俺だけではなかった。シリウスは、周囲の護衛に命じた。
「こ、殺せ! アーヴェルを殺すんだ!」
護衛どもは、国精鋭達だ。いくら俺が強かろうと、ここまでの人数相手に勝てるわけはなかった。銃が放たれる。
「い、嫌ああああああああ!」
俺の腹にでかい穴が空けられた直後、セラフィナの悲鳴が、俺の耳に届いた。
――。
――――。
――――……。
俺の体は、華奢な体に抱きしめられていた。顔に生温かい水滴がいくつも落ちていた。
「……ル! アーヴェル! 目を覚まして! お願い……お願い、わたしを、ひとりにしないで……」
泣き虫のセラフィナが、また泣いてる声がした。目を開けると想像通り、ぐちゃぐちゃに泣いてる彼女がいる。
涙を拭ってやろうと手を伸ばそうとして、体がぴくりとも動かないことに気がついた。
周囲の状況を確認すると、護衛たちが死んでいた。ギャラリーも、シリウスも、皆が皆、血を流して死んでいた。生きているのは俺とセラフィナだけだった。
だが俺の体も血塗れだ。自分の流した血で汚れている。ああ、死ぬのだ、と分かった。
意識を失う前の光景が思い出された。セラフィナが見たこともないほど強烈な魔法を放ち、俺以外の奴らを全員殺してしまった。
長い間セラフィナは無魔法で無能だと思われていた。だが、その才能は奥深くに眠っていただけだったのかもしれない。いつから魔法が使えるようになったんだろうか。魔法使いは貴重だ。その人生は、国に捧げられることがほとんど義務付けられているようなものだ。だから秘密にしていたのだろうか。自分の人生を守るために俺にさえ黙っていたとは、とんだ悪女だな。
「大丈夫よアーヴェル。今、血を止めているから。治しているから、助かるわ……!」
セラフィナの手が俺の体に添えられて、魔法が体に流し込まれる。だが無駄だということは、俺が一番分かっていた。俺は死にかけていて、命は一方通行だ。
セラフィナのドレスも、俺の血で汚れていた。だけどそれは、彼女の美しさに少しも影響していなかった。
綺麗だ。本当に、お前は綺麗だ。
そう言おうとして、声さえ出ないことにやっと気がついた。
なあセラフィナ。お前を前にして、何度言いたいことを飲み込んだだろう。
妹なんて、思ったことは一度もないんだ。
そういや、結局言ったことがなかったな。
お前が好きだ。
お前を愛してる。
ようやく俺の罪が分かったよ。お前を、少しも分かろうとしなかったこと。お前を好きにならなかったこと。お前を愛さなかったことが俺の罪だったんだろう。セラフィナが言った罪が本当にそうだったかは知らないが、少なくとも俺にとってはそうだった。
だけど今は違う。何もかも、違うんだ。
愛してる。そう言おうとして俺の口から出たのは、声の代わりの大量の血だけだった。
セラフィナは、その美しい顔に絶望を浮かべた。
「夢じゃなかったんでしょう……?」
そう言うと、セラフィナはその手に、黒い光を集めはじめた。見覚えがある。俺を殺しに来た悪女セラフィナが放った魔法だった。
「この魔法は、自分には効果がなくて。だからきっと、過去のわたしもそうしたんだわ」
また前と同じようにセラフィナに殺されるんだろうか。ならそれでもいい。以前と異なるのは、憎悪ではなく愛の中で逝けるということだ。お前になら殺されてやってもいい。だがセラフィナは、違うことを言っているようだった。
「わたし、やり直したかった。人を陥れて快楽に浸る悪女じゃなくて、真っ当な人間として生きたかったの。だけど望みが叶った今でもまだ、少しも満足なんてできてない。だってあなたが死んだら意味ないの。
ねえ、また、やり直すのよ。そうしてまたあなたと出会って、何度だって、恋を、するんだわ。あなたは、今度こそわたしと一緒に幸せになるのよ」
悲痛の中でも愛情に満ちたセラフィナの声がした直後――俺の意識は彼方へと飛んだ。
◇◆◇
「アーヴェル。どうしたというのだ? 大人しく座っていることさえできないのか」
椅子から転げ落ちた俺を、軽蔑したように見るショウがいた。
親族連中が奇行を働いた俺を、訝しげに見つめている。
今まさに兄貴がセラフィナとの婚約を告げる場面に、俺はまた、戻ってきていた。
そうして、ようやく俺は理解した。
セラフィナが放った魔法は以前もさっきも、俺を殺した訳ではなかったことに。
古い魔導書で読んだことはあるが、俺のように並の魔法使いでは、使えるはずがない魔法。強力な魔力が必要で、机上の空論でしかない、その魔法を、セラフィナが使ったのだ。
人を、過去に戻す魔法を――。
周囲に死体の山はない。俺の体に傷もない。
幼いセラフィナが、今にも泣きそうな表情で俺を見ていた。
俺は確かに恋愛となると、からきし鈍感になるらしい。
床に座り込んだまま、俺は笑みを浮かべた。笑える。これは本当に笑える喜劇だ。
なあセラフィナ。何度これを繰り返すんだ?
おそらくは、お前が納得する未来になるまで続けるんだろう。やっぱり、お前はとんだ悪女だよ。全てはお前の手のひらの上で、お前が満足するまで俺をいたぶり続けるのか?
お前は人生が最良な形になるまでリセットし続けるつもりなのか? この俺を生贄にして。
してやられたよ、完敗だ。呆れ返るほど見事にしてやられたよ。
だけど別にいいさ。俺も退屈してたんだ。
「とことんお前に、付き合ってやるよ」
今のところは二戦二敗だ。だが次も、こうなるとは思うなよ。今度の勝者は絶対に俺だ。
じっと俺を見つめていた何も知らないセラフィナが、やがてぎこちなく微笑んだ。
見てろよセラフィナ。
今度こそ、お前を幸せにしてやるからな。
そしてまた、俺たちの物語が始まるのだ。
〈おしまい〉
こんな感じの長編が書きたいとなという、イメージ固めの短編でした。この短編自体はこれで完結しています。
お読みいただきありがとうございました!
感想、評価いただけると、大変嬉しいです!!
※長編版を公開し始めました。物語下にリンクを貼ったので、読んでいただけると嬉しいです!
R5.6.7 追記 長編版も無事完結しました。