とある夜、私が眠りに就こうとしている時、私に対して歌っている男の方の声が聞こえて来ます。その歌は童謡の「私の人形は良い人形」のメロディーで、その内容は
私の人形は良い人形
どの神々の人形よりも
その姿や形は悪いけど
私の心を持つよい人形
?と思って目を開けますと、闇の中ではあったのですがある光景が見えて来ます。闇の中でも見えるということは、私自身が霊的世界に入り込んでいたのです。そこに小さな13センチ程度の私の姿をした人形、フィギュアの様な存在が浮いていて、その人型が横になったり立てになったり回転していたりするのです。
否、その声の主にその人形は自由に操られていると言えばいいのでしょうか。その人形のことを歌っておられるのです。
それは、お前をこの私がコントロールしているのだよ。お前は私の人型に過ぎないのだと私の魂が歌っていたとも言えるでしょう。
人は誰しも、この世に居る自分が本体だと思ってしまいます。だが、この世に居るのは自分の魂が持つ「人型」に過ぎないのです。本当の自分(真我たる魂)とは別の世界に存在しているのです。その世界を人は「霊界」と呼ぶのに過ぎないのです。
人は死ねばその魂はあの世に渡るとされています。その時、人は自分と言う存在そのものが「魂」だと、概念的に思っています。しかし、それは間違っているのです。
魂の意識≓肉体の自分の意識
≓とは、イコール(=)ではなくて、近いという意味です。
大本教から「霊主体従」と「体主霊従」の教えが出されました。それまでは、人=魂の概念が強かったのです。≓は霊主体従を意味しているのです。かなり魂と意識が同化しています。その逆の体主霊従であれば肉体と魂は「
≠」になってしまいます。
私が子供の頃に臨んだ声は言いました。
この世のそなたはバカをしていてもかまわない。神界の御用をするのはそなたの魂であって、肉体のそなた自身ではない。そなたの魂が神界で何者かと解ったならば、人は神界での地位を求めてそなたの元を押しかけて来るだろう。為にそなたの魂が神界で誰であるかは機密であり、神々にも解らない様にしてある。
ですから、私は自分の魂が誰であるかを知らずに来ました。あるサイキッカーの方は魂の私は国常立尊様に仕えるところの天使長。ある神通力者の方は私がウシトラ金神その方だと言って来られたりもされましたが、私は主ではないことは確かなので、私の本守護神の存在を見られたのかも知れません。
しかし、それは私自身がそういう魂であるということではなくて、私はそうした魂が使うところの人形であるということなのです。そこに本守護神、正守護神、副守護神と呼ばれる霊界の段階が生じて来ます。私はこれまで十数名の霊能者の方から、貴方の本守護神は「国常立尊」であるとの指摘を受けました。しかし、私は「国常立尊」様と常に行動はしていないのです。私とは私なのです。
今の私は自己の「正守護神」とあり、その正守護神は幾度かこの世に生まれて来た存在でもあるのです。だが、その正守護神もまた常に私とあるのではなくて、実際に神界で御用をしているのはその正守護神さんなのです。ただ、私は正守護神と呼ばれる段階の方が出ましたので、私は死後はその正守護神さんの段階に進むだけです。そこで肉体の私の意識はその正守護神さんの魂と合一をするだけのことなのです。
では、何の為に人形でしかない私はこの世に生きているのか?。それは人の肉体には霊魂の浄化作用があるからです。
よく霊媒体質の方が、汚れた魂を持つ人からその汚れを受けて苦しまれるがあります。その肉体が自己の魂の汚れを浄化しない。出来ないとなれば、その魂は自己の肉体で浄化するのでなくて他の魂の人形である霊媒体質者に憑依してその汚れを移すということが起きます。そこに起きるのが「霊(ひ)止(と)」の意味です。
現在の日本の神智学・霊学では、人は霊(ひ)止(と)の意味だとします。霊を止めている容器であるという概念です。
宗教の世界では、お釈迦様でもイエスでも偶像崇拝を禁止しました。しかし、現実にはお釈迦様もイエスも偶像として拝まれてしまう対象となってしまいました。偶像信仰を厳しく禁じているのはイスラム教と言えます。
では、何故に偶像崇拝は行けないのかです。
魂がこの世に降りて生きた人形に宿るのは、この世が魂の修業の場であるからです。当然、その修業終えれば元の世界にと戻って行くわけです。人の死とは、魂が使う生きた人形が使命を終えたことから魂は元の世界にと戻って行くことなのです。
それと同様に偶像にも霊が宿っているのですが、先だっても観音さんに成りたいと願った大白蛇霊の話の様に、そうした存在の霊が偶像に宿るもあるからです。
人はそうした存在であることは仏教などによって説かれては来ました。しかし、頭では理解していても、現実行動としてはまったく理解出来ていない人達だらけと言えます。それは何故かと言った時、
「刹那心」によって魂の修業が邪魔されるからです。
私が子供の頃に臨んだ声は、人は生まれて死に生まれて死にの繰り返し。この世は魂の修行場であると説いてくれましたが、その中で注意として「刹那心」に溺れてはいけないと忠告してくれました。刹那心に溺れると「自分の魂を腐らせる」です。仏教用語である「刹那心」の「刹」は「殺すと刀」の組合せです。
しかし、学者達はこの「刹」にどうして「刀」の字があるのは解ってはいません。刹那心により魂の心棒である「神柱」が腐ってしまうからです。修業を積んで建てる魂の旗たる神柱を台無しにしてしまうのです。それでは自分の魂を自ら殺してしまうのです。
そうしたほとんどの「刹那心」は、誤った「愛」から生じるのです。また、この世の欲望に負けるなどです。
一部のスピの人達は霊界でも勉学は出来ると説いておられますが、かなり誤った見知だと言えるでしょう。何故ならば、
