私はある時、霊的に不思議な映像を見せられました。それは、「Y型交通標識」と呼ばれるもので、この先で道は二手に分かれますよという予告です。何故、霊界が私にこの様な標識を見せて来るのか?。考えました。

大本教神諭に、神が表に現れて、善と悪とに立て分けるとあります。また、この世の【閻魔大王】としてもありますので、この世の閻魔は「人に内在する良心神」のことになります。
通常宗教概念として、この立て分けとは善人は「天国」へ。悪人は「地獄」へと思い込んでしまいます。私も最初はそう思っていました。
しかし、ある時、おかしなことに気づいたのです。誰が見ても善人と思われる人が天国界には進めていない。無論、地獄界では無いのですが、俗に言われる「天国門」の手前までなのです。どうして、善人で天国に進めないのか?。
反対に悪人と言われていても熱心な信仰者は必ずしも地獄界に墜ちてはいないのです。神仏によって助け出される。この意味は何だ???。
ある時、私の最初の師匠と論争になりました。私は善人は天国に。悪人は地獄に行くべきだと。すると、師匠は貴方の論理は青臭い。貴方はまだ神のことが何も解っていないと言います。
神を信じる者は神の子であって、神を信じない者は神の子ではないのです。神が助けるのは、どこまでも神を信じる神の子に対してなのです。それは神が人を「依怙贔屓」しているのではないのです。あの世に行けば解ります。当時の私は釈然とせずに、その師匠の言葉を聞いていました。
私は聖書で言う「墓を暴く」を考えていて、「悪」の字は「亞の心」ですが、亞に主君を裏切って葬った意味があります。すると、
悪とは主君(主神)を裏切って墓に葬った者の意なのです。
私は自分が善悪の解釈を間違えていたと気づきました。漢字の意味は調べないと、こうしたことは出て来ません。この墓に関しては以前このブログにも書いています。
一方の「善」は、単に良い人の意味ではないのです。
善は「譱」の字で「羊の言葉」なのです。この「羊の言葉」とは何かと言いますと、聖書を信じる者は「子羊」とされますが、主神の言葉に従う者達の意味なのです。
私が子供の頃に臨んだ声は言いました。人はそなたを見ても何も解らないだろう。そなたも自分が誰であるかを知らない。だが、そなたの背後に私が在ることを知る者は幸いなり。この私を見る信じる者達は、この私と永遠の世界に入り、私と共に永遠に行く。この私を見ない信じない者達は、永遠に私に出会うことが無い世界にと行く。その立ち別(たちわけ)をもって、人類は二つに別れて行く。
しかし、子供の頃の私はこの意味もよく解りませんでした。よく聖書の【最後の審判】が語られます。が、その概念は「イエス一人が神の子」だと信じる概念です。
キリスト教では人類の原罪として【蛇の唆し】を言います。
その蛇の唆しによる罪は、イエス一人が神の御子だと信じることで、イエスがその罪を祓って(払って)くれるのだという論理です。
しかし、後発のイスラム教のマホメット(マハマンド)は、イエスは偉大な預言者の一人であることを認めて尊敬せよと言いましたが、イエスがキリスト教の様に聖書に書かれた最後の審判前に現れる主の御子とは認めていません。
確かに、聖書には最後の審判前に主の御子を使わすとはあります。しかし、それがイエスだとは記述はされていません。基本的にバプテスマのヨハネが、それがイエスだと思い込んでしまったと言えるでしょう。
大本教の出口王仁三郎聖師が大本教開祖の出口ナオさんがバプテスマのヨハネで、自分がキリストだ式のことをされたのと同じ事です。確かに大本教が出した
イロハの四八音は、「ヨハネ(四八音)」とは言えます。
「音」は「ネ」と読めるからです。しかし、大本教開祖の出口なおさんと王仁三郎聖師さんの演技は旧約聖書にある男と女の二人の預言者に近いのです。
蛇の唆しとは、古来から言われる【邪の道は蛇の道】の話です。
何をしてもいいですと蛇は囁きます。多くのスピ好きが蛇霊にやられていると言われているもその為です。自分に懸かって来た存在が宇宙人だと称していても、天使だと称していても、何をしてもいいのだと言うようであれば、それは蛇霊なのです。蛇霊に懸かられた本人にその正体が見破れていないたけの話なのです。
私は霊界見聞している中で自己の中の【巳(蛇)帰る(ミカエル)】を体験しました。ヴェーダ典は、それは人が真理に目覚める時と説きます。
大本教出口王仁三郎聖師はミカエルなどと言う天使は存在していない。ミカエルは【省みる(カエリミル)】の意味だと説かれていますが、蛇を帰すのは「悔い改める」の作業になるのです。
多くのスピの方達が自分の相談者に向かって、貴方の「ハイヤーセルフ」は「ミカエル」とか「天之御中主」だと言われていますので、霊界では自分がミカエルとか天之御中主だと名乗る霊達が多数存在しているのだろうとは思われます。
しかしそれが本物かとなると、私はかなりの疑念を抱きます。
私の最初の師匠は非常に優れた実践霊能者でした。その著書の中で、自分は神様は蛇霊や狐霊だと思っていると書いています。それは霊的にはそう見えるからです。
しかし、そうした蛇霊や狐霊は肉体を持つ者が自己の肉体で浄化してあげれば、浄霊する側の肉体は辛い作業にはなりますが、蛇霊や狐霊も元の姿に戻りますので、そのことが創造神の最後の審判対象による「悪」になるとは思えません。
