-意識の流れ-Henry Jamesからの1考察
Henry Jamesは二つの文化圏から思想の相違から生じた悲喜劇を
生涯を通して書いている。それら作品は精神の比較、文化圏の違い・
男女の違いなど習慣を意識下に潜むものとして描写している。
初期作品のDaisy Miller:A Study(1879)は、Winterbourneの
視点で語られている物語であるが、時はヨーロッパの先進国から見て
アメリカという国がまだ野性的だと思われている時代であり、
その対照として登場人物WinterbournとDaisyが映し出されている。
これは「ヨーロッパ」と「アメリカ」、「experience」と「innocence」の対照で
あり、経験が邪魔することで「ignorance」になっているWinterbourneと
Daisyの無経験であることによる純粋な「pure」との相対を描く作品である。
またThe Portrait of a Lady(1881)でも、主人公のアメリカで培った
観念的理想主義がヨーロッパの現実主義に打ち砕かれてしまうが、その現実から
絶対に逃避することはせず、新しい未来像を形作る内容だ。この2つの作品の違うところは
前者が「innocence」の中にある「pure」を求めるのに対し、後者では
「innocence」の中にある「ignorance」の変体を求めている。
この2つの対立はJamesが生涯に渡ってコスモポリタンである立場を取らせたのでは
と考える。
彼がコスモポリタンであることはこの時代に大きく影響を与えたものと考えられる。
彼の自由な思想、そしてその発展は個人の意識を自由にしたものであり、
当時の決定論で支配されていた文壇には大きな打撃ともなった。
科学的動向を重視し、人間は環境の中で決定されているという思想である
自然主義文学が大成する中で、彼は個人の意識下を描くことが芸術であり
文学の求めるものであると説いたのだ。人間と言うのは高尚であり、
ただ日々を生きる動物ではない。意識下では絶えず感情が右往左往するのである。
それを描写することが人間、または世界がリアルに文学へ投影できるのである。
しかし、初期作品後、視点の問題性を作品の中心におく実験的創作の時期に入り、
多くの視点が含まれたためにその曖昧さを指摘されてしまう。
中期の作品、The turn on the screw(1898)について、
ミシェル・ピカールはその著「時間を読む」(p72)の中で
過ぎ去った時間の各層が多様な規模で無限に重なっている-略-。
最初に登場する語り手は第二の語り手の聞き手になる、第二の語り手の方は
40年間沈黙を守るが、やがて20年前に死んだ家庭教師の原稿を読む-略-。
どのような時間性に頼るべきか我々にはわからない-略-子供の死で突然終わり、
最初の語り手たちのところにも、最初の時間にも戻らない
と、その時間の倒錯性を述べている。
「時間の倒錯性」とはナレーターの意識が時間を自由気ままに動き回り、
「語る」時間の非確実性を読者に提供することである。
ジェイムズは後に難解と表される後期作品でさらに視点の人物の意識を持ち出し、
説明文ではない比喩的な言葉によって現象を語り内実を語るようになる。
そしてそれは意識下で起こる様々な流動的な喜怒哀楽を複雑に追求していくものであり、
ふとした「瞬間」に現れる人間の情動を作用する「ignorance」「pure」を追求する結果に
よるものなのだ。
これが後の時代の「意識の流れ文学」の足がかりとして進んでいくのであるが
作品発表当時、世間に彼の作品はたいした成功を収めることはできなかったが、
ゾラを代表として台頭してきた自然主義文学が実験科学的な性格を与えられた
後の文壇では科学の真偽、社会的不安や中産階級の解体が小説家たちにとって深刻な問題と
徐々に捉え始められ、Jamesの影響を受けたプルーストなどが連作小説の中で小説の方法の対象
として人間の運命を捉えるために「意識の流れ」を使用するようになった。
Jamesが作り出した作品人物の創造的意識下の描写
(時間を無視した「意識」である「時間の倒錯性」)という独自の視点は
ジョイス、プルースト、カフカ、ウルフ、フォークナーらの手によって
宗教・科学の理念から飛び出して自由な人間性の創造へと発展し、
「意識の流れ」文学が形作られていったのである。
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