霊界は同じ想念の者が集まって一つの社会を形成して行きます。そのことに関してはスピの方達も間違えてはおられないと言えます。
しかし、
霊界で同じ想念の者が集まった社会の勉学とは「どんぐりの背比べ」であって、異なった観念者を持つ者達との競争に晒されるがないことから魂の向上があまりないのです。
つまり、霊界でも勉強出来ますは、魂が向上するは必ずしも正しいとは言えないのです。歩みが遅いのです。
霊界で勉強が出来るのであれば、何もこの世に出て来る必要がないのです。
霊界で魂の地位を上げる為には自分の魂をさらに磨かなければなりません。為には、悪が存在するこの世に降りて来なければならないのです。
一部スピの人達の非常に誤った考え方は、おかしなおかしな善悪二元論に陥っていることです。
人が善を知るには、悪と言う反面教師が必要なのです。悪が無い世界だけで生まれ育った魂は、悪が何たるかが解らないのです。私は常に泥に染まらないエンジェルは使い者にならないと言っています。私はそうしたエンジェルを崇拝をする人の気が知れません。
例えこの世の泥(艱難辛苦)の中に根はあったとしても、水面には泥に汚れない見事な「白蓮」の様な花を咲かせる意気です。
そうした意味が「南無妙法蓮華経」の本来の言葉なのです。お題目を何万遍も唱えることではありません。そうした泥の中にあっても白蓮の様な花を咲かせる御仏に帰依して奉りますが「南無妙法蓮華経」の元の言葉の意味なのです。その白蓮の根は「泥」の中にあるのです。
この世の泥(艱難辛苦)の中を生き抜いて、何の汚れも持たない見事な仏(白蓮)と成りなさいなのです。
この世では魂の汚れを取る「浄化」をしなければなりません。
そして、人としてある時に魂は「更生」するので「便」の字に教えが入るのです。
私の最初の師匠は「善」の方でした。しかし、その師匠からは霊界の見聞は学ばせて貰いましたが、魂の向上としてはさほど学ぶことはありませんでした。
だが、2番目の師匠は反対の「悪」の方でした。その師匠の行動を諫めたところ、私は俺に逆らうのかと死神まで送り込まれてしまいました。だが、そこから得た学びは反面教師として私の魂を格段に向上させてくれたのです。
もし仮に私がその死神によって殺されていたとしても、私はそこまでの者でしかなかった者と、自分の力量不足を悔しく思っただけであり、その師匠を恨むなこともなかったのです。ただあるのは殺されそうな目に遭っても感謝のみです。悪の師匠に教えを受けてよかったです。
それは私と同様にその同じ二人の師匠から学んだ人も言います。あの師匠を反面教師として学べたことに感謝です。そして、あの悪の先生こそ自分にとっては本当の意味で師匠であったと言われます。
単なる善の教えは、悪を反面教師とするより弱いのです。
私が子供の頃に臨まれた声は次のように告げられました。この世は学びの世なので、善役も必要なれば悪役も必要。誰もが自分は善役善役では、この世は学びの場所とはならない。悪の役が回って来たならば、その悪役を見事に演じきるならば、次の世には善役も与えられるであろう。
この世の舞台には主役もあれば脇役もあり、単なる通行人の役もある。また、舞台に上がらずとも見物だけの場合もある。その舞台で自分が演じるか見物であるかは別として、
その舞台を見て、自分ならばこうすると考えることが大切なのであって、この世で起きている出来事を見ないであれば何の成果も得られない。
舞台の役者は、舞台が終われば化粧を落として素顔に戻る。だが、化粧を落として(この世の使命を終えて霊界に入って)も悪でしか生きられないのであれば、その時は次の舞台の役者としては立たせない。魂の「芯」が悪に染まってはいけないのです。
少し解説しますと、悪にも二種類の悪が存在します。自分の魂を汚して行く悪と、悪業でも自分の魂をさほど汚さない悪があるのです。必然悪とか、止むに止まれず犯す悪などです。そうしたことは魂に汚れとして出て来るのです。世間的には悪党でもその魂はさほど汚れていない方もあれば、世間的には良い人との評価でもその魂は汚れに汚れている方があります。
人の肉体は魂の人形で有り、その肉体がこの世の命を終えた時、その魂は魂本来の姿となります。それが化粧を落とすです。
仮にそれが善を教える役割としての悪であったとしても、悪を行えばその被害を受ける方が出て来ます。改心するということは、その悪は本当の自分が為さしたことではない場合は赦されるであって、多くのスピの人達が説く神は愛だから何をしても赦されるの論理ではないのです。そこに霊主体従・体主霊従を知る必要があるのです。
為に改心無き悪は赦されることは無いのです。その意味が化粧を落としても悪でしか生きられないのであれば、立替後においてその魂は終わりとなるのです。
このブログでも「悪」の意味を説きました。「亞」の字に隠された意味は主(良心)を葬った意味ですと。
主はその姿を人類の上に見せずとも、私達の魂の中に良心神として存在するのです。
霊界の低次元の存在(副守護霊)といくらチャネリングしたところで、その存在によって霊界で高い地位に進めるわけではないのです。大切なことは霊とのチャネリングではありません。逆にチャネリングしている存在の正体を見破らないのは一番危険な行為なのです。
人は神の子・神の宮と言いますが、それは人は「霊止」たる魂の容器であることを告げているのです。人は自己の魂がこの世に出した人形でもあるのです。また神の容器ともなるのです。大切なことは自分の魂の本体を忘れてはいけないのです。その魂はこの世に生きる自分とは遙かに高い段階にあるからです。
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