11月26日(日) 狭山歴史ガイドの会自主企画「さやま歴史散歩」
参加者15名 ガイドの会5名
コースは
狭山市駅東口8時55分出発 → 峰の愛宕神社 → 天岑寺 → 小笠原墓所 → ベルクベスタ狭山店にてトイレ休憩 → 田中稲荷神社 → 田中共同墓地 → 亀に乗る石碑 → 東峰霊園 → 三柱神社 → 解散
予報通りの冷え込みで出発する頃には霧の粒のように小さなものがぽつりぽつりと頬に当たっていました。気温は10度くらいまでしか上がらず、途中で霧雨が降るなどしましたが、風が無いのが幸いでした。歩くことで体温保持をしたような散策となりました。
峰の愛宕神社
峰の愛宕神社は峰公民館の隣にあります。下左の画像は別の日に撮影したものなので晴天です。このページの他の青空の画像も同様です。
向かって右側が愛宕神社で、八雲神社が合祀されています。当地を所領としていた旗本・小笠原太郎左エ門安勝の守護神として祀られたといわれています。
新編武蔵風土記稿には「東西寺持」としてあり、東西寺は小笠原家の菩提寺である沢の天岑寺の末寺です。
鬼瓦には小笠原家の家紋である三階菱があり、その周辺と懸魚には飛雲の彫刻が施されています。
左側にあるのは蚕影 (こかげ) 神社です。幕末から明治にかけて養蚕が盛んであった頃に、蚕影社の総本社である茨城県筑波山麓の蚕影神社からの勧請と思われます。
養蚕に関わった峰・田中地区の人々の暮らしの移り変わりなども含めて説明をしました。
大龍山天岑寺
曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来です。
徳川家康に伴って関東に入国し峰・田中・沢地区を知行した旗本小笠原太郎左衛門安勝が、父、小笠原摂津守安元の菩提を弔うために文禄3年 (1594) に開基し、安元の法名、天岑院殿紹恩居士から天岑寺と命名されたと伝えられています。
明治3年 (1870) に火災があり、離れた場所にあった惣門以外は焼失しました。難を逃れた惣門は創建当時の面影をとどめる唯一の建物で、狭山市指定文化財になっています。
天に通じる門の意味を表す「通霄関 (つうしょうかん) 」の扁額が懸っています。
岩船地蔵月と月待供養塔
天岑寺境内の鐘楼近くに小振りの覆屋が2つ並んでいます。
向かって右側は岩船地蔵、左側は月待供養塔です。
この地蔵菩薩は、享保17年 (1732) 田中村の安穏寺門前に造立されていたものが、昭和の中ごろに天岑寺境内に移されました。お地蔵さまが船に乗っているということで、岩船地蔵の名で呼ばれています。見ると蓮華座の下に重ねられた石が船の形をしています。狭山市にある3基の岩船地蔵のうち、実際に船に乗った地蔵はこの地蔵尊だけです。他の2基のうちのひとつは今日のコースに含まれている東峰霊園に、もうひとつは上奥富の瑞光寺にあります。
江戸時代中期、享保4年 (1719) に下野国 (栃木県) の岩船を出発点として、鉦や太鼓を打ち鳴らし岩船節という念仏を唱えながら、船に乗せた地蔵尊を担いで村から村へと送るということが行われました。この時、地蔵尊が通った各地の村に建立されたのが「岩船地蔵尊」です。この熱狂的な信仰は爆発的な勢いで広がりましたが伝播の期間は非常に短く、享保4年から10年迄の7年間に集中していて、やがては静まり信仰も薄らいでいったようです。
天岑寺月待供養の碑は板碑の一種で、幅39㎝、高さ129㎝。市指定有形民俗文化財です。上部に種子が下部に仏像などが細い線で刻まています。板碑とは板状に加工した石でつくられた供養塔の一種で、その中でも秩父青石 (緑泥片岩) で作ったものを青石塔婆といいます。
天岑寺本堂横の道を入っていくと狭山市指定文化財である小笠原家墓所があります。
12代にわたる当主とその婦人を始めとする家族の墓石の他に、宝篋印塔2基、地蔵1基、板碑型墓石1基、石灯籠4基、手洗石1基があり、墓石はすべて生後2か月で亡くなった幼い子供の墓に至るまで笠付きのりっぱなものです。笠の正面には小笠原家の家紋である三階菱が浮き彫りにされています。
天岑寺だけでなく他の場所も案内したい事柄が多くあるのですが、帰着時間の制限があるのでガイド者の持ち時間はそれぞれ10分間しかありません。天岑寺には他にもたくさんの石造物があるのですが、ポイントを絞って次へ移動します。
霧雨が少し強めになってきたのが気がかりでしたが、天岑寺を出るころにはまた弱まっていました。
この後、天岑寺の向かいにあるベルクベスタ狭山店で15分間の休憩を取り田中へ向かいます。
田中の稲荷神社
狭山市内にある独立した稲荷神社7社のうちのひとつです。創建の年代や由緒などは不明ですが、覆殿の棟に小笠原家の家紋三階三菱が取り付けられていることから、峰の愛宕神社と同様に小笠原家が奉納したものと思われます。外から見える三階菱が取り付けられている部分や飛雲の装飾も同じですが、本殿の造りや大きさも似ていることから、作者は峰の愛宕神社に墨書銘のある荻野万次郎善勝であろうとのことです。
ちなみに、周りに5本もあったケヤキの木がすべて切り倒されて見通しが良すぎる状態になっていたので驚きました。切り株を見るとどの木も中が空洞になっていたようです。
境内社は2です。稲荷社の左横にあるのが塩竈神社、手前にあるのが天王社です。 塩竈神社の本社は宮城県塩釜市の塩竈神社で、東征の折りに塩造りを教えた鹽土老翁神 (しおつちおぢのかみ) を祀っています。潮の満ち引きが出産に影響するという昔からの考えから各地で安産の神としても信仰されています。 | 