大本教の出口王仁三郎聖師は【体主霊従】と【霊主体従】を説かれました。少しこの言葉が真に理解されずに一人歩きしている節があります。
これはイデオロギーとして考えると意味が解りやすくなります。
左翼は、一般的に「唯物論」を指します。物質のみが真の存在であるとする主義です。唯物史観とも言われマルクス主義です。そこには神などは存在しないなのです。体主霊従になります。
それに対立するの右翼で「唯心論」と言います。一切の存在は心が変化したもので、心が唯一の実存で在るという主義です。当然、そこには神仏の存在。精神世界なので精神とか魂とか神とか霊が入って来ます。こちらが霊主体従です。
大本教の出口王仁三郎聖師は、この「唯物論」に犯されている者は「悪」だと言われているわけです。
日本にはマルクス主義の共産党があります。共産党員の方だからと言って普通に言う「悪人」ではありません。どちらかと言えば「善人」と呼ばれる方が多いのです。しかし、それを悪としなければならないのは「唯物論」に走っているからなのです。
神を殺すには刃物は要らないと言います。それは人類が神など存在しないと決めつけて、自分の心から神を排除すれば神はそこには存在出来なくなるからです。
キリスト教でいえば教会。イスラム教でいえばモスク。仏教でいえばお寺。神道でいえば神社。一部のスピの人達はそうした施設など要らないと主張されますが、多くの人がそうした施設無しに神の存在を感じるかと言いますと、自然を見て神の息吹を観じる方は少ないでしょう。
神が存在するのは、神が存在すると信じる人達が居ることによって、神は存在出来るということなのです。為に神を観じさせる建物とか祈りとか祝詞やお経も必要なものではあるのです。
私に「Y型交通標識」で示されたのは、この先人類は、神や創造神の存在を信じる人達と、神など存在しないと否定する人達の別れが来て、もう二度とこの両者が交わることはない道を行くということなのです。この道は、神が強制的に別けるのではありません。自分の良心神です。
良心が在っても、それが神で在るか、あるいは単なる良い心なのかです。
神で在る良心は天帝の分霊であり、それに従う者が神の子だからです。
各自一人一人が、自分は神など存在しないと思う道に行くのか、神は存在すると思う道を行くのかを選ぶのです。それは特定の宗教団体の教えを信じる道ではなくて、霊能者が言う言葉を信じるのではなくて、自分が自分の心に神を見る知る道なのです。
日月神示等では、悪はするなとありながら、悪も許すとあったりで、意味が解らないとの論がありますが、右翼であれば神の縁が残るので例え悪人であったとしても助けられるがあるのです。しかし左翼は神の存在を否定しますので神との縁がなく、神もこれを助けることは出来なくなるのです。
では、その時は何時かとなると、はっきりはしませんが
、「Y型標識」が持つ意味は【二線に別れるです】。すると、それは西暦2000年と言うことになりますが、私は別れる線路には【ポイント】がある映像を見ました。ポイントは別れる場所の手前以外には存在しないわけです。すると、そのポイントは西暦1999年にあることになります。私はそれがノストラダムスの西暦1999年の7の月。恐怖の宇宙は天下るの意味だろうかと考えてみました。
ところが、西暦1998年に私の夢の中に、ノストラダムスの予言には占星術による計算間違いがあり、【15】の狂いが出ていると出たのです。
この「15」がよく解りません。ノストラダムスの西暦計算に間違いがあるとすれば、恐怖の宇宙大王の天下りは西暦「2014」に起きることになります。他に別の「15」の間違いの意味があるのかもしれません。しかし、西暦1999年には何も起きないことだけは解ったわけです。
霊がこう言った。ああ言った。そうした霊の多くは「副守護霊」格と呼ばれる存在で、低次元界に所属する霊達であり、私達の日々の行動はよく知っています。当て物はよく当たります。しかし、そうした霊が言う言葉の内容で私達が天国界に導かれるとは限らないのです。
何故ならば、そうした副守護霊格の存在は、彼ら自身が「主」を知らず。霊界の高次元界を知る立場にはないからです。
巷には、自分は何億次元の者だとか何千万次元の者だとか何百万次元の者だとか、バナナの叩き売りみたいなことを言われる方が多々あります。
私は何次元まであるのか知る者ではありません。だが、私達人間は三次元界で在り、死ねば四(死)次元界で在り、それより上の「五次元界」に進めればいいわけです。
いくら自分は何億次元の者だとか何千万次元の者だとか何百万次元の者だと自称されても、その力で人類を高次元にあげることが出来ないのであれば、おまえ、呆けているのかとなります。
そうしたことも、学ぼうとしないから欺されてしまうのです。
大本教の出口王仁三郎聖師さんは、奇魂(くしみたま)をよく働かせなさいと残されたのですが、この
奇魂とはよく学ぶことです。この奇魂を働かせないと魂は「ハート」型となり、愛ばかりを言うことになってしまいます。
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