私が子供の頃は、嘘をついたら閻魔大王様から針千本飲まされるとか、舌を抜かれるなどと言われて、嘘を言うことを戒められました。正直に生きよと言うことです。
この閻魔大王とは仏教で説かれるわけですが、冥界の主とされるわけです。それで地獄を司っていると言われるわけです。
閻魔大王と閻羅大王とも呼ばれて、善と悪とに分けている存在と言うことです。大本教霊界物語では、この閻魔大王様は国常立尊様と記しています。
が、大本教神諭には【この世の閻魔として現れる】とありまして、
この世の閻魔とは「皆さんの魂の中に潜在する良心神」のことですね。この世の閻魔が動くと、私達は悪いことが出来なくなります。また、良心の呵責として自分で自分を反省して「悔い改める」わけです。
しかしながら、自分の中からこの「エンマ」が消えてしまいますと、もう何をやっても良いとか。自分を省みることもしなくなるわけです。
スピ系の多くの方が、神は愛であり何をしても赦されるのですよと説かれます。そして「地獄」など存在していない。地獄など宗教が創り上げた架空話だ!。
確かに、多くのスピの方が言われる神は愛で何をしても赦されるであれば、地獄などは宗教が創り上げた架空論であるという説は正しいことになります。
オーム真理教という宗教が起きて、当時の多くの若者達がオーム真理教に走った時、ある大学の教授は学生達の前で説かれました。
【君達は、死後の世界があると思っているのですか?。人は死ねば終わりなのです。宗教が説く天国も地獄も無い。だが、全ての人が死後の世界など無いと知ったならば、死ねば終わりならば悪をしなければ損だと思う人達が多数でます。そうなれば社会は乱れに乱れて収拾がつかなくなります。地獄など存在しなくても、存在していると思わせることで、地獄に墜ちたら怖いと思う観念で人は悪行をしないものです。宗教が地獄を説くのは、社会を安定させる為の方便の教えだと知ることが大切です】。そうした教えをされました。
現代のスピの何をしても神の愛で赦されるのですと説くことは、極論で言えば殺人や強盗やレイプなどいくらしてもいいのですよと説いているようなものなのです。無論、自分達が言っているのは殺人や強盗やレイプではないと主張されるでしょう。しかし、何もやってもよいとなれば虐めや万引きストーカーや迷惑電話を掛けまくるなども、いいのですよと言っていることなのです。
その言葉を真に受けて犯罪に走る人があれば、その責任は言った者も被らなければなりません。
ある悪党は私に言いました。【神は人間がすることを黙って見ていれば良いのだ。人間が困って神頼みに行った時だけ出て来てその願いを聞いていればいい。自分がしている行為は地獄があれば間違いなく地獄に墜ちる。だが、地獄などは無い。地獄など宗教が創り上げたデッチ上げの話だ。人は神ではないから死ねば終わりである以上、悪をやらなければ損をする。怖いのは神ではなくて警察だ。警察に自分の悪事がばれたら自分は逮捕される】。
まさしく、その大学教授さんが説く通りのことをしているのです。確かに、神が犯罪を犯したから取り締まるはないでしょう。見られのはその神に対する不敬の時の神罰ぐらいです。だから、何をしても神の愛で赦されるのだ!。となりますと、もう世の中は真っ暗闇なのです。
真っ暗闇とは、太陽が輝いているとか輝いていない意味ではありません。人々の心から義理や人情が忘れさられて、我れよしに傾いている世の時も真っ暗闇なのです。
この悪党は学者と違って、神が存在していることは解っているのです。それは現世御利益を叶えてくださる神々が居られるから、自分も神社等に参るので解っているのです。だが、人は神とは違って死ねば終わりだから、悪をしなければ損をすると思っているわけです。
この悪党の悪は今日や昨日に始まった悪ではないのです。この人に関わる一連の前世が出て来た時、神代と呼ばれる時代の天則違反から、この方は幾度生まれ変わっても悪の所業を続けておられました。
その意味では多くのスピの方達が言われるように、悪行を積んで来たから神に罰せられて地獄界ではありません。しかし、驚くべきカルマの中に住んで居られます。この方の家族の状態を話しますと、聞いている方があまりのおぞましい家族関係に吐き気を催されるほどです。
自分の息子の奥さんは自分の愛人です。父の愛人と知りながら息子は自分の嫁にと望み、それはその母親も解っていて夫の愛人を息子の嫁としたのです。普通の母親ならば、そんなことはさせません。狙いは嫁としてその女性が持っていてる金。母親は自分が遊ぶ金をその女性から出させる。そして、その一家は父と母と息子とその嫁で同居しているのです。
それでも自分達は幸せだと言うのであれば、それこそ神も出る幕はないでしょう。世間的に言えば「獣」的な生き方であっても天国や地獄などいうのは、そこに住む自分の感覚なのです。住めば都であり、地獄と呼ばれる世界でも自分にとっては天国であり、天国と呼ばれる世界でも自分にとって合わなければ地獄ともなるのです。
何を持って天国や地獄と言っているかといいますと、「光」の段階を言っているだけなのです。光の段階は自分の【魂が磨かれているか汚れているか】で変わって来るのです。神の愛でどうのこうのではないのです。
何故にその悪なる者の上にはそのようなことが起きて来るのか?。その義父となる人とその妻と息子の嫁の3人は最初のカルマを造った時に関わった3人なのです。