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田中の稲荷神社裏の富士塚
稲荷神社の裏に小高い場所があり、その頂上にある碑には「浅間宮」と刻まれているところから、江戸時代に建てられたと思われますが、石碑には造立年も造立者の名前もありません。晴れた日の朝にこの場所から西の方角を眺めると富士山の優美な姿を見ることができます。
中腹にある小御岳石尊大権現の碑にも造立年が無く、「生軒保定」という造立者らしき銘がありますが、どのような人物かは不明です。
田中の稲荷と共同墓地は道路を挟んで隣り合っています。
田中の共同墓地 カンカン地蔵
一番左のなんとも痛々しいい石仏が「カンカン地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩です。イボ取り地蔵や耳だれ地蔵など、地蔵菩薩に病が治ることを祈願することは古くから行われていますが、カンカン地蔵は体じゅうすべての病を治してくれると思われてこんな姿になったのでしょうか。像の足元にはいつも小石が数個置いてあるので、今でも誰かがお地蔵様を叩きながら治癒を願っているのかもしれません。
横に並ぶ数体の地蔵尊や石碑は念仏供養塔や経典読誦供養塔です。
この墓地の手前半分の広い場所には、かつて阿弥陀堂がありました。一千日の念仏供養をはじめとして近在近郷からさまざまな念仏講の人たちが集まって来ていたのではないかと思われます。
田中の共同墓地 宝篋印塔
宝筐院陀羅尼という経文を修めた塔を宝篋印塔といいます。
「宝篋」は宝の箱を意味し、「印」は価値の高いことを意味します。
西方浄土には阿弥陀如来というふうに、それぞれの如来は配置される方位が決まっているのですが、実際の方位と一致していない塔も多く、田中の共同墓地の宝篋印塔も本来なら東を向くべき阿閦 (あしゅく) 如来を表す種子 (しゅじ) は北西を向いています。
知らずに間違えたのか、知ってはいても土地が開けていて寄付きが良い方を正面とするためだったのか、どちらでしょうか。

| 下図は如来を表す種子 (梵字) とその音 (読み方) です。

宝篋印塔正面の下段に刻まれている種子の読みは 「シッチリヤ」で、宝筐院陀羅尼そのものを表します。 |
狭山市駅東口から峰の愛宕神社そして天岑寺までの距離はそれぞれが徒歩20ほどでしたが、田中稲荷と田中の共同墓地は道を隔てて向かい合っていますし、その他の各所も2~3分歩くだけで移動できます。
亀に乗る石碑
この珍しい石碑は「前総持指月和尚行業記碑(ぜんそうじしげつおしょうこうぎょうきひ)」といいます。江戸時代に当地で生まれた指月和尚が11歳で仏門に入り明和6年 (1769) に75歳で亡くなるまでの業績や人生訓が、塔身の4面にびっしりと約2,300字で刻まれています。「石碑の文字を解読した者があるとこの亀が動き出す」という伝説が、狭山市史 (民俗編) で紹介されています。
亀の姿をした台座は亀 (きふ) といい、古代中国でも使われていました。長寿のシンボルである亀の甲羅に石碑を乗せることで碑に刻まれた内容が末代まで伝わることを願ったものと考えられます。
また、この場所には明治2年まで東西寺という天岑寺の末寺がありました。墓地には住職の墓石である卵塔 (らんとう) が多く残されています。
東峰霊園 薬師堂と岩船地蔵堂
向かって左が薬師堂、右が岩船地蔵堂です。道路は車1台が通れるだけの幅しかないので、霊園の中に入って説明をしました。
薬師堂の創建の時代は不明ですが、昭和43年までは東峰墓地内の東側にありました。建物が荒廃したために墓地入口脇に建て直し、薬師如来その他の仏像を遷座しました。薬師如来はお堂の中の厨子に納められていて見ることができません。その厨子の周りを薬師如来の眷属である十二神将が守りを固めるかのように取り囲んでいます。
岩船地蔵堂内には創建したときの寄進者名を記した板が保存されていて、それによるとお堂の創建年は大正15年 (1926) のようです。
覗いてみると高さが230㎝という威圧されそうな大きさで地蔵尊が立っていて、こちらを見下ろしています。享保4年 (1719) に造立されたものです。
さて、本日最終のガイドポイントまでまた20分ほど歩きます。
三柱神社
散策の始まりと締めくくりは、昔の生活に根差していた養蚕についてのお話となりました。
江戸時代の永享年間 (1744~1748) には、三方荒神または三宝荒神として祭られたと伝えられています。三方・三宝とは、仏教で言われる仏・法・僧の3つをさしていて、荒神とは、竈 (かまど) の神様のことであり屋敷の守り神のことでもあります。さらに、養蚕家の間では古くから養蚕守護の神として信仰されていました。明治24年頃から例祭日を5月1日と定め、その年の蚕の豊作を願う近隣の養蚕家が多数参詣し、当時は相当の賑わいを見せたそうです。
この場所でアンケートの回答を記入していただいて解散となりました。
雨の心配をしながらの寒い中を長距離移動もあり、本当にお疲れさまでした。
次回は12月8日(金)鵜ノ木・稲荷山地区。新規企画コースとなります。
今日くらいの寒さならまだ大丈夫かと思います。どうぞお楽しみに。