『伝統の創出』紹介文



 現代思想において、全ての現象は常に既に「書きこまれたもの」 として、つまり間テクスト的事象として存在するというテーゼは、 今や自明のものとして扱われるようになっている。これを歴史記述 という文脈で捉えれば、われわれが「伝統」であると認識するもの の中には、「歴史的な過去との連続性がおおかた架空のもの」(10) も含まれるということになる。それは、反復と参照により過去を形式 もしくは儀礼の形で現在に《重ね書き》するか、または同じ過程を 通じて現在から過去を《新たに築き上げる》ことを意味し、伝統は 「創出される」ことになるのである(13)。「創られた伝統」という 言葉は、歴史記述における直線的な確定を否定し、「簒奪し」、 「書き改め」、「申し立てを行なう」(31)ことによる過去の 「回復」と「捏造」(151)の過程を暴き出す。所与のものと 見なされた構造の中に「さまざまな側面の統合よりも、むしろ変化や 断絶を見出す」(170)―それこそが歴史家の務めとなる。この書に 一貫した姿勢は以上のようなものであろう。以下に各論を要約する。
 まず、スコットランド高地の伝統とされているような、オシアンの詩の信憑性、 キルトの歴史的旧さ、氏族毎に異なったタータンというのはいずれも名声への 欲望や商業的戦略、もしくは学究的夢想により動機付けられた伝統の創出である ことが明かされる。ここには、狡猾な者と夢想家それぞれにより作られた スコットランド高地地方の伝統がある。高地地方独自の伝統の創造は、18世紀 後半と19世紀前期、アイルランドに対する文化的反乱の結果として自国スコット ランドを「母なる国」と見なし、その認識を基盤として新たな伝統を創出し、 受容していくという過程であった(31-2)。高地人=ケルト人がアイルランドの 伝説から剽窃された叙事詩(オシアンなど)により「文化民族」として賛美される ようになり、またタータン柄のフェリペグやキルトなども伝統化され、それらは スコットランド独自の文化を熱望する「需要」に出版資本主義や権力への意思、 製造業や各種協会が答えた結果、現在のように「愛国的な熱意を持って」(68) 受け入れられるに到ったのである。
 またウェールズでは、過去の衰退・消失に抗うためのロマン主義的な再生の試み として、伝統の再発見と神話作りは行われた。国家の欠如や古い生活様式の衰退・ 消失への嘆き(151)が、伝統の死に対置されるようなある展望を生み出した のである。特にエイステズヴァド(「会期」:一種の音楽や詩のコンテスト、92) と吟遊詩人バルドについては、「古来の生活様式が衰えつつあったその時期に、 最初の復活の兆候が見られ」(93)、1780年代に「ウェールズ協会」と結びつき、 様式の定着と伝統の創出が積極的に行なわれ、さらに1815年以降になると「神話、 伝説への傾倒が深まり」「純粋なまた神秘的な歴史への多大な興味をウェールズ人 の間に引き起こした」(98)。また「はるかに遠い過去―ドルイド教やケルト人 など―の再発見が生じ、」(152)言語や象徴、音楽などの再発見と創出も行な われた。
ただ、18世紀以来こうして復興され捏造されてきた歴史と伝統は「宗教論争、 政治改革、産業革命といったものの強い影響から逃れていた」(144)が、1847年 王立委員会の『青書』に発端する「青書の反乱」により否応なく急進主義と国教会 非信従主義という位相へと移り存続することになった。こうして「民族の生き血 そのものが枯渇する」ことに対して「過去を漁り、想像力をもって変形すること」 (153)で、新たなウェールズ《らしさ》が創出されたのである。
 次に、政治・社会・文化生活における中心としての英国王室というイメージ、 そして「君主制の持つ俗っぽい魔力への嗜好」(165)がいかなる変遷と創出の もとにあったか、英国君主制の儀式的側面における原型としての儀礼の意味が いかなる変遷を経てきたかが、動的パフォーマンスの性質とそれを取り巻くコン テクストの密な研究により明かされる(168-9)。まず、君主が超然たる中心と して機能せず、批判の対象として見られることもあった時代では、王室儀礼は 少数に向けられた「魅力に乏しく不手際」(185)なものに留まっており、また 外国との競争意識の欠如=自国の優越への確信は、虚飾が不要なものであるという 認識を広めていた。しかし、この「明確に一貫した儀式の言語を欠く」(181) 状況は、君主の実権の衰退に伴う逆説的な君主崇拝、またメディアや運輸技術の 発達により大きく変化し、1870年以降のパフォーマンスの改善とページェントの 成功が導かれた。
そして大戦周辺期においては「狂気の時代にあって安定の旗印」(208)としての 君主、「独自性、伝統、永続性などの特質」(219)を持つ王室儀礼が「空前の 変容に時期にあって継続を表わす」(206)ようになり、さらに英国の国威が衰退 した現代に到っても、「時代錯誤的な儀式のロマンティックな魅力」(227)と 「伝統的価値の温存」(227)の役割は維持され、王威は高められることになる。 こうして、やはり伝統の「意味」は状況に関連付けられ、変遷を辿って来たと 分かるのである。
 同様にして伝統の創出と植民地化が結びついた例がアフリカであり、そこでは 「ヨーロッパから輸入された作り出された伝統は、白人たちに支配のモデルを 与えたばかりでなく、多くのアフリカ人たちにも『近代的な』行為のモデルを 提供したのである。」(325)このヨーロッパ的近代モデルは「新=伝統」として 収奪の構造や統制の機構となって働き、また紳士的な洗練などといった価値観を 流通させることで、結局「封建的、家父長的」倫理に基づく統治(支配と従属の ヒエラルキー)の枠組を定式化したのである(338)。執事教育、学校、軍隊への 新兵募集、教会儀礼など(347)における「新=伝統」もやはりカテゴリー化と 専門職業化に「役立ち」、家父長=神としての君主とその儀式も権威化の型と して表れた。しかし、植民地時代中期になると、逆にアフリカ人たちがヨーロッパ で創出された伝統の象徴を利用するようになり、「植民地制度の新しい切迫した 状況への適応」(375)が、彼ら自身によってなされ、このように一方は統治 しようとし、他方は「行動のための有効な単位」(385)を求めていく過程で、 「新しく、変化しない伝統の中身が創造され」(384)たのである。
 最後に「1870年から1914年までの西洋諸国における『作り出された伝統』の 一群」(456)が考察されるが、ここで重要なのは社会階級(特に中流階級)と それを超えたより大きな集団の確定、つまり「国家、国民、社会がひとつに」 (409)なるような伝統の創出である。「政治的」伝統の創出が「社会的関係性を 構造化するための新しい工夫」(408)として作用し、「新しい国家や政体の 正統性」(412)を打ち建てるための方策となった。また、この「国家(ステート) の成就」を目的とする伝統の創出は、「組織された大衆運動の興隆」、例えば 社会主義労働運動(メーデー)の視点からも分析され、さらに学生(卒業生) 組織やスポーツによる、中産階級の「集団アイデンティティーの確認」(454) とも結び付けられる。このように、伝統の二つの側面である政治と社会について の考察から、「創出」と「自然発生」の関係が語られ、そして論は締めくくられ る:
 「振り返ってそれらを発見すること―しかし、同時に、歴史的状況の変化に したがって社会は変化するという観点から、その必要性が感じられる理由を理解 しようとすることも、歴史家の務めなのである。」(461)

※ 本文中( )内ページ数は、エリック・ホブズボウム / テレンス・ レンジャー編『創られた伝統』(前川啓治 / 梶原景昭他訳、紀伊國屋書店、 1992)に対応する。


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