大本教から「人」の意味は「霊(ひ)止(と)」の意味であると出されましたが、表面的には理解していても、実態論としてはほとんど理解されていない節があります。
何故ならば、これは霊的場数を踏んで来ないと、理解に至らないからです。世にさほど数は多くありませんが霊媒者と言われる人達が居られます。これは自分に霊が見えたとか声が聞こえたという霊感者レベルの話ではないのです。
よく霊媒として知られている存在に、青森県の恐山の「イタコ」があります。この存在も広義で言えば霊媒の中でしょうが、昔のイタコさんの口寄せを聞いていると「ずーずー弁」で言われます。霊の想いの伝達は、無線電話で相手から発せられた想いを伝達するようなものです。
想(そう)=走(そう)人の想いは霊界を走るからです。
イタコさんに見られるのは全てが完全型霊媒ではないのです。言うなればその霊の想いを自分が受け取って自分がしゃべっているのであって、霊そのものが語っているのではないのです。単に霊の想いの伝達です。為にズーズー弁が出ます。
世にインチキ霊能者を使って、高価な印鑑や壺を売るとんでもない大きな宗教団体がありますが、これらはあまりにも人々が霊界を知らないことから起きて来ます。
逆に言えば、これらに精通していればニセ霊媒者を使って金儲けをすることが可能ともなります。
宗教団体が起こした巨額詐欺事件として、「法之華三法行」事件があります。まだこの宗教団体が有名でない当時、あるテレビ番組で教祖・福永法源が相談者に霊が懸かって、それを浄霊する様が放映されました。当然浄霊をする前には、その霊の想いを聞くわけです。この後に、その法之華三法行は勢力を拡大しました。
私はそれを見ていて、この教祖様はかなり神力があるのかと思っておりましたが、あに図らんや、テレビ局の取材を受けるに当たって事前に霊媒を演じる役者を仕込んでいたのです。それらは福永法源が詐欺事件で逮捕されて裁判の中で明らかになった話ではあるのです。
テレビでオカルト物を放映する時、役者さんが霊が懸かった振りをするがあるわけですから、そうした物を見たとしても、それが演技か本物かと見分けるのは難しいわけです。しかし、それが出来るということは、かなり霊界に精通していないと出来ないことでもあるのです。
テレビ等で超常現象番組を見ていまして、ミニ教祖様クラスで神霊が懸かった振りをされている時がありまして、思わず笑ってしまうことがあります。霊媒質で本当に霊が懸かって入神すると、その顔立ちが別の顔に変化しますので、霊媒者の表情をよく観察していれば解るのです。
ここにに「花子」さんという霊媒質能力者が居るとします。
その花子さんに、太郎さんと言う霊が懸かったとします。
完全型霊媒の場合は、花子さんという肉体は存在してもその意識は「太郎」さんに支配されます。すなわちそれは外形は花子さんでも、実態は太郎さんなのです。
世にスピとか霊感を振りかざす方は多くおられますが、完全霊媒型で神霊を入神出来る方ともなれば、それほど数多くはないのです。そうした方は何も知らないと悪徳霊能者の弟子にされて餌食になる可能性があります。

では、その時花子さんの本来の意識はどこに居るかというと、肉体から離れて別の霊界に居ます。ある時、非常に優秀な完全霊媒の方に、あなはあの時どこに居たかと聞きましたところ、お花畑の中で遊んでいたと言われます。この完全型霊媒者の方に豊川稲荷の眷属である大白狐が入った時、その目はランランと輝き凄い威力を感じたことがあります。
私は伏見稲荷山で修行をさせてもらいましたが、完全型霊媒者を通じて、白狐とか龍神が霊媒に懸かった時の摩訶不思議な出来事を数多く体験させてもらいました。霊止(ひと)とは何かを理解出来たわけです。そうした実態は数多くの超常番組でも放映されていませんので、ほとんど知られることはないのです。また、そうしたものテレビ等が撮影しようとするならば、カメラが故障します。
花子さんの意識は別の世界に居て、その肉体は太郎さんの意識なので太郎さんの言葉が花子さんの口から出ますが、その意識は太郎さんなのでその癖がモロに出て来ます。
太郎さんが標準語でしゃべられる方だとすると、仮にそれが青森のイタコであったとしても完全型霊媒ならばズーズー弁ではしゃべらないということです。太郎霊さんが薩摩弁ならば、スーズー弁のイタコでも薩摩弁でしゃべるになるのです。
反対に霊媒者がズーズー弁を知らないとして、完全型霊媒ですとズーズー弁を喋ることも出来るわけです。
私が師匠であった方と四国小豆島の霊場に参拝していた時、護摩焚きをしますで護摩が始まりました。するとその霊場の和尚が私に太鼓を叩きなさいと言います。私は不動尊行者ではありませんので太鼓など叩けません。そこで豊受様の御代で、それ以前はこの寺で祭られているお不動様の御代であった師匠を見ると、神懸かり状態で何かを必死に堪えています。止む得ず、一緒に来ていた霊媒の方に太鼓が叩けますかと聞くと、「ハイ」と言って太鼓を叩き始めたのです。
ところが和尚やその場に居たその霊場の信仰者が私に向かって睨み付けて喚きます。太鼓の叩き方が違っているのです。私が真っ青になった時、太鼓の音が変わりました。それは私も聞いたことがある不動太鼓です。それで護摩焚きは無事に終了しました。
