世に言われる世の大立替とは「人類滅亡」の意味ではないのです。創造神による宇宙規模の大改革であり、改革後の世は「嬉し、嬉し」の喜びの世なのです。
それは、別に私が勝手にデッチ上げて言っているのではないのです。私が子供の頃に臨んで来た声が
、【私は今の世の幕を降ろし、新しい嬉し嬉しの未来の世を創る。」と告げられたからです。そして、新しい世に移行(行こう)が終わった後、人類も神々も私の栄光を讃えるであろうと】。
それが私の単なる妄想の結果ならば、どうでもいい話なのですが、幾多の霊能者の方から神々から私の立場を告げられたりすると、どうも妄想ではなく、私に語った存在があって、現実論としては信じがたい内容を語るということは、私も苦しいが本音です。
しかし、言葉の仕組みを見た時、俗にスピと呼ばれている人達が語る霊的存在ではないと私は感じます。単なる神や霊人ではこんな言葉の組み立ては不可能だからです。
もしも人類が単に滅びるだけならば、私は完全に黙します。何の希望が見えないのならば、私はいくら神と名乗る者から人々に告げなければ殺すと言われても語りません。告げない方がいいのです。黙ってその時を見つめる。だが、人類に新しい未来(羊来る)があると思うから立替を語るのです。
私が子供の時にその時は何時ですかと尋ねたところ、この立替を告げるのはそなた一人ではない。多くの神司(天使)達も告げるであろう。多くの者が告げる時です。また、次のようにも言われました。
大悪だけで無はなく小悪がはびこる時が来たならば、その時と心得なさい。
私は携帯電話が流行りだした時、携帯電話は便利だと思いました。だが、スマートフォンが出て来た時、多くの人がこれに毒されて、人としての価値を失うだろうと感じました。スマートフォンの便利性は、悪を伝達拡散させて、結局人々は魂の修業を忘れ去って、道徳心も薄れるからです。
スマートホンに夢中になって、がらくた(ろくでなし)の魂を創るからです。なお、がらくたとは「我楽多」です。
我、楽、多(我楽多)しでは「天国の門」は開かないのです
楽だ!楽だ!で天国は、針の穴に駱駝(ラクダ)が通るようなもの
そうした魂を汚した者達に対する内容は既存の大本教神諭や日月(ひふみ)神示にも存在しますので、私が子供の頃に語りかけて来た霊がそれらを読んで私に言って来たのか、大本教神諭や日月神示に関係しているウシトラ金神と称する霊なのかは解りません。
ただ、大本教神諭が起きたのは明治25年だった為か、それは物質世界の3次元界でのことだと大本教の出口なお開祖は思っておられたでしょうが、日月神示で「三四五(みよいづ)」から「五六七(みろく)」の世とあるように、次元が異なった世界に移行することが告げているのです。
私は聖書に示される新しい天地に主の神を信じる者達は移ることを告げられていますので、この地球に弥勒の世が建設されるとは思えないのです。
三次元世界(この世)の幕は降ろされて、未来の世「五次元」界にと進む。それ自体は私もスピリチュアルで語っている方達とさほど違いがあるのではありません。ただ、スピの方達は日月神示の内容の為なのか、今の世に生きている肉体が半霊半物質になって地球が次元上昇するのだと言われます。そこまで日月神示は信じる内容なのか?。私は疑念を感じます。
仮にそういう半霊半物質体質になったとしても、今の世に生きている私達の肉体の命がどれほど延びるのでしょうか?。さほど期待は出来ません。
私が子供の時に臨まれた神は、永遠と告げられたからです
私は長い間、伏見稲荷大社講で修業して来ましたので、本来は霊体である白狐が実際に三次元物質肉体としても顕現することを見ましたし、幾多の見聞した方の事例も知っています。その肉体とは半霊半物質体なのかも知れません。しかし、白狐は年老いて死にもすればオギャーと誕生もして来ます。それは赤ちゃん白狐がいるからです。しかし、その寿命には永遠性があるとは言えないのです。
白狐の現実界に顕現した存在を見るは行者と言えども簡単ではないので、その姿を見た行者は誉れだと言われていますが、ほとんどのスピ系の方は霊体は見ても肉体が現実界に現れるは御存知無いのが実態でしょう。
例えば、私達がこの世を去って霊体となった時、幽霊など称されている幽体で生きている存在は人間として肉体を持っている私達よりも遙かに遠い時代の方達であったりします。そうしますと、日月神示の半霊半物質などの論は、あまり意味のない神示だと解って来ます。
