先だって寝ていますと、玄関のチャイムが鳴る音がします。誰だ!。こんなに朝早くからチャイムを鳴らすのはと目を開けますと、夜の闇。?と思って、見ますと幻視の中に無数の蛇が居ます。一瞬ギョッとしましたが、それは私の家の中の光景ではありません。霊的な世界の舞台上の光景です。
いろんな種類の蛇が見えています。あまりにも数の多さに気持ち的にはよくありません。すると、それらの蛇が一斉に上に向かって上り始めたのです。
あっ!。ミカエル(巳帰る)が起きた
私は霊能者ではありませんが、
多くの霊能者の方々と根本的に違うのは、私が霊界修業に入った時、ヒンズー教のヴェーダ典の奥義書に記載されているとされる
【人の中に眠るコブラが目ざめて走り上がる時、その人は真理に目ざめる】を体験していることだと思います。
この内容はヴェーダ典の奥義書とのことなので、おそらくそれを体験された方は過去にあっても一部の方だったのでしょう。そうでなければ、この意味合いが既に説かれていなければならないからです。奥義書ということは秘だったわけです。
私はその体験で、「真理」とは何かの追求に入ったのです。そして、私はその真理とは【お釈迦様は悟られたがイエスは悟れなかった】もので、お釈迦様とイエスの教えの違いにそれはあると感じたのです。
お釈迦様は悟られたがイエスはそれを悟らなかった。その違いは何だ!。から私の真理を求める長い旅が始まったのです。しかし解らない。蛇が走り上がる解説書もなければ、その現象に出会っている方が見当たらないのです。
一般的に語られるお釈迦様の悟りは「慈愛」で、イエスは「神の愛」を説いたとすると、そこにさほど大きな違いは見られません。どちらかの教えが後世の者達によってねじ曲げられてしまっているはずなのです。
そうした中で、私は曹洞宗の機関誌の小冊に、
お釈迦様の悟りは「人には良心と呼ばれる神が内在する」とあったので、お釈迦様とイエスの教えの違いは「人に内在する良心神」に気づいたか気づかなかったの違いだと解ったわけです。しかし、それだけでは非常に抽象的です。曖昧さが残るのです。
お釈迦様が説かれた仏教とは「小乗」であり、小乗ならば【自己に存在する神】を仏性として説くことが出来ます。すなわち「内在神」です。また「本我」なり「真我」です。しかし、お釈迦様の死後に起きた大乗仏教となると、外に神仏を求めることになって、「神仏は愛だとか慈悲」だと言う、自己の責任を果たさない教えに変化して行ったといえます。
日本の神智学でおいて、「神は愛だ!」と説くのは蛇神に囁かれた者達の教えだという論まで存在します。そうした神は愛だと言っている方に、いくら「良心」神を説いても何一つ理解しようとはされません。まるで「愛」を言えばよいのお題目主義です。それは蛇霊に犯されているからです。
だが、聖書にアダムとイブは蛇と一緒に追放とあるように、全ての人に蛇霊は存在する為に、そうした教えをする方ほど人気を持つのです。
蛇霊に犯されている間は、「真理」に向かおうとはしないのです。
逆に言うならば、「米」型から出る良心神の教えに向かって歩いている人達は、蛇の囁きに対処出来るようになって来るのです。これが朝鮮に残されていた最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが出る。その教えに従った者達は神から厳罰を受けないなのです。
私が大本教神諭に予告された「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」を誠で紐解き、単にそれは「ラ」神論では無く、漢字の【良】の意味だと紐解くに至ったのは、そこには大本教の出口王仁三郎聖師霊が私に「漢字」だよと教えてくれたり、神は「ラー」だと暗示してくれたりはありましたが、私の最初の師匠が、人類の中であなたほど不思議な人生を送った人はいないだろうというほど、摩訶不思議な人生体験にあるのです。その体験にその解読の鍵が秘められていたのです。
私は神霊界修業の中で、御神霊が改心されるその御神霊が使われるこの世の蛇が直立する不思議な現象に出会いました。現実に出会ったのです。その時、私と同行していた人達もその光景を目撃しています。
そうした蛇の直立は、聖書にモーゼとエジプトの神官が蛇を投げ合い、どちらの蛇が棒のようになるかを競った記述がありますが、誰もその内容の意味は解けなかったのだろうと思われます。
普通に考えれば、蛇が棒になるは不思議な内容です。しかし、そうした現象の記述は聖書以外に見当たりません。