不可解なのは、私が太鼓か叩けますかと言ったら、「ハイ」と言って太鼓の前に坐った霊媒者です。そこで、不動太鼓を知っているのではなかったのですかと聞くと、自分は太鼓の叩き方など知らないと言います。では、何故に太鼓の前に坐ったのですかと聞くと、私が命令したからですと言われます。
そこで師匠が説明してくれました。最初に豊受様が客神として出られたので、出座の稲荷太鼓が叩かれたのです。そして、この霊場のお不動様の不動太鼓に変わったのです。この人(霊媒者)は太鼓の叩き方など知っていませんと言われます。完全型霊媒者だから為せる仕事です。
この件に関しましては、私のHP「白狐の霊界物語」にも書いていますので、よろしければそちらが詳細です。そこには幾つかの「霊止」の意味が解る記事を書いています。
http://inariyama.com/byaltuko/page003.html
この完全型霊媒が出来る方もピンからキリまであります。神社等で祭られている御祭神が使われるのはピンの方です。さりとて、創造神などと言う神が霊媒に懸かるはあり得ません。大本教神諭に、この神は霊媒に懸かる神ではないとある様に、帰神・神懸・神憑に関わることで、帰神の段階でないとあり得ない話なのです。
守護霊さんと語りました等と言っていても、それが本守護神か正守護神か副守護神か解っていないと、お話になりません。
その完全型霊媒と違って半霊媒型が存在します。これは表面的には完全霊媒型と同じなのですが、少し違います。それは太郎さんの意識に肉体を貸して支配させていても、花子さんの意識もそこに一緒に同居してその内容を聞いているのです。つまり、先の完全霊媒型の場合の花子さんは肉体を貸している間は別の霊界に行っていますが、半霊媒型はその肉体に留まっているのです。この場合は「サニワ」がやりにくくなります。花子さんの意識が言葉に入り込んで来るからです。
霊媒者は無知なる人を使えと言われていますが、なまじその人に知識があると、完全型霊媒者ではない半霊媒型者であれば、その人が持つ知識でしゃべって来るからです。
こうした症状は二重人格者にも見ることが出来ます。
それは、私達は「意識」によって生かされていることなのです。つまり「思うとか考える」ことが出来る状態が生きている証なのです。ですから、例えこの世を去って、その肉体が火で焼却されたとしても「意識」は別世界で生きているのです。こうしたことから、人を「霊(ひ)止(と)」とも呼ぶのです。人は霊の容器ではあるということです。
霊止(ひと)=人
そうしたことを深く知らないで、自分は名家の神道家だと言っている方がおられますが、私から見ると神など解っていない神道家と言いたいところです。それでは単なる儀式屋の神官なのです。
かって、自分は千年以上も続く名門神道家の家柄で、そんじょそこらの霊能者とは桁違いだと豪語される神官霊能者の方から霊的攻撃を受けたことがあります。確かにそんじょそこらの霊能者の段階の方ではありませんでした。
しかし、桁違いの霊能者だと豪語されるわりには私のバックの存在が解らなかったようです。私は何の神力も持ちませんので、ただ黙って見ているだけでしたが、その騒動は天狗界(神仙界)まで及んでしまいました。
天狗さんがその人を守護していたところで、天狗さんの神通力で霊界の何もかもが解るではないです。
人を「霊止」と呼ばせる仕組みも、言葉を創った神が長年に渡って仕上げて来た仕組みの一つで在り、この言葉を創った神とは神社仏閣で祭られて鎮座して拝されている御神霊ではないのです。宇宙の根元に在る神です。
意識=玉型の思惟(玉思惟)
魂(玉思惟)すら理解しないで、牛虎(艮)は「鬼と云」うだけでは、言葉の仕組みは見えて来ません。
この宇宙の初発に在った「言葉」とは何かが解らないと、命(みこと)の意味すら解らないのです。
これから先、人類は未だ見たことも無い創造神にと向かうことになります。
神の世(みろくの世)と呼ばれる世界は、今の三次元物質界ではありません。最低でも五次元界となります。
その時、私達は今の肉体のままでは「神の王国」には入れません。今の肉体を脱がないといけないわけです。だが、それは命で在る意識(魂)の死ではありません。今の私達の意識(思うとか考える思考)は、新しい神の王国へと移行します。その神の国でどのような肉体が自分の容器であろうと、それは自分なのです。
大本教ではある基本宣伝歌を歌いました。
三千世界一度に開く梅の花。開いて散りて実を結ぶ。これは意識だけを持って、みろくの世に行くことです。
梅の花とは人の世のことで在り、梅の花が散れば実(因果)は残りますが、新しい世に行くには過去の因果を終了させる償い分の払いを受けて、種(意識の魂)となりますが、その種の中には天神様(良心神・直霊)が存在しますので、主(天神)様と共に新しい世にと進むことなのです。

にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。