人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

己の我を無にする為に拝むなれど、礼場無くして的を射ず

聖書では【神は汝と共にあり】としますが、では、いったい主神は私達のどこにおられるのかが解りがたいと言えます。汝と共に関しましては大本教神諭の【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず】の魂の核となる【直霊】部分を指します。主は各自の良心神(この世の閻魔)として、存在されているわけです。

この直霊部分の説明は大本教神諭、【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】から369(みろく)と成る仕組みを導き出して【ラ】神論とします。この「ラ」神に漢字を振りますと前のブログでも示しましたように「良心」神となるのです。で、ラ神は「太陽」神の意味でもある為に、この「ラ」神が各自に出ますことが【天の岩戸開け】ともなるのです。古代エジプトで太陽神「ラ」-としましたが、言霊の仕組みの関係上でもあったのでしょう。魂の核なので、その持つ光は「核の光」同様にもなるわけです。
大本教の出口王仁三郎聖師が「⦿」を出された時、これが「太陽」を表す記号だと誰かが気がついておられば、話はもっと早かったわけです。が、「ス」の神で話がややこしくなったと言えます。それも神の仕組みの一環だったのでしょう。



そうした時、主の神は私達の魂の中に存在しておられるとして、人に内在する良心神だから、何も拝(はい)さなくてもいいのかとなりますと、そうはならないのです。何も拝(はい)さないだと、実は「良心」神はさほど育たないのです。

旧来の神信仰をする方達は、神とする対象物を祭る場を設けて、それを拝しました。神を敬い自分を律して恐れることは、自分の魂を汚さない効果があります。また、神に対して恥じて悔い改めることで、魂は磨かれて良心も育ったわけです。
だが、今の時代の様に神をないがしろにすると、何をやってもいいのだと我れよしに走り、魂を汚すは魂を歪にするは魂を腐らせるという状態に入ったわけです。

神を対象として拝(はい)することを「拝(おが)む」と言います。拝むとは、

拝む=己の我を無にする

いくら生かされていることを感謝するとしても、拝むが無いといけません

仏教で無我になると「本我」が出るとします。本我とは本当の自分です。私達は神仏を一生懸命に拝んでいると、そこに自分の「我」が消えることを知っているはずです。例えば、拝(おが)まない「瞑想」で自分の我を消すのはかなり難しいのです。

魂を磨けと言われても、魂を磨くのはなかなか大変です。
魂を磨けと言う意味は、魂を磨かずに魂の表面を汚すとその魂の表面は「毛物」状のものが発生し、その魂を「獣」の姿に捉えてしまいます。無論、獣と言うだけでなく、爬虫類のような姿としても出るわけです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、自分の曾孫玄孫の時代は人の姿をしていても、人の魂では無い魂が生まれ出て来て可哀想だったか気の毒と言われたとされていますが、今回の福島の放射能の影響の意味ではないのです。もう出口王仁三郎聖師さんの直系の玄孫さんは既に出ておられます。
それは、人の姿をしていても魂的には人の魂ではない人達が出て来ておられるのです。それは新人類ではなくて、人の魂ではない魂の人類なのです。それが何かは、やはり可哀想だし気の毒だから言えませんが、宇宙サイドとしては別におかしくはないのです。神として高次元に上がることだけが全てではないからです。
それに近い現象は今日までも【魂の食い破り】としてあるにはあったのですが、それとは異にするものが出て来たようです。もう、この地球が「神や天人を育成する場」としては機能を失っているのです。

人の魂とは【神とも成れる魂】を持った間なのです。もう神とも成れる魂を持っていない人達に「良心」神を説いても意味を為しません。あるのは「愛」の教えのみです。そうした魂の人達は宇宙的なことは言われるでしょうが、主の神を説くことはないでしょうし、良心神の意味すら解らず、主の神を拝(はい)することもしないわけです。

主の神を拝むとは、主の神の存在を認識することではありません主と共にあることなのです

それには生かされている感謝を捧げる礼(禮)をする場がいるのです。
キリスト教徒はキリスト教会に行く、イスラム教徒はモスクに感謝に行くように、感謝を捧げる「場」で礼(禮)をすることなのです。
その「場」は家庭に設けてもいいわけです。既存の神棚であり、仏壇でもいいのです。そこに祭られている存在を拝(はい)するのではなくて、主に感謝する場とするのです。

その「礼(禮)」をする場で、万物の創造神様に生かされている感謝を捧げることで、各自の魂の良心神の的を射ることになるのです。中心を得るわけです。
家庭に仏壇も神棚も無ければ、近くの神社で生かされている感謝の礼(禮)をすることです。

それが、各自の魂の良心神(直霊)に恵みを与えます

 

永遠に永遠の主の神と共に、永遠の世を生きる者達

永遠に主の神を認めず、永遠の世を生きる者達



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