一般的に人は死ねば天国に行かれたと等と言いますが、宗教の教えとしては人は死ねば天国等の教えは存在しません。西洋では天国か地獄かの何れか。日本は大多数の国民が仏教徒であるので、宗教的には【三途の川】を渡ると言います。
三途の川とは、人は死後に天国(極楽)界と中有界と地獄界の三界のどこかに行くことから「三途」の道があるという意味です。霊的にその三途川を見たと言われる方はあるかと思いますが、その川の向こう岸に渡ることが本来の「彼岸(彼方の向こう岸)」の意味です。
しかし、この意味をスピ系の方でもあまり理解している人は少ないように見受けられます。それは、中有界とは天国と地獄に行く分かれ道が中有界だと思っている方が多いからです。自分の直感ばかりに拘って勉学が疎かになっているのです。
中有界は、未だ天国にも地獄にも行かない意味ではあるのですが、さほどの時間をおかずに現界(この世)差し戻すの世界。また、この世に戻って人としてやり直しなさいで、短時間で輪廻転生を起こす世界のことです。元々は「三ツ瀬」の教えと呼ばれて来ました。
一方、天国界や地獄界に行ったところで、そのまま天国や地獄に永遠に留まるではないのです。中有界ほど短時間にこの世に戻ることはないにしても、やはりこの世に戻るが起きて来ます。それは霊界が「縦」社会だからです。魂がより高いに進む為には輪廻転生が必要だったからです。
天国界も上に進めば進むほど、この世に降りるまでの時間が長くなるだけのことであり、地獄界も下に落ちれば落ちるほどこの世に戻る時間が長くなるだけの話です。いずれにしても輪廻転生は生じます。
悟りを開かれたお釈迦様は二度とこの世には出て来ずに、お釈迦様の悟りは五十六億七千万後の「みろく菩薩」が説くとされて来た意味は、言葉と九の数理盤で紐解けるようになっていたわけです。
ですから、369の「米」の教えはお釈迦様の本当の悟りを伝えていて、その教えに従えばお釈迦様と同様に、自分は「この世には二度と生まれて来ない」にります。
日本の仏教では、日本の神と言えども輪廻転生は免れないとして、大菩薩の称号を贈りましたが、それをもって仏界の方が神界より上とは言えないのです。本当に霊界に詳しい方ですと、仏界より神界が上だと言われるでしょう。
私の独断と偏見による見方としては、輪廻転生を起こさない魂とは「卆業」点に達した魂のことで魂点が「九十」点越えていないと輪廻転生は起きるです。
スピと称している人の中では、途方も無い数字を上げて、自分はその数だけの輪廻転生して来たと言っている方がいますが、一言で言えば「お前はアホか!」です。魂は向上して行けば、当然に「輪廻転生」の数が少なくなるからです。それは霊界で過ごす時間が圧倒的に長くなるからです。何もこの世に出て来る必然性が無ければ、この世に降りて来るなどがそもそもないのです。
これまでは死後の世界であるあの世に行くのには「三途の川」を渡りました。無論、それ以外にも渡る道が存在しています。
そうした中に、神一筋の「少途川」があります。これは本当に数が少なく、神一筋にこの世を生きてあの世に渡られる方達の道です。この道は霊的に非常に厳しい道で、一歩踏み外せば谷底に落ちるような道です。
修験の方達が険しい道を修業として歩かれるのも、この「少途川」を模写していると言えます。しかし、それは現実界の荒行の道ではなく、神一筋はその様に厳しい道であることの意味なのです。
これから「立替」が予想されますが、新しい世に渡るのに霊的に三つの扉がある場所に入らなければなりません。その扉によって行き先が違います。
一つの扉は「五次元界」にと渡ります。一つの扉は「六次元界」にと渡ります。もう一つの扉は「七次元界」にと渡ります。
この世界ではかなり知られた五野井正博士や本山博文学博士などは、元々が七次元界から来られた方と言われています。ですから、七次元界に進むも別におとぎ話ではないのです。
その霊的扉をくぐった時、その人達は二度とこの世に戻ることはありません。立替をもって輪廻転生は終了するからです。
五次元界の扉をくぐった方は五次元世界に、六次元界の扉をくぐった人は六次元界へ。七次元界の扉をくぐった人は七次元界で永遠の暮らしが保証されます。それがこれまでと違って来るのです。為に最後の審判となるのです。
その扉がある場所を霊的「便所」と言います。その便所の中で自分が過去世から詰め込んだ全ての罪汚れや毒素を落として「更つ魂」として、新しい世に渡って行くのです。この世には二度と戻りません。新しい世界での生活が待っています。
その新しい世を「五六七(みろく)の世」と言います
それだと「地獄」は無いじゃないかとなりますが、五六七(みろく)世には「地獄」は存在しません。「中有界」も存在しません。あるのは「五六七」の世です。
ただ現存の三次元界四次元界がどうなるのかは、私にも定かには解りません。私は主の神ではないからです。三次元四次元は消えると言われる神々もあれば、残ると言われる神々もあります。
ですから、「五六七(みろく)」世とは、この地球上で生活する話ではないのです。私が子供の頃に伺ったのは、この地球と同型の宇宙船に移行するです。為に配置は同じです。移行しても何の違和感もありません。
しかし、その五六七の移行に何の問題もないわけではないのです。明治に起きた大本教神諭に立替で魂は上・中・下の三段階に分けられるとありますが、そんなことならばなんでもっと早くから教えてくれなかったとの文句を聞きたくないから早くから言っておくがあります。大本教開教西暦1892(いち早くに)から教えているのにも関わらず漫然と無視を続けた守護神霊達が存在しているからです。
私もそれが日月(ひふみ)神示で現される123年の時とは、これは正直申し上げてよく解っていませんでした。その「日月」の意味が「123」年とは捉えきれなかったからです。立替は大本教開教1892+123-1で、西暦2014年から始まるからです。
どうして「123」で「日月」と読ませたのか?
大本教神諭(大正 4年旧4月6日)。【時節には神も敵わぬぞ】とありますが、どうして神が時節に敵わないのか謎でした。日月(123)の問題があったからなのでしょう。
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