この世は「魂の修行場」だと言われ続けて来ました。だが、最近はそうしたことも忘れられているようです。
大本教が出しました【三千世界一度に開く梅の花】とは、梅の花が開いて散ると種の実が出来ます。その梅の種を割ると中に天神様の種と呼ばれる種が宿っているように、私達の魂も魂の中に天神様の種が宿っています。で、「魂」の字は【鬼が云う】であって、鬼と呼ばれる【牛頭で虎パンツ】で「牛虎(ウシトラ)金神の存在が世に説かれたわけです。これらは神は言葉で、言葉の仕組みを理解させる為のものだったと言えるでしょう。
自分はこう思う。私はこう思うは、それはその人の概念であって【神の仕組み】そのものではないわけです。自分が思うことは、神が長年に渡って仕組んで来られた【コトバの仕組み】とは何も関係が無いことです。基本的に自分は神の僕だと理解していない人ほど、自己の概念で言われる面がみられるようです。
別に誰がどう思い考えようとも、それは自由であり、要は創造神の仕組みが発動するのか発動しないかなのです。神の仕組みがなされている以上、その人が何を言おうとも何を思おわれようとも、仕組みが発動しなければその人の世は何の問題もなく終わるわけです。
ですから、私も絶対ではなくて、発動する可能性があるのでと説いているのに過ぎません。ただ、発動してからでは間に合わないわけです。創造神の発動に注意しなさいの意味合いで【良心神】を説いているのに過ぎません。だが、魂に欠点があると魂は丸くならないのです。

よく、スピの方達は自分はプレアデスやシリウスやオリオンから来たと言われますが、それは自分の魂の出身星で、この地球に魂の修行に来たと言う意味合いなのです。
この地球は別名【天人の苗床】とも言われますが、高度の次元にある各星の落ちこぼれの魂が修業にやって来た【魂の刑務所】とも言われています。どちらも一理あるのです。
何故ならば、【この世は魂の修行場】だからです。私は子供の頃、宇宙のどこかの星から遠い昔に、この地球に派遣されたことは解っていましたが、どの星から来たのか解りませんでした。が、シリウス星出身の方から私はプレアデス星である名前で呼ばれていたと聞かされて、私の目に見えるもの、数々の不思議に納得することが出来たのです。
私も今の世での任務を終えれば元の星に帰ることにはなります。しかし、そうは問屋が卸さないかも知れません。任務遂行に失敗すれば、この地球霊界に留まることになるからです。
この世では【ある程度の悪は許されます】。それは、魂の修行場に悪が存在しなければ【善が解らない】からです。【悪をもってして善を知る】なのです。私はかねてから赤子の様な何の穢れも知らないエンジェルは使い者にならないと言って来ました。叩かれて叩かれて養った「命」こそ、不滅性を持つからです。
南無妙法蓮華経とは、泥の中に根は在っても水面上には綺麗な花を咲かせる白蓮の様な仏様に帰依しますの意味ですが、泥を知らない者では白蓮の花も咲かないのです。
仮にこの世で「悪」をしたとしても、そこから起きるのは【魂の汚れ(穢れ)】であって、
魂を「浄化(洗濯)」すれば、最初から「悪」など存在していないただ、それを知るには学的な知識ではなくて、自分自身が辛い過酷な体験をしてこなくては、本当の理解には到達出来ないのです。お釈迦様は菩提樹の樹の下の悟りで、悪魔は実態の無い現れであり、人には良心神が内在すると悟られたのですが、悪魔達によってその内容は慈悲に置き換えられたのでしょう。
為に、何をしても神の『愛」で許されるなどと教える者が出て、結果的に魂を腐らせたり潰したりで、せっかくの永遠性の命を台無しにして行ったわけです。
この世ではいろんな出来事が起きます。私達はその出来事を通じて、この件はどうあるべきかを考えないといけないのです。それが魂の学びであり、その出来事から何等かの学びとか気づきを得ないのであれば、それらの体験や経験は何一つ生きて来ません。
世の中に何が起きていようとも、自分には関係無いと酒飲んで、パチンコやゲームで遊んでいたならば、その人の魂の奇魂はまったく働いてこず、その魂は歪(いびつ)な状態になります。それは「悪」をするより始末が悪いのです。悪は「改心」すれば済むことです。
何故、イエスを【馬(午)】小屋の救世主と言うのでしょうか?
人は体験・経験の馬に乗って、初めて【許】すが解るのです
神霊世界の【騙す】を体験して、良心神が解るのです
今日まで、神は「愛」だとイヤと言うほど説かれて来ましたが、良心神という存在は出て来ませんでした。それは神界の【騙し】に気付かないからなのです。
私は神霊世界に足を踏み入れて、どの神様にも【愛】はある。だが、【良心】が存在しない不思議に気付いたのです。そして神々が蛇や狐や狸や猫などの姿に【身変える】不思議です。この「身変える」を起こさせるものは何だ!。
蛇や狐や狸や猫などと言われているのは、動物や爬虫類の霊のことではないのです。過去に人であった様な神の【心】の存在が「身変える」を起こさせている現象なのです。
神とは、愛はあっても良心が無い存在か???全て、馬(午)で告げられていると解らなければ意味が無かったのです。
私が説いた「米」一字の型から来る【良心神】論は、単に大本教神諭予告、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」ではないのです。
この、神とは愛はあっても良心が無い存在なのか???。から発したものなのです。
精神世界の未来予想として、立替論が言われています。これは単なる立替ではなくて、聖書で説かれるところの「最後の審判」を意味します。審判の後の復活は【蘇る】であって、こちらの場合は『死んだはずだよお富さん』で、死んだと思っても死んでいなくて、次元上昇を伴った神の御国(みろく世)に渡る話なのです。
一方、【甦る】は、魂は同じでも、オギャーとまたもや赤子から出発をしなければならないのです。こちらは【黄泉帰り】でもあるわけです。
自分の魂を磨くことは、最後の審判と呼ばれる日までの魂の在り方になるのです。この地球で私達は自己の魂に欠けていたものを補正・更生させなければなりません。その為に、いろんな体験経験を積んで魂の磨きをしなければならなかったのです。それが神の「許し」を受けることになるからです。
創造神からの【許】は、体験経験を通じて魂を磨き
午(馬)の言で、神の側にと進んで行くことなのです
貴方は、如何なる体験経験で「神の許」を語れるのか!
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