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2025年5月8日、丸の内TOEI②で行われた『昭和100年映画祭 あの感動をもう一度』最後の興行は『南極物語』(1983年)!冒頭で、元フジテレビジョンの角谷優プロデューサーが登壇し、大ヒット映画の製作秘話を下記の通り語りました。
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42年前の昭和58年に劇場公開された『南極物語』は、1200万人動員を記録し、大ヒットをおさめましたが、滑り出しから実はとても厳しい難産の末の作品でした。
始まりは、蔵原惟繕監督の弟にあたる蔵原惟二さんから「TV番組としてやりませんか?」と打診されたことからでした。私は「この物語を、分割して放送する番組として作っても盛り上がらない。それよりも、大スクリーンでクライマックスを一気に見せる映画の方がふさわしい」と考え、まずは映画会社へ企画を持ち込むことにしました。けれども東宝、松竹、東映の大手三社にはいずれも断られました。特にある会社の社長さんには「犬がウロウロするだけの映画で客が来るか」と笑われて追い返されました。
自社にいたっては、当時のトップに呼ばれ説明しましたが、「映画会社がダメだと言っているものをテレビ局がやってどうするんだ! リスクが大きすぎるよ。お前の退職金なんか取り上げたってたいしたことないからな。」と即刻却下でした。
周囲からもあきらめるように言われましたが、私は資金集めの問題点を何とかクリアしようと、2~3カ月間、あちこちの会社を訪ねました。でも、どこもNOでした。そんな時に、ある人から「学研の古岡秀人会長は物分かりのいい方だから」と紹介され訪ねると、古岡会長は、初めてお目にかかった若造の私に、「良い映画になりそうだから、やりなさい」と言って下さいました。私が「自分の会社からは、まだOKをもらっていないのです」と正直に話すと、「君の熱心さに賭けるよ。どれだけ製作費がかかろうと、半分出そうじゃないか」とおっしゃって下さり、これがきっかけでプロジェクトが動き出しました。「君を信じるよ」と言って下さったこの言葉に本当に胸が震えました。
次に、この映画をどこで撮影するかが問題です。当初から南極にはそう簡単に行けないと分かっていたので、ドラマの部分は北極で撮ることにしました。北極にはリゾリュートという、植村直巳さんや和泉雅子さんがベースキャンプにした場所があり、そこのロッジならば15名ほどのスタッフの宿泊も何とか可能だと。しかも、週に1、2回、空の便が飛んでいるので、俳優、スタッフ、機材や食料を運びこめるとわかり、ロケーション場所に決めました。とは言え、大人数のスタッフが宿泊出来る訳ではなく、大道具のスタッフの代わりに、監督もカメラマンもスタッフ全員がトンカチを振るい、昭和基地のセットを作り上げました。
ここでは寒さとの戦いが待っていました。零下三十度ってどれだけ寒いかわかりますか?家庭用冷蔵庫の冷凍庫は零下二十度に設定されています。冷凍庫に閉じ込められる以上に寒い。そこに風が吹くと風速一メートルごとに体感温度は一度下がるのです。零下三十度、零下四十度のような状態の中で、皆が仕事に取り組みました。私は、そのスタッフたちの為にせめてもと、米、味噌、醤油に炊飯器、石油缶に入れたキムチなどを大事な食料として運び込みました。
この映画の主役である犬の話をしましょう。実際に日本の越冬隊が使ったのと同じ樺太犬を出したかったのですが、樺太犬は当時絶滅の危機にありました。そこで、樺太と同じ緯度にあたるカナダ北部北極圏へ渡り、交通手段の犬ぞりとして使われているハスキー犬を求めて、原住民相手に交渉するべく、蔵原プロデューサーやドッグトレーナーの宮忠臣さんがランドクルーザーや小型飛行機で広大な地帯を走り回りました。800頭以上の犬に面接したのですが、交渉は難航しました。原住民にとって、帰巣本能を備える良い犬は、猛烈なブリザードやホワイトアウトに遭遇し、濃密な白い霧に覆われても、必ず自分たちの家へ連れ帰ってくれるので、決して手放そうとしません。代わりに年寄りやダメな犬は売ろうとしますが、それでは役に立ちません。そこを何とかお願いし、ようやく30頭を集めました。
そして、蔵原プロデューサーや宮さんは、カナダのイエローナイフで、集めた30頭の調教を始めました。犬同士は最初に猛烈に噛み合うケンカをはじめました。それは犬の集団のなかでボスを決める行為でした。足が噛み切られそうになったり、耳がちぎられそうになったりする犬たちの面倒をみてもらう為、獣医2名を北極へ送りました。撮影中に、風邪で体調を崩した高倉健さんは「この現場は犬の医者はいても、俺を診てくれる医者はいないのか」とこぼしたこともありました。結局、その獣医が高倉さんに注射をうったことになります(笑)。