しかも、単に棒では意味が解けなかったのです。私は霊視で精神に異常をきたしている方の魂の心棒に霊蛇が巻き付いていて、その棒が「米」型に光を放った時、その霊蛇が離れて行く現象に出会ったことで、「棒」の意味が解ったわけです。棒は「奉(たてまつ)る木」です。魂の中の「神柱」たる心棒です。私はそれを「良心」神と名付けたのです。
それらの謎の答えは「蛇」の字にあるのです。
蛇=虫と它
この「它」仏陀の「陀」にもありますが、船の「舵(かじ)」の「它」です。
蛇は昆虫で無いのに「虫」があるのは、「無視」の意味と「真ん中を行かない」の意味なのです。
すなわち蛇は
「真っ直ぐに舵を取れない」蛇行にとつながるのです。
そしてこの「虫」の字は、魂の真ん中に立つ棒(奉る神柱)が無視されたということなのです。
当然、奉(たてまつ)る神柱とは、人の魂の中では良心神、天に在りては天帝になるのです。
最後の審判は、皆さんの魂の中の心棒(良心神)が点検されます。この心棒が八方向に光を放ち広がることを「米」型と言うのです。
そして「性器」の点検とは、魂の棒たる「真柱」を見ることなのです
聖書において、人類は人類の祖先とするアダムとイヴが蛇霊の唆しによって、蛇霊と共にエデンの園(神の御国)から追放されたとあるように、各自に「蛇」霊は存在しています。キリスト教ではそれを人類の原罪とし、イエス一人を神の子と崇めれば赦されるとしています。
キリスト教のイエス一人が神の子とする。イエスが荒野を40日間彷徨って悪魔を退けて「41」日目に神の御子となったは、
「41」日目の意味を紐解きますと、キリスト教は主の御子の意味を間違えています。人はその蛇霊を帰すことで「神の御国」へ帰ることが出来るのです。それが真理たる「キリスト」です。
が、それはこの世での作業となるのです。
スピの世界では、何かと言うと自分に「ミカエル」が語りかけて来たと言われる方が多いようですが、
大本教の出口王仁三郎聖師は、「ミカエル」などと呼ばれる天使長など存在していない。【省みる】の言葉の意味だと述べておられます。
天使長は最後の審判前において「蛇の尾を踏む」とも言われていました。蛇の尾を踏めば蛇はビックリして走るでしょう。つまり「巳(蛇)帰る(ミカエル)」が起きるのです。この作業がないと、閻魔(魂の真ん中の心棒たる円真)の裁きの時に、「自分は蛇霊に唆されていただけで、私には何の罪ではございません」と開き直りの言い訳が立つのです。
この世の裁判でも「心神喪失」であれば、どんな重罪犯罪者でも裁かれません。刑法でも【心の神】の存在を歌っているのです。ですから、自分の悪業は全て蛇(邪)の唆しから起きたことで心の神を喪失していましたと弁明すれば、心の神(良心)を失っており、その責任は全て自分を唆した蛇にあると逃げる口実を与えることになります。
そうした言い訳をさせない為には、何時「巳(蛇)帰る」が起きるとかと思っていましたが、どうやら「巳(蛇)帰る」が起き出したようなので、最後の審判の時が一刻一刻と近づいて来たようです。
本当の天使長とは、この【巳(蛇)帰る(ミカエル)】を起こさせる者という意なのです。
これは日本語が世界で唯一つの神の言葉だから、そうなるのです。
されど、いくらヴェーダ典の奥義書に【人の中に眠るコブラが目ざめて走り上がる時、その人は真理に目ざめる】と書かれてあっても、そのコブラの目覚めの体験もなければ、ヴェーダ典のその文章に触れることもなければ、日本語が「神の言葉」であることも知らなければ、ミカエルの意味を知ることは出来ません。ミカエルと名乗る存在にまんまと騙されてしまうのです。
人類の上から、人類に唆しをしていた「邪(蛇)」霊が帰るのであれば、良心神を悟らせないようにしていた存在が居なくなります。
より多くの人が神の御国(みろくの世)に渡ることも出来ます。
後、は各自の魂がこれまで積んで来た罪(積み)をどのように贖罪するかなのです。この世で全ての借銭の払い(祓い)をしなければなりません。借銭を残したまま五六七(みろく)世に持ち込むことは出来ません。
この借銭祓い(みそぎ)が少々きつく出ますので、それらは全て【浄化】として起きるということを理解しておく必要があります。
なお、これらの一連の動きは【ラ(羅)王】で裁きの閻魔庁も連動していますので、何を言ったかは全て魂の閻魔帳に記載されています。
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