人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

獣は愛に生きて、獣が何をしても神は許して来られた

スピ系では、一人一人が創造神で霊界では何でも創れるのですと説く方が多いようです。一人一人が創造神だと説くのと、私の様に一人一人には創造神の分魂である【良心】神が存在しますと説くのでは、根本的に違って来ます。
私達と創造神と呼ばれる神では魂の大きさ、神力が桁違いということなのです。そこに、イエスが説くように【自分はいと小さき者】と知ることなのです。自分が創造神だと言っているのは偉ぶっているのに過ぎません。
ですが、スピ系では一人一人が創造神で霊界では何でも創れるのですであれば、特定の創造神など存在していないことになります。そこに、神の大愛で何をしても許されるのですと説くことは、その許すの神はいったい誰じゃ?。となります。自分で自分の罪を許すことですか?。ともなります。
スピ系の人達が「良心神」の存在を認められないのは、そこらの矛盾に自分自身が気がついておられないのかも知れません。

スピ系では地獄など存在していないと言う方が多いようです。何をしても神の大愛で許されるとするのですから、理論的には地獄は存在しないことになります。今日まで悪いことをすれば地獄に落ちると説いた宗教は間違いだと言われるのは、その論理からすれば当然にそうでしょう。
そこで【地獄の獄】の字を見ましょう。獄の字には「言」が入ります。



地獄とは、よく鬼が出て来て釜茹でとか逆さ吊りとか針の山を歩かせるという世界ではないのです。鬼の姿をした者で表現されて来たことは、鬼と云う「魂」の存在を知らせむ為なのです。言葉に隠されていたことに気がつかなかったのです。これは大本教が世に出した「ウシトラ(牛虎)」があって理解に進むことが出来るわけです。

お釈迦様の前世の話としてある物語があります。それはどうも仏典ではなくて、子供向けに書かれた本の中にあるようですが、その確認は取れていません。私のうろ覚えの話ですが、お釈迦様の前世で船乗りの時があり、安酒場で酒が元で喧嘩して、人を殺してしまった。その罪で「猿」に落ちたという話です。うろ覚えなので、どこか間違っているかも知れません。
実は私も霊的に「牛」であった時が出て来ました。そうした話をすると、まず頭から嘘話とか戯言で片付けられてしまいますが、自分が「牛」であった時が出て来た時にはさすがにショックでした。牛頭の人など見たことがないのに、牛頭の侍姿の存在まで出て来たのです。
その光景が出て来た時、当時は2番目の師匠の元で修行していた頃で、これは何事かとその師匠が寒川神社の素戔嗚尊様をお呼びしてお尋ねしたところ、この者は若牛なり。いずれ立派な和牛になるだろうと。私は牛か?です。

輪廻転生の「転生」とは、そうした動物界と呼ばれる様な世界に「転じて生きる」という意味で、よく霊能者の人達が狸霊、蛇霊、狐霊、猫霊、犬霊などと言っているのは、必ずしもそうした獣たちの意味ではなくて、そうした世界に転じた人間霊のことを言っている場合が多々あるのです。その霊の「心の在り方」が言葉で示される動物の姿を取るからです。人の姿をした霊の奥を見ると、そうした動物の姿で見えて来るわけです。
私は自分が「牛」であったことは、何か「罪」を背負ったのかも知れません。だとすれば、それは返していけばいいわけです。世の為に人の為に尽くす。それは、いちいち「愛」だと言葉を発することではないのです。

私はスピの人達と、そのハイヤーセルフと称する者達が間違っていると感じるのは、「愛」の言葉を発していれば正しいと思っていることなのです。良心に「愛」が無いと思っているのであれば、とんでもない間違いなのです。
イエスの教えに「善きサマリア」人の話がありますが、一々「愛」だと言って、そうした行為はしないものなのです。人であれば必然的な善の行為なのです。そうしたことを良きかなとも言うのです。愛で救う。善で救う。どこがどう違うのでしょうか?。
「愛」だと言葉を発していれば、自分は「偉い」人だと他の人から思われるからでしょうか?。本当に愛を言うのであれば、自分の全財産を貧しい人達に寄進して、自分は無一文で貧しい人達の中で奉仕活動をする。マザーテレサの様な生き方ならば私も愛の教えに納得します。しかし、愛の光を送りますと言いながら、金儲けと言う方が多いわけです。

