鎌倉で人力車42年、77歳引退へ 永六輔さんの言葉、守り続けて

村上潤治
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 【神奈川】鎌倉の街で人力車を引いてきた青木登さん(77)が、今秋の引退を決めた。バブル、コロナ、インバウンドと、街の変化を42年間見つめてきた。ひざの古傷が悪化したことから、惜しまれながら一線を退く。

 藍染めのはんてんに、白い足袋。白髪まじりの短髪に、細くしぼった豆絞り。「青木さん、お疲れさま」と声がかかる。

 167センチと小柄だが、若いころ握力が83キロあったぶ厚い手で、空車でも重量80キロの人力車の梶棒(かじぼう)を握ってきた。

 婦人服販売の支店長だった35歳。社内の派閥争いに巻き込まれていた。銀行の待合室で飛驒高山の人力車を紹介した週刊誌を見た。「これだ」。脱サラを決めた。

 中古の人力車を購入。1984年、円覚寺の山門前で車引きを始めた。鎌倉にしたのは、下宿した経験があったからだ。

 でも、街行く人は恥ずかしがって、客は1日1組か2組ほど。日が暮れると、大船のスナックで終電まで働いた。

「自分らしく、そのままで」

 開業1年目の梅雨時のこと。鶴岡八幡宮まで結婚式の新郎新婦を乗せたことが転機になった。式場を通じての依頼が増え、結婚式の客は4年目に年間100組を超えた。

 数年後にバブル景気が訪れた。フランス料理店や懐石料理店が活況で、料金に加えてチップを渡してくる客も少なくなかった。

 2000年代、東京・浅草の大手業者が参入して苦境に立たされた。青木さんは、原則声をかけずに客を待つ。観光客の大半は客引きをする他社へ流れた。

 開業直後から付き合いのあった放送作家永六輔さんからの「下手な動きはせず自分らしく、そのままで」とのアドバイスを守ってきた。結婚式や成人式の客が8割近くを占めるのはそのためだ。

変わる街と変わらない魅力

 昭和、平成、令和と時代は移り変わり、広大なお屋敷はマンションや駐車場になった。

 コロナ禍では街から観光客が消え、空の人力車を引く毎日。いまは中国や欧米など海外から来た観光客でにぎわう。

 「鎌倉で変わらないのは山と海と寺社。その魅力を伝えたい」。アマチュアカメラマン、発掘調査員、店主らから仕入れた、ガイドブックに書かれていない旬の話題を提供すると心がけた。

 90歳まで現役を目標に、朝100回の腹筋とストレッチを続けてきた。だが、草野球でケガした左ひざが痛み始めて、2年前から走らずに歩いて車を引く。今年に入り9月末での引退を決めた。

 「車引きは誰でもできるが、慣れると気を抜いてあたり前のことができなくなる。長く続けるには、仕事への取り組みと心構え」

 幕引きの会(立食パーティー)を6月8日に開く。午後6時、同市小町2丁目のKOTOWA鎌倉鶴ケ岡会館で。会費は1万円(幼児無料、高校生まで半額)。問い合わせは青木さん(090・3137・6384)へ。

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