megamouthの葬列

長い旅路の終わり

もしもボスが狂ったら

連日、アメリカ大統領の発言がニュースになる。クルーグマン氏によると、彼は「完全に狂っている」そうだが*1、将来ビザが下りなくなる事態を避けたい*2私としては、トランプ大統領が、正気なのかそうでないかをはっきりと断定することはできない。ただ、上司が狂ってしまったと感じた時の絶望感と、その喜劇じみた空気については知っているから、ボスがああなってしまった時の部下の気持ちは、なんとなくわかる。

例えば、上司や同僚が以下のような様子になってきたら(あるいは既になっていたら)残念ながら「狂気」はあなたのすぐ側にある。

  • 非科学的、非論理的な主張を行い、同意するよう強制する
    • 例文)来期の目標は売り上げ2倍!粗利率2倍!弊社のフィロソフィーに忠実であれば十分達成可能な目標だ。
  • 非倫理的な行為を行う、あるいはするように強制する
    • 例文)顧客に(暗に)求められている以上、この程度の法令違反をすることはやむを得ないし、従業員は告発されるリスクを負うべきである。
  • 通常のビジネスマナーでは到底考えられない、怪文書めいたメール、チャットメッセージが社内を飛び交う


お察しのとおり、例に挙げたものはだいたい私の実体験に基づいているのだが、どうして私たちやボスは、こうも簡単に正気を失ってしまうのだろうか。いや、本当に彼らは「正気を失って」いるのだろうか?


例えば、年度始まりに、社長がこんなスピーチをしたとしよう。

「前期は売り上げこそ下がりましたが、組織構造がスリムになったことで高収益企業に生まれ変わるチャンスと捉えています。原則に立ち返り、『業界でもっとも顧客を大事にする企業』として今できる事は何か?従業員の皆さん一人一人が考えて、是非このチャンスを掴みとってください」

耳障りの良い言葉が並ぶ。しかし、その実態が退職ラッシュによる人員不足であり、事業環境が悪化の一途を辿っていることを、従業員の多くは肌で感じている。その後、部署別、個人別のKPI設定が課せられ(ちなみに全社的なKGIは『売り上げ2倍』である)、あなたも行動計画書の提出が求められる。具体的な方策など思いつくはずもなく、困ったあなたは「目標(KPI)=資格取得、行動計画=自己研鑽」と書いて提出する。すると上司は「そういう事じゃないんだよねえ……」と、力なくため息をつく。じゃあどういうのがいいんですか?とあなたが尋ねても、上司はまるでスイッチが切れたロボットのように黙り込んでしまう。あなたと上司はじっと窓の外を見る。UberEatsの黒いバックが、ビルの谷間を縫うように慌ただしく進んでいくのが見えて、まるで点々と雨粒が落ちた水面を行くアメンボのように思えた。「おや、雨ですね」とあなたは言う。上司は黙って都会の小さな空を見上げる。透明な、虚無の時間が流れる。


なぜ、こんな不毛なことになるかと言えば、経営者が、そして会社というシステムそのものが、私たちに嘘を信じることを(少なくとも信じたフリをするよう)求めているからだ。彼が、あるいは会社が、本当に言わなければならないことは、おそらくこういうことだろう。

「売り上げも下がり、優秀な人材も去った今、このままでは悪循環で、業績が下がっていくばかりです。これ以上の融資は受けられないので、設備や人材に投資することもできません。給料は払いますので、皆さん今の倍働いてもらえないでしょうか?ちなみに、残業代は出ません。でませんので、私たちの見えないところで働くか、マクロとかAIとかなんかああいうので上手いことやって倍の価値を生産してください。あるいは、突然奇跡のように好景気になるまでボーナスが0でも辞めずに耐えてください

もちろん、こんな本音を口にすれば、会社は即座に崩壊するかもしれない。だから彼らは「建前」という名の鎧をまとい、嘘を重ねる。正気の私たちから見ればまったく狂っているようにしか見えない。

しかし、その「建前」こそが、私たちが生きるこの社会を動かす、強力なルールであることも否定できないのである。

考えてみてほしい。どんなに理不尽だろうと、野球のルールにプレイヤーが疑問を抱けば野球そのものが成立しないように、「お客様第一主義」や「俺たちは今年も攻めている」といった建前があるからこそ、私たちは日々の業務をこなし、組織はかろうじて秩序を保っている。そして、私たちの待遇や評価もまた、結局のところ、この「建前」にいかに忠実であるかによって左右される。「なんでもかんでも正直に言えばいいというものではない」というのは、私たちが最初に叩き込まれる社会人の心得であり、経済産業省が掲げる「社会人基礎力*3なるものを見れば、その建前っぷりにめまいがするほどだ。

問題は、この「建前」が、時に人間としての倫理観や常識から大きく逸脱し、「狂気」としか呼びようのない様相を呈することだ。桐生市生活保護行政の担当者が、歪な建前のもとに人々を追い詰めた末に処分された事件*4は、建前が暴走した末路を、さらには組織が最終的には忠実な盲従者を切り捨てるということを私たちに突きつける。私たちは、外面的には建前を信じながら、それを内面化せず、自身の倫理観と照らし合わせ、かといって、正直に異を唱えるのもダメで、さらなる建前を編み出して「ちょうど良い案配」に折り合いをつけることを求められる。ずいぶんとまあ、都合の良い話があるものだと思う。



高度な建前ビルディングを従業員に強いる組織は、まるで精巧な舞台装置のようだ。そこで演じられるべき役割は細かく決められ、役者たちは日々、完璧な演技を求められる。しかし、その脚本が、時に現実世界の倫理や人間的な感情からかけ離れたものになっていくことに、演出家たちは気づかないふりをしている。もし誰かがアドリブで「この脚本はおかしい」と囁こうものなら、たちまち舞台から降ろされてしまうだろう。

私たちは、その舞台の上で、息苦しさを感じながらも踊り続けるしかないのだろうか。

アメリカ政府のベスト・アンド・ブライテストな閣僚たちが、口々にトランプ大統領を賛美するのを見ていると、どうもそうするしかないようだ。


だが、それでも―――諦めきれない私は思ってしまう。せめて自分が今、どんな奇妙な仮面を被り、どんな歪んだ脚本の上で踊っているのかぐらいは、自覚していたいではないか、と。インターネットの宿痾のように扱われる「冷笑」を私がなおも必要としている理由は、ここにある。
対象を客体化し、非道を内面化せずにすませるには、笑い飛ばすよりないではないか。狂った建前の入ってこない聖域を心の中に作るには、どうも私にはそれ以外の方法が思いつかないのである。

さて、君ならどうするだろうか?