人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

修証義、地獄に案内する貪瞋痴(とんじんち)

日本の禅宗の曹洞宗の経典として、信徒が日々称えるお経として【修証義(しゅうしょうぎ)】があります。私は曹洞宗の門徒の家に生まれ出たのですが、九歳で父を亡くして、その父に対しては亡くなった当時は毎夜毎夜般若心経を唱えていましたが、他の御経は知らず、ここ三十数年間は日本神道で来ていましたので祝詞と般若心経ばかり、曹洞宗の御経に触れることもありませんでした。
だが父の死後五十八年を経過して母を失い、喪主となって親戚などが逮夜で集まりますので曹洞宗の御経に触れることになったわけです。ただ、法華経に関しては前から少しは触れておりました。


通常の御経は法華経でもそうですが漢字で書かれた物で、特に「陀羅尼」語の物ともなれば、その発音に合わせた漢字が振ってある為に意味がさっぱり解らないのが現状です。私はお釈迦様もイエスも説かれなかった「言霊」と呼ばれる世界に足を踏み入れたことで、言霊の霊力を知ることが出来ました。
仏教で陀羅尼語を翻訳もせずに発音のままに使っているのは、そのサンスクリット語で発音する言霊に威力を感じたからでしょう。しかし、日本人が理解出来ない陀羅尼語の発音御経を使ってどうなのだろうかという疑問は感じます。
何故かと言いますと、日本語のアイウエオ、イロハ、ヒフミなどはそれそのものが言霊として威力を発揮します。特に「イロハ」の場合は、その言霊の並びそのものが人生訓のように説かれています。
日本で大本教と呼ばれる宗教が起きて、仏教で陀羅尼語で来た日本人に日本語の「イロハ」の言霊を説いたのも、言霊の概念からすれば必然だったのかも知れません。


そうしたなかで曹洞宗の「修証義」は開祖道元禅師が書かれた「正法眼藏(しょうぼうげんぞう)」から抜粋して、日本語の口語で書かれた御経なので日本人にはその意味がはっきりと解ります。
その「修証義」の中に下記の語句があります。死後の世界に旅立ちの話です。明治に編纂されたもののようです。


【唯一人黄泉(こうせん)に趣くのみなり、己に随(したが)い行くは只(ただ)これ善悪業等のみなり、今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を辨(わき)まえざる邪見のともがらには群すべからず、おおよそ因果の道理は歴然(れきねん)として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、もし因果亡(ぼう)じて虚しからん如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず】
解り易く言いますと、人は死ねばただ一人で黄泉の国に向かわなければなりません。自分に従って行くのは自分がこの世で積んだ善悪のみです。
今の世で因果というものを知らず業報を明らかにせず、過去・現世・未来の三世を知らず、善悪をわきまえない邪見(因果の道理を無視した誤った考え)の仲間達とは群れてはいけません。
およそ因果の道理は歴然として私(個人の考え方)というものはないのです。悪を造った者はおちて、修善(善に修正をした)者はあの世での地位が上がるのです。それは毛一本(毫釐)も違わないのです。もし因果と呼ばれるものが亡いとしたならば、諸仏も現れなかっただろうし、達磨大師(祖師)がインドから中国に渡ることもなかったでしょう。


私はヤフーの掲示板の東洋哲学の輪廻転生で数年間論陣を張っていましたが、その時、自分は仏法を学んで来た。覚醒した。お釈迦様の教えに輪廻転生などは無い。人は死ねば終わりだ。いい加減な論を張るなと掲示板は猛烈な荒らしにあってしまいました。
そうした否定は一般在家だけではなくて、僧侶と呼ばれる職にありながら自己のホームページやブログに、死後の世界などは無い。霊等無い。人は死ねば終わりだと公言する僧達も多く、では貴方がたが拝んでおられる仏とは存在しないものかとなります。その意味でもう仏法も終わっているのかも知れません。


私にはそうした方達が、どこを見て自分は仏法を学んだ。覚醒したと主張されるのかさっぱり解りませんが、法華経もよく読めば輪廻転生しますとお釈迦様が直接に言われたなどは確かに書かれてはおりませんが、随所に輪廻転生を意味するものは入っています。基本的に仏教は三世(過去・現在・未来)を説いているのであって、過去の自分があって今の自分があり来世の自分があるので、輪廻転生論なのです。ただ、その証明は物理的科学的には出来ないということなのです。
だが、自己は覚醒しているなどの主張ばかりで聞く耳を持たない方に対しては、いくら説明しても聞く耳がないので話にはなりません。常に問答無用。
まさに、今の世で因果というものを知らず業報を明らかにせず、過去・現世・未来の三世を知らず、善悪をわきまえない邪見(因果の道理を無視した誤った考え)の仲間達とは群れては(交わっては)いけないなのです。
もし仏教から因果応報や三世の教えを抜いてしまえば、仏教には価値が無くなってしまいます。


私は時々霊能者と呼ばれる方から、貴方の背後はには「閻魔大王」様が居られますねと言われることがありますが、別に肯定も否定もしません。私自身は神通力者や天狗から攻撃を受けた時、閻魔庁の助けを受けたからです。別に金棒を持った鬼が助けに来たのではありません。だからこそ、鬼と云う意味は「魂」の話だと理解もするわけです。
また、私は幼い子供の頃に臨んだ声に「輪廻転生」を教えられて来ているからです。そんな話を信じているのかと聞かれれば、長い年月霊的世界を見聞して来て、輪廻転生は信じていますし、その声が言った言葉による神の仕組みを見させてもらいました。言葉の仕組みは神社に鎮座されている御神霊では出来るものではありません。


