脳科学研究センター-脳研究の最前線

「脳を知る」「脳を守る」「脳を創る」「脳を育む」の異なる分野を統合しながら目標達成型の研究を統合的に進め、脳科学への理解を進行。

国の未来を左右するほどの影響力

そして、ほぼ全ての人間が、十分に長生きすれば、アルツハイマー病を発症する宿命があることが、近年わかりました。65歳以上で1割、85歳以上で5割、100歳以上で九割が認知症を患っていると報告されています。これはなかなかショッキングなことですが、一方で、根本的な原因が明らかになってきたことによって、アルツハイマー病を予防・治療するだけでなく、全ての中高年が対象となる脳の老化を制御できる可能性が見えはじめています。アルツハイマー病が恐れられるのは、各人がそれぞれの人生において何十年もかけて培ってきた人間としての尊厳を奪い去られてしまうからです。本人のモラルや信条まで失われてしまうと、まさに生ける屍であり、社会的地位の高い人にとっては絶対に言われたくないであろう「晩節を汚す」ことになりかねません。また、社会的コストにおいて、医療費や介護費用のみならず家庭内介護のために失われる労働力まで考慮すれば、国家レベルでは実に年間10兆円以上が失われていると言ってよいでしょう(認知症の家族を介護するためには、仕事をやめる人々のことを考慮する必要があります)。しかも、高齢者人口の増加によって、患者数は近い将来倍増すると予測されます。このコストの負担は、自分には関係ないと思っている若者にまでおよび、日本の活力を奪っていく危険があります。
アルツハイマー病が個人と国の未来を左右するほど全国民的な問題であることを、理解していただけたと思います。逆にアルツハイマー病を克服することができれば、これらの非生産的コストを抑えることが出きるだけでなく、社会全体の生産性も向上させることができるでしょう。さらに、中高年の脳劣化を制御することが可能になれば、やがて訪れる超高齢化社会は必ずしも暗いものではなくなってきます。

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家族性アルツハイマー病と孤発性アルツハイマー病

アルツハイマー病は、早期発症型と晩期発症型に分類されます。早期発症型は、20代後半から60歳までに発病します。60歳以降の発症は、晩期発症型と定義されます(研究者によっては65歳以降とする場合もあり、私もその方が妥当だと思いますが、ここでは60歳とします)。患者数において晩期発症が圧倒的に多いので、医療経済学的には最も重要な標的です。早期発症型は少なく、かなりの割合で「常染色体優性遺伝」に関する家族性アルツハイマー病です。「常染色体優性遺伝」は、性別に関係なく一対の染色体の片側に遺伝子変異が存在するだけで発症するということを意味します。両親の一人が家族性アルツハイマー病であれば、子供は二分の一の確率で発症することになります。将来、私は家族性病も予防・治療可能になるという信念があります。家族性アルツハイマー病患者は、正常に成長し成人に達した後に、30歳頃から60歳頃にかけて発症します。生まれる前から原因遺伝子変異を有するわけですから、潜伏期間が30年以上あることになります。この長期間にわたるプロセスを科学的・蓋然的に捕捉することは大変重要であると同時に困難な課題です。
一方、明確な遺伝性のないものを孤発性アルツハイマー病と呼び、晩期発症型の大半が、これに相当します。孤発性アルツハイマー病は85歳を過ぎると罹患率が急増します。家族性アルツハイマー病のタイムスケールに基づいて類推すると、原因は50歳代頃あるいはそれ以前からすでに始まっていることになります。親近者にアルツハイマー病気患者がいても、明確な遺伝性が認められない限りはあくまで孤発性アルツハイマー病です。今のところ、劣性遺伝する家族性アルツハイマー病は見いだされてはいません。

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100年前に発見されたアルツハイマー病

科学することの本質は、「因果関係の樹立」と「メカニズムの解明」です。そしてそのためには研究対象を詳細に記述しておかなければなりません。これは「現象論」や「博物学」と呼ばれるものです。研究は研究対象に名前を付けることからはじまります。アルツハイマー病研究もそのようにしてはじまりました。たとえば天文学では、古代に星や星座に名前を付けられ、16世紀以降、コペルニクスガリレオケプラーらによって天体の運動が詳細に記述されました。数学的に惑星の運動法則化することに最初に成功したのはケプラーです。さらに、ニュートンライプニッツが確立した微積分学によって古典力学の対象として発展してゆきます。
その後、電磁気学相対性理論量子力学統計力学のおかげで、天文学は今や宇宙物理学となって発展を続けています。アルツハイマー研究史もこれとよく似ています。最初は一疾患の研究だったアルツハイマー病も、今や新しい生命科学分野を切り開くまでになりました。後述はしますが、アルツハイマー病研究によって今まさに花開こうとしている研究分野が一つあります。それはこれまで正常な現象と考えられてきた脳の老化(健忘症)を制御しようというものです。私はこれを「脳老化制御学」と命名します。
アルツハイマー病は1906年にドイツ人医師アロイス・アルツハイマーが、ドイツのチュービルゲン大学で発表した症例が世界で最初です。患者は50代の女性でした。論文として発表されたのは翌年の1907年です(したがって、2006年にまたは2007年がアルツハイマー病研究100周年ということになります)。そのころのドイツは医療品・衛生の最先進国で、平均寿命が60歳を超えていました。
一方、日本は今でこそ世界の再長寿国ですが、当時の平均寿命は40歳代でした。後述するように、アルツハイマー病の最大の危険因子は加齢です。ドイツで世界初のアルツハイマー病患者が見出いだされたのは、それなりの社会的背景があったからなのだと思います。最初の症例報告後、1910年に著名な精神科医のクレベリン博士によって、正式に″アルツハイマー病″と命名されました。とはいっても、当時は希な疾患で、根拠になったのは五症例だけでした。
100年後の現代に、患者が爆発的に増えることは誰も予想していなかったでしょう。今では、全世界で患者数が2000万人を超えると考えられています。この数字は今後さらに増え続けます。しかも、数年で患者が入れ替りますから、延べ人数はものすごい数になるわけです。患者数が一多いのは米国(米国 Alzheimer's Association によると500万人以上)とされていますが、患者の増加速度が大きいのは中国とインドです。世界人口のほぼ三分の一を擁するこれらの国では、経済の発展に伴って平均寿命が伸びていることが原因のようです(中国はすでに米国を追い越したとの指摘もありますが、後述する理由から患者数を正確に把握するのは困難なのが実情です)。東アジア諸国と日本は、遺伝的・文化的背景が比較的近いため、情報を共有する意識が高いと考えられます。アジアでは、日本以外に韓国・台湾・シンガポールの研究レベルが高いので、韓国・台湾・シンガポール・中国との協同研究を積極的に促進することは相互の利益に寄与すると思います。また、欧米諸国は日本は、人口の高齢化があるレベルに達した時点で、強い不況を経験しています。社会福祉市場経済のバランスが限界点を超えたのでしょう。中国とインドが大不況に陥ると世界が困ります。この数年以内に何とかしなければなりません。


本プログによる実験データは、おもに次の文献にもとづいています。
井原康夫、荒井啓介行「アルツハイマーが、にならない」朝日新聞社 2007
貫名信行、西川徹編「脳神経疾患の分子病態と治療への展開」実験医学増刊号 羊土社 2007
本間昭編「臨床医のためのアルツハイマー認知症実践ガイド」じほう 2006

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