この三次元世界(三四五)から新しい五次元世界(五六七)に行くには、私達が現在持っている肉体では移行出来ません。よく神人合一が語られますが、五次元界に存在して来る自分とは、三次元世界に生きている私達の肉体の姿の存在ではありません。別の姿であり
「正守護神」と呼ばれている自分なのです。では、どうして姿が違うその存在が自分であるということが解るのかと言いますと、意識でそれが自分だと解るのです。
お釈迦様やイエスも肉体を持ってこの世に出られた身で、俗っぽく言うと、飯をくらって糞もした。だから自分と何等変わらないと言っておられる方は、魂が住む霊界は次元で住む世界が異なっており、いくらこの世で肉体を持って人であったとしても、霊界での「次元の恪」の違いがあると解っておられません。
お釈迦様もイエスも自分と一緒だ!。そうしたことを言われる愚かな方の魂よりも、お釈迦様やイエスは遙かに高次元の世界から降りられた人なのです。
だが、逆に言うと霊界からこの世に降りるということは、霊界でそのままいるよりもこの世の修業しだいで、遙かに高い次元の世界に行けるチャンスがあるということなのです。ですから、【この世は魂の修行場】なのです。
そうしたことは、その人が霊界に渡れば解ります。自分と同じだと言っているお釈迦様とかイエスは霊界では逢うことも出来ない高い世界の存在だからです。ただ、三次元界に降り立った時、同一の世界で生きただけの話なのです。
私達は三次元と呼ばれる世界から、高次元の世界に渡るにはこの肉体という魂の服を脱ぎ捨てなければなりません。何時までも三次元と呼ばれる物質世界に執着していたいのであれば、永遠に三次元と四次元の世界を行ったり来たりで輪廻転生すればいいのです。三次元と四次元の往復では永遠の「神」の存在に触れることはないでしょう。
そもそも、立替で告げられている「弥勒」とは何でしょうか?。弥には「いよいよ」と言う意味があります。また「終わる。終える」の意味があります。勒には「治める。統率」するの意味があります。一般的に仏典では弥勒菩薩は「兜率天」に住むとされます。兜を率いる天とは、兜の意味で解る様に武装した天軍を率いる場所なのです。
○十を薩摩紋だと思っている方がおられます。確かに、薩摩も藩紋として使用しました。しかし、大本教の出口王仁三郎聖師さんは、○十は弥勒の神の御紋章と霊界物語に書いておられます。何故?。そこに「兜率天」の意味があるのです。ですから、そこにさっぱり(薩張)で改めるの意味はありますが、明治維新の薩長同盟という話ではなくて、「兜率天」の天軍の意味なのです。
また「勒(革・力)」は「改革の力・革命の力」のことであり、それは天の武力(勒・兜)の行使なのです。それは、最後は創造神の力を行使して、この世の幕は降ろすという意味なのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語に【鏖殺】という内容を残されました。鏖殺とは、皆殺しの意味です。この世を終わらせない限り、嬉し嬉しの身禄(みろく)の世は来ないからです。
正直申し上げて、私は長い間、弥勒菩薩の兜率天の意味と○十の紋の関係が解りませんでした。五六億七千万の意味は大本教神諭予告「九つ花」で読み解けます。だが、弥勒菩薩がどうして「兜率天」になっているのか?。解らない謎でした。
大本教神諭に不思議な内容があります。明治34年旧6月3日。【奥山に紅葉の在るうちに」と思へども、……】。私はこの文章を初めて読んだ時、何故なのか花札の「猪・鹿・蝶」の鹿の花札が出て来ました。鹿に何か意味があるのかと首を捻っていました。これは「鏖殺(皆殺し)」の字に「鹿」があることで意味が解りました。鏖殺が起きる迄に悔い改める必要があるのです。
既に天使達は「皆殺し」のラッパを吹いたかも知れません。しかし、今即座に実行には移されません。ただ、新しい世に移行する迄の期間とは、後何百年とか何千とか何万年も先のことではないのです。
弥勒という意味を間違えていると、靴を履き違えてしまいます
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