全てのスピの人達ではありませんが、神は光だ!愛だ!。何をしても赦されるのだと説いて居られる方達が見受けられます。そして「あるがまま」と。よくそれで自分が覚醒していると大ボラを吹けるものだと感心しています。そうした方はこの【修証義】を読まれた方がいいのです。
無論、何をしても神の愛で赦されるのだと言われるスピの方達は、これまでの宗教の教えはありもしない地獄論で人類を脅しているの一点張りでしょうが。私から見れば、その方を聖者の様に慕っている人達を地獄に案内する気ですかと問いたい心境です。


そうしたスピの方達も、過去・現世・未来を言われるでしょう。それが仏教では「三世」として説かれて来たわけです。特にスピ系の方は自分の前世を言いたがる節がありますが、何故にあなたは自身の過去の罪を赦されて、またこの世に産まれ出ているのか?。その本質を知らなければならないのです。それは神は光だ!愛だ!で赦されるの論理ではないからです。
旧約聖書。「目には目、歯には歯を」。これは【因果応報】の意味なのです。自分が犯した罪は自分で刈り取るなのです。自己の罪(業)の刈り取りが終わるまでは、例え畜生界に身を落とそうとも、輪廻転生は免れないのです。
ただ、信仰することによって罪の消滅は段階的に存在しますが、それには自らを悔い改める。懺悔が必要となって来るのです。


私が修業時代に体験した話を一つしましょう。二十数年前です。私がある女性と交際していると、突然にその当時の2番目の師匠が、おまえはいま女性と交際しているだろう。その女性と付き合ってはいけないと言い。その女性のことを語り出したのです。その女性はミニバイクで交通事故を起こして一人の男性を業務上過失致死で死なせていると。それは事実話で私もその女性から聞いていました。一年間交通刑務所に入ったと。その男性には妻と幼い子供が残されたのです。
それだけだと、別にその師匠だけではなく、優れた霊能者ならば言うでしょう。それだけだと特別の話でもなんでもありません。だが、この二人の間には隠れた因縁が存在していたのです。時代は江戸時代か戦国時代と思われますが、この女性はその男性、当時はヤクザのような無頼者だったようですが、この女性を手込めにして殺していたのです。そしてその復讐劇は今生で為されたわけです。
現世の肉体はそれを知らなくても過去からの魂は知っていて、魂が魂に復讐したとその師匠は言い出したのです。だからそれは過失致死ではなくて殺人だと。因果応報がなされた。殺人者と交際してはいけないと注意が来たのです。


仮にあなたが前世で人殺しであったとしても、またこの世に出されて来ます。それは神の愛とか慈悲ではないのです。過去世の罪が残っているのならば、それを償わなければならないのです。それが法則なのです。真理なのです。


日本人の大多数は仏教徒です。そうした時、法事などに行けば次のような御経を聞くでしょう。ただ、宗派によって少し言葉が違う場合もありますが、意味はほとんど同じです。
【我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう しょあくごう)皆由無始貪瞋痴(かいゆむし とんじんち)、従身語意之所生(じゅうしんごい ししょしょう)あるいは従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)、一切我今皆懺悔(いっさいがこん かいさんげ)】
意訳しますと、私が昔から造って来た諸々の悪業は、皆、無の始まりから貪(我愛)や瞋(怒り)や痴(真理を学ぼうとしない愚かさ)によって、我が身や言葉や心(意)によって生じたのであり、それらの全てを懺悔します。


私が残念なのは、スピの方達は皆さんそれなりの霊感を持たれています。今では仏教の教えは非科学的だと言う人が大多数で、医学や科学で死後の世界(霊界)の存在は否定されてしまっています。為に教えそのものが形骸化しました。真理を悟ろうとする者が居なくなってしまいました。
だが、スピのように霊感がある方が自分の霊感に溺れずに、真理の道を学ぶ方向転換されたならば、仏教の教えもイエスの教えも、より多くの人を納得させることが出来るはずなのです。
なのに真理を学ぼうとせずに、ただ霊感に頼って蛇霊や野狐の容器に成り下がっていることなのです。宇宙人だと思わせる存在も今日までのサニワでは蛇霊だったりが多いのです。以前、幾つか踊る宗教がありましたが、天照大御神と名乗る蛇霊だったり、宇宙人と称する黒龍神の手下の仕業だったりがありました。
奇跡に惑わされてはならないのです。大切なことは善悪をはっきりと見極めることなのです。何をしても赦される「あるがまま」などは、地獄に案内する者達が発する教えなのです。真のあるがままは聖者の段階に入った人達だけであって、善悪を認識出来ない痴の段階にある者に対しては説いてはいけない教えです。


イエスは悔い改めなさいと説きました。また仏教も「懺悔」を説いているのです。自分が過去世で犯した罪が解らない。だから、常に自己を【省みる】が必要なのです。為には、善悪を判定するミカエルの働きである「良心(この世の閻魔)」神が大切なのです。

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