人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

狐の字に存在する瓜とは? 瓢に隠された神の仕組み

さて、狐の字を見ていると不思議な事に気づきます。狐の漢字は「瓜の獣」です。瓜の獣?。これではピンと来ません。

霊界で言われる蛇霊や狸霊や猫霊は、言葉その物が「感じ(漢字)」の意味を秘めていることはこれまで説明して来ました。言葉そのものが各自の「心の在り様」を示しているのです。ただ、そのことに誰も気づかなかっただけのことです。大本教神諭にこの仕組みに三千年の月日を要したとありますが、言葉を組み立てて行くと言うことは人智が及ぶ物ではありません。
だが、狐霊に関しては、「瓜の獣」ではとんと解らないのです。
まして、その狐が稲荷(米)の神使であるとなると、更に意味が解りません。


今から30年ほど前、丹後一の宮で元伊勢の「籠神社」に参拝した時、籠神社の近くに真名井神社があると聞いていたので、どこにあるのかと神社の裏手に回って見ました。すると、そこにお堂のような建物と石灯籠がありました。その石灯籠を何気なく見ますと、瓢箪の絵と与佐宮の文字が彫られていたのです。与佐宮は当然の話ですが、瓢箪が何を示しているのかさっぱり解りません。
そのお堂の額を見ても何も飾られていないので、ここは真名井神社ではないのだと、その時はそれで帰ったのですが、どうにも気になって数年前に籠神社に行って見ますと、そのお堂が在ったと記憶していた場所は整地されている駐車場の一角だったような気がしましたが、もう解りませんでした。

漢字関係の辞書を調べても、狐の字に何故「瓜」がついているのか?、はっきりしません。
だが、意外なところから判明しました。数年前にある霊能力がある方に、豊川稲荷さんと御劔大神さんが腰に瓜のようなものをぶら下げた姿を見せられのです。狐に隠された意味は「瓜」の字なのです。

私は天の十字路に五重の塔と瓢箪池の映像を見て、空・風・火・水・地あるいは五行説の意味を理解しました。そしてその五重の塔と瓢箪池が私に大本教神諭予告の「九つ花」で「一輪の言霊の経綸」を紐解かせました。
私が自分のホームページに人に内在する「良心」神を出すまでは、世に「良心」の言葉は存在していても、人に内在する「良心神」の言葉で説かれたことはなかったのです。大本教も出していません。その紐解きの鍵が【瓢箪】なのです。
その時、考えている私に何が見えたかと言いますと、将棋盤と駒です。瓢箪から駒が出るの諺です。元々は瓢箪から驢馬(ロバ)から出ただったようですが、将棋の駒で重要なのは飛車と角です。飛車は「十字」に走り、角は「×字」に走ります。この十と×を将棋盤で組み合わせると、「米」型が出来ます。言葉の区切り「句」と言います。これは言霊の意味だと理解したわけです。
さらに、瓢箪から「駒」ではなくて、瓢箪から「米」が出たの話もあるのです。そうなりますと、狐と稲荷の意味は結びつくのです。
ただ、この瓢箪は単に「瓜」の話ではなくて、宇宙の論理を語っているのです。

私が子供の頃に臨んだ声は、もう一つの地球。この地球とまったく同型の地球。すなわち【瓜二つ】を言われたわけです。
無論、子供の私にはそれが本当のことなのか、滑稽話なのかの判断は出来ませんでした。が、霊的世界の見聞に入って、霊的世界のことは科学では解明不可能。まだ人類が知る科学は、それを解明するまで至っていないとは理解しました。
私は「もう一つの地球」は私達が見ている宇宙の話ではないと気づいたのです。それは一つには私は目が開いているにも関わらず、真っ暗闇の中に叩き落とされてしまいました。その時、私に臨んだ声が言う内容を信じないと、目は開いているにも関わらず何の光も見えて来ない。これは私達に備わっている目は神の作為によって、限定されたものしか見えない目であると理解したのです。

現実に盲目の霊能者の方が存在します。盲目でありながら、相談者の年格好や着ている服の色まで当てることが出来る。つまり、盲目でありながら見えているわけです。ところが現実界の目と違って、その目は死んだ方も生きている方も同様に見えてしまうがあったのです。
そうした話をしますと、盲目の者に見えるはずがないだろうと罵られますが、私の最初の師匠の祖母さんは盲目の霊能者で在り、私もまた母親に盲目の弘法大師さんの御使いの霊能者の方からお灸をいただき、手術せずに済みました。
私は霊能者ではありませんが、少しばかりの霊能はあります。その霊能で聖地などに祭られている神仏や幽霊と呼ばれる亡霊に生き霊と呼ばれる存在も見ることはありました。すなわち「心眼」と呼ばれていますが霊界用の「霊眼」です。その霊眼は目を開けていようと瞼を閉じていようと関係無いのです。瞼を閉じていても見えるのは盲目の霊能者の方と同じように見ているのです。

私は科学者ではありませんので、難しい論理に振り回されたくはありませんので科学的な論拠には基づきませんが、私の僅かな霊的体験から感じたことは、私達の目で見る宇宙が宇宙ではないと言うことです。科学では解明出来ない宇宙が存在するなのです。
私達は「想い」に支配されています。その想いとは、【相の心】です。相対する二つの存在があるのです。

一部の論ではありますが、鏡を見て、私達は鏡に反射して見えるものを知るだけで、その鏡の裏を知らないがあります。力学では前に進む力に対して、反対に進む力があるとします。つまり、正反対に位置する存在を説くわけです。

私のプログは難しいことを書いているで人気がありません。私は人気投票の為にブログを書いているのではなくて、真理を求める人が少しでもあるならば、その人達に何等かのお役に立ちたいと書いているのに過ぎません。為に難しい内容であることは百も承知しています。
瓢箪論を説明するのはかなり難しいので、私も完全に理解に至っていませんので、ここで止めますが、狐には特別の意味が秘められていたのです。

日本における言霊学は「荷田春満」からと言われています。荷田春満とは伏見稲荷大社の社家の荷田氏ですが、秦氏からの別れたのが荷田氏です。秦氏の頃から、神の仕組みは来ているのは間違いないと言えるでしょう。
私は伏見稲荷大社の神狐像を見ていて、一体は稲穂、一体は巻物を銜えています。あの巻物には何が書かれているのだろうかと?。常々考えていたのです。


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