大本教霊界物語に大本教開祖の出口なおさんは、神代の時代にそれに似た過ちの出来事があって、それ以後の人生は大本教開祖となられた時代のゴミ集めの生活時が一番ましな人生であったと記されています。輪廻転生は自分の過去の罪悪たるカルマを消す道でもあるからです。
しかも、息子の嫁となったその女性はそれだけではなく、神罰的なものなのでしょうが二重人格なのです。そして本人の中の一人は自分には自分が二人居ることを自覚しておられました。そのどちらかが出ることで顔が別人になります。そして、当然に片方は片方が出て聞いたことには知らないと言います。それは当たり前です。一つの肉体に二つの人格を所有しているからです。為に、その人の二重人格が解らない人は、あの人は嘘つきだと言うのです。
スピ系の人達が言う何をしても神は赦されるのであれば、幾度生まれ変わっても揃って同じ時代に出て、引き合ってこの世で出会い、同じ境遇を繰り返していることに説明が出来ません。そこにあるのは、
自分がした行為は、この世に出てその「カルマ」を解消するまで続くということです。何もかも神の愛で赦されているのならば【カルマ】など存在しないのです。ではこの「カルマ」とはどこに存在するのでしょうか?。
それは自己の魂の中に存在する【閻魔帳】に存在するのです。自分がした善行も悪行もすべて各自の魂の「閻魔帳」に記されているからです。これをアカシックレコードと言ってしまうと意味が解らなくなるのです。閻魔大王=国常立尊の意味が少しは理解出来るでしょうか?。
エンマ(円真)は
⦿魂の核の部分としてあるのです。ですから天帝であり、エンマ大王ともなるのです。
三千世界、一度に開く梅の花。梅の実の種の中には天神様が眠る。
人は神の子・神の宮。
私は僅かな霊能力はありますが、霊能者の方と違って他の人の前世を見ることが出来る者ではありません。しかし、神が言葉の仕組みを知らせるのに必要な時だけは、守護神が見せられることで霊界見聞をしているわけです。
スピの方達が地獄界など存在していないと言われ事は、はなはだ遺憾だと思います。論理的には神の愛で何をしても赦されるのだとなれば地獄界など存在しないで正しいことにはなりますが、霊的世界は証明論としては出来ない世界ですが、幾つかの地獄が存在しているのは見て来ました。
ただ、神は慈愛を持って悪なる者にも地獄に居る者に対しても、この世に出て魂を更生させる為に、この世に甦(更生)る機会を授けておられるのです。ですから、閻魔庁の鬼は来世門なのです。そしてこの世に出た時、過去の悪しきカルマを引きずらないように、過去世を記憶しないのは神の恩寵であり、新しい人生をもってして自分で道を切り開くのです。その人生の生き方しだいで、過去のカルマを消すことが出来るわけです。その為には悪に染まらない正しい生き方をしなくてはいけないのです。なのに、神は愛で何をしても赦されるではないのです。
地獄とは俗に言われる鬼が金棒を持って出て来て、針の山を歩かしたり逆さ吊りにしたり、釜茹でしている光景の世界ではありません。
神が言葉の仕組みとして、魂の存在を知らせる為に「鬼が云う」になっているだけなのです。
ただ、私が説いている内容も大本教という宗教が起きて、大本教神諭や霊界物語を出しておいてくれた御陰で解説が出来るのであって、出口直さんや出口王仁三郎さんが私より先に出ていてくれなければ、解説など出来るものではありませんでした。
大本教神諭以後、大本教神諭に似た神諭が竹の子の様に出て来ています。それらは全てニセ神諭とも言われています。
別に、ニセ神諭であってもかまわないのです。何故ならば九分九厘まではどの神でも行けるようにしてあるからです。九分九厘まではどの神の教えからも学べるでしょう。ですから、ニセ神示だからと頭から否定するよりも、半分ぐらいは本当のことが告げられていると学んでおけばいいのです。内容の取捨選択は自分がすることです。
どうしてそうした神諭がニセ神諭と言えるかと言いますと、大本教神諭以外は、どれ一つとっても「エンマ」を説いていないでしょう。エンマ大王の意味が、ウシトラの意味が理解出来ていない神達が降ろした神諭や神示だからです。そして肝心要の「九つ花」がどこにも記されていない。それでは自分から自分はニセ神と名乗っているような神諭や神示になってしまうのです。
有名な日月神示は大本教が出した「⦿」の核の部分の意味が解らないから〇の中に「ゝ」ですね。ただただ、どの神諭も神示も如何に大本教神諭に似せようかと努力はされたようです。それを見破れるか見破れないか。それは読む人の魂の器量にかかることなのです。
踊りなさい。踊りなさい。踊る阿呆に踊らぬ阿呆。
同じ阿呆なら、踊りゃにゃ損々。
嘘と言うに字は「虎」があります。
大本教まで遡れば、綾部の殿様であった九鬼神道まで出て来ます。すると「艮」ではなくて「宇志採羅」が出て来るのです。牛虎の虎が「採羅」だと解ります。
この「羅」は、死者の維新であり、羅王が何を告げているのかが解ります。
皆さんが、死んだら終わりだと思っていることそのものが「嘘」なのです。嘘から出るが「誠」なり。
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