もう一つ困ったのは、育ちも環境も異なる場所でエスキモー語やインディアン英語で飼われていた犬が集められ、そこにヘンな日本人が来て日本語の指示をするものですから、犬だってちんぷんかんぷんです。その上、実際の越冬隊が連れて行った樺太犬はアイヌの言葉で調教されていたので、撮影ではアイヌ語も理解する必要があり、犬たちは大変なカルチャーショックだったことでしょう。
そして、この映画が「犬がうろうろしいてるだけじゃない」ことを観客に分かってもらう為には、存在感のある有名な実力派俳優が必要です。そこで真っ先に白羽の矢を立てたのが高倉健さんでした。その頃、高倉さんは森谷司郎監督の『海峡』の撮影中でした。当時のマネージャー・田中壽一さんに、何とか高倉さんに会わせていただきたいと頼むのですが、撮影に集中しているからと会わせてもらえません。旧知の森谷監督の陣中見舞いと称し東宝スタジオを訪ね、スタジオの隅で待っていると、敵もさるもの。高倉さんは私の姿を見ると、出番が終わるといつの間にか姿を消し、話す機会がありません。そんなことが二,、三回続き、年も明け1月下旬を迎えました。森谷監督から、「角谷君、俺たちは竜飛岬に来ている。ここなら健さんも逃げられないよ」とありがたい電話がありました。そこですぐ翌日、竜飛岬に飛びました。その日は雪交じりの烈風が吹き荒ぶ猛烈に寒い夜間撮影でしたが、私は現場の片隅で震えながら、高倉さんの出番が終わるのを待っていました。夜中二時過ぎだったでしょうか、高倉さんが私に寄って来て「角谷さん、寒いでしょう。僕はね、八甲田山、駅STATION、動乱、海峡と、このところ寒い場所での映画ばかりなんです。もう寒いところは勘弁してほしい気がします。それを角谷さんは、南極へ行けって言うんですか。」とだけ言って離れて行きました。それ以上私は言葉を返せませんでした。宿へ帰ったのは夜中三時半ころでしたが、それから一通の手紙を書きました。「監督は骨折をガムテープで止めて、いま南極で実景を撮影しています。弟のプロデューサーは暗黒の北極で犬たちのトレーニングをしています。皆、この映画を日本中の人達に喜んでもらえるような、感動を与えられる映画にしたいと、頑張っています。高倉さん、あなたもこの仲間のひとりになっていただけませんか」と。その手紙を、ドアの隙間から高倉さんの部屋に差し込み、私は東京へ戻りました。一週間後、私の上司であり、吉永小百合さんのご主人でもある岡田太郎さんから、「君が書いた手紙を読んで、高倉さんの心が動かされていたようだったと小百合が言っていた」と告げられました。これはしめた!と思いました。その後、先方からの連絡を待ち続けましたけれども、二月十三日に高倉さんの別れた奥様、江利チエミさんが不慮の事故で亡くなられ、それを境に高倉さんの音信が全く途絶えてしまいました。後に聞けば、比叡山の山奥で滝に打たれていたというんですね、行方がつかめないわけです。
そうこうするうち、当初設定していた三月五日の製作発表の日が迫って来ました。
宣伝部は「主演者の名前がない製作発表なんかあり得ません。高倉さんはあきらめもう誰かに決めてください。」と言うんですが、私は「お願いしておいて、正式に断られていないのに、他の誰かで発表するわけにはいかない」と粘りました。
私たちが発表の前日、学研の会議室で翌日の段取りを打合せしていると、蔵原監督宛に一本の電話が入りました。電話を受ける監督の顔がくしゃくしゃに歪み、「ありがとうございます。すぐ行きますから待ってて下さい」と電話を切りました。「高倉さんがOKしてくれたよ。ただマスコミに接触するのは嫌だから、先にアメリカに入るために、成田空港へ向かっているそうだ。すぐ行こう」と監督が言い、成田空港へ二人でタクシーを飛ばしました。高倉さんは「お返事が遅くなりましたが、出演させていただくことにしました。先に行って待っております」と、二人と堅い握手。すぐ機上の人になりました。このエピソードも、この映画のなかで起きたいくつかのドラマティックな出来事のひとつでした。
翌日の記者会見で監督が「主演は高倉健さんに決まりました」と発表した際に起きたどよめきに、私は後方の席で「もしかすると、この映画は勝てるかもしれない」と思いましたね。実際には、ここから本当の苦労が始まる訳ですけれども、今日の舞台挨拶はこれで終了のサインが出ました。
高倉さんは北極で一度、南極で一度、あわや遭難しかける目にあっています。
その話もしたかったし、音楽のヴァンゲリスが、アカデミー賞を取った直後にこの作品を引き受けてくれたエピソードもお話したかったのですが、もう時間がなくなりました。
また何かの機会にお伝え出来ればと思います。
とにかく、俳優も犬もスタッフも、命を失わず映画が完成し、大勢の方に観ていただけるようになったことは、プロデューサーとして本当に嬉しいことでした。
今日は、どうぞごゆっくりご覧ください。