人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

立替で助かるのは2~3%など、あってたまるか!

世の大立替が言われています。この大立替論は西暦1892〈いち早くに〉で出された大本教神諭のお筆先に端を発します。その前に天理教からも出ているようですが、私は天理教の方は詳しく見ていませんのでそれは論じません。


大本教神諭は大立替で残されるのは「三分」と出ています。私はこれを見た時、この三分って割分厘の3分なのか?。あるいは3/10なのかがよく解らないわけです。日月神示では1/3となっているようなので、だとすれは3割かと思っておりましたところ、大本教の出口王仁三郎聖師さんに関して書いておられるブログに、開祖のお筆先に助かるのは三分と書いてあるが、自分は大勢の人を助ける為に努力しているであって、助かるのがたった2~3%などあってたまるかと、出口王仁三郎聖師が言われていたというような内容の記事が目に止まりました。その後、このブログの記事はさすがに影響が大きいと思われたのか削除されたようです。

私が子供の頃に姿無き神の声から聞かされたことは、今の世は終わるです。だが、単に終わるのではなくて「新しい世」になるなのです。今の世がデングリ返しとなるので、今の世においては社会の底辺に身を置けなのです。今の世の上に居た者は下に行き、今の世に下に居た者が上に行くです。要はイワト〈一八十〉開けです。
私もそうなのですが、自分が助かろうなどの気持ちはどこにもありません。ただ、多くの人に助かって欲しい。その願いの元に必死に調べ、学びもして来たわけです。そして、立替が起きるから「改心」をしなさいと説いて来られた多くの方達も、自己を犠牲にしてまで私と同様の思いで必死で説かれたものだと思っています。

ただ、大本教神諭以後、大本教神諭に似た神諭があちらこちらに出て来ています。日月神示もその一つと言えます。日月神示はまだしも、後から竹の子の様に出て来た神諭は大本教神諭に似てはいますが、同じ神のものかどうかは解らないものが多いと言えます。
何故かと言いますと、それらの神諭や神示は大本教神諭予告の「九つ花」に一言も触れていないからです。

大本教神諭 明治31年旧11月5日
【九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ】とあります。「誠から咲かせる花とは」、言葉の言で成るであって、大本教が出し九曜紋とか十曜紋ではないことが解ります。

同じく明治31年旧12月26日
【出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ。この事解りて来たなれば、三千世界が一度に開くぞよ。綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ】とあります。

この「九つ花」は綾部から咲くとなっているのです。だが、九つ花の仕組みその物は出口王仁三郎聖師からではなく、ある神が大本教に在籍して出口なお開祖派で反出口王仁三郎派と分類されている神道天行居を起こされた「友清歓真」さんに教えたとされています。そこに出て来るのが大本教の出口王仁三郎聖師が出された「ス」の神論ではなくて、天の「真柱」神は天之御中主様を意味する「ラ」神論なのです。だが、それだと綾部で咲いたならば、万古末代枯れぬ花ではないわけです。それだけならば別に綾部である必要そのものがないからです。

では、友清歓真さんが発表されたものを見ましょう。真ん中の「41」が天之御中主様の意味だと発表されたもので、「ラ」神論となります。私は、この「ラ」神を良心神として説明させて貰っています。
サイキッカーと呼称している人達の中で天人界を訪問された方が、天人達の噂話として最後の審判は各自の「良心」神が判定されると聞き及んでおられます。魂の核である直霊ですから、当然にそこが判定されるでしょう。
自分に内在する良心神によって裁かれるのですから、文句の言いようがないのです。



朝鮮に残された予言には、最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者は救われるとあります。

この「米」一字は、大本教神諭予告の九つ花のことです。この九つ花を「誠」で紐解けば「良心」神が出せます。魂の核である「良心」神に従っていれば、助かるのは2~3%の人ではなく、100%の人が助かることになるわけです。ですが、良心神は【悔い改め】なさいなので、神は愛だから何をしても許されるから悔い改めなど要らないと主張されたら、それでは良心が無いとなります。
これは、自分は七次元や六次元の出身だからと思っている段階の神が組んだ仕組みではないのです。宇宙の「法」なのです。

大本教神諭には、この「九つ花」の紐解き方が書いてありません。だが、綾部の者だとおかしいと気付く文章が存在するのです。【福知、舞鶴、外囲い、十里四方は宮の中、綾部末で都といたすぞよ】で、福知ならば中心地まで3里強、西舞鶴ならば中心の田辺城まで5里ほどで、この文章の十里の意味がおかしいと気付くのです。出口なお開祖は福知山生まれ、出口王仁三郎聖師は亀岡生まれなので、この神示は変だと気付かれなかったのでしょう。

末で綾部の意味は、この「九つ花」でない「九つ花」にあるのです。



通常知られている「九つ花」とは違って、真ん中が「41」ではなくて「81」になります。それでも縦も横も斜めも総和は同様に369(みろく)で同じなのです。この「81」は末を意味します。末に現れる神。終わりの神の意味です。

では、それをもって私達は終わるのでしょうか?。
否、それは始まりなのです。
81は9×9で、新しい369(みろく)の世を創るのです。


 
終わりにして、始めの神が立つのです

末で綾部は神の都とは、終わりの神が立ってからです。

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