神社や仏閣に神霊や如来・菩薩・明王と呼ばれる霊達が存在しておられます。その神社や仏閣をアライグマの様な動物が建物を囓ったからと言って、そうした動物が神霊により罰せられたという話は聞いたことがありません。だが、人間が神木を切ったとか祠を燃やしたで、神霊に祟られた罰せられた話はチョコチョコあります。どうして人は神霊に罰せられて、獣たちは罰せられないのでしょうか?。
獣たちが他の獣たちを襲って食べても何の罰もありません。獣の牡が雌をレイプしたからと言って罰せられることはありません。力の強い牡だけが子孫を残せるのです。猿など見ていると、けっこうひどい虐めがあります。獣も愛を持ちます。その愛によって自由に生きていいのです。それが「獣の世」です。
何をしてもいいのです。好き勝手でいいのです。神の大愛で何もかも許されますは「獣の世」に進む意味合いなのです。だから、そうした教えをするスピは「魂」論には触れず、魂を磨くことも否定されるわけです。



私達人間は、神でも無ければ獣でもない中間(ちゅうかん)なのです。獣の世に向かうのか!。それとも神の世に向かうのか!なのです。
また、何かと宇宙人を言うスピの人達も多いですが、宇宙人と呼ばれる霊界人も創造神が解る段階では無いでしょう。単に次元が人間より少し上だけです。ですから、やはり愛の教え以上のことが理解出来ないのです。



今、精神世界では何かと「五次元にアセンション」が語られています。それが実際に起きるかとなったならば、それは起きてみないと誰にも解らないことではあるのです。
しかし、何故にそのようなことが語られるかと言いますと、私達の目にはしかとは解りませんが地球内部の動力源のコントロールに問題が生じているのです。私達の地球はとんでもない高速で自転しながら太陽を回っています。それは何故なのか?。それによって「時」が生じて来ます。ところが、私達はそうしたことはほとんど考えていないわけです。私は「神の時計」を見させられて、そこには大いなる意志が存在すると感じました。俗に月日と言いますが、時を刻む為に月と太陽が創られているのです。
地球は生命体ですよと説かれる方は正しいのです。よく、ガイアの意識とか言われる方がありますが、この地球が意識を発して人間に語りかけて来るかどうかは私には解りません。ですから、地球がこう言っています。ああ言っていますと言われても私には解りません。ただ、地球を動かす動力源に従事している存在は、何とかこの地球を持ちこたえさせようと努力しているとしか言えないのです。
地球が静止する日という映画がありましたが、地球回転のエネルギーが停止すれば地球上の三次元界の生命は終わってしまうでしょう。しかし、私達の命の本源は魂にあって肉体ではないのです。命や意識の終わりではないわけです。

一部に悪神がこの地球を軌道から離れるように画策していると言われている方達があるようですが、悪神ではなくて地球動力源の問題だと私は思っています。で、悲観して自殺する。それは無理なのです。基本的に魂には死が存在しないからです。私は創造神が存在しないのであれば、それに対処法はないだろうと見ます。しかし、創造神が存在するのであれば、人類には救世の道が整えられていると言えます。
その救世の道が「五次元界にアセンション」するです。しかし、この地球に問題が生じているとするならば、この地球が自然に五次元にアセンションするというのは無理筋だと見るわけです。
私達の肉体は三次元で、肉体に存在する魂は四次元で、神人合一と叫ばれてきた正守護神と呼ばれる自分の存在は最低でも五次元に在ると思われます。この三つの「三四五」は、日月神示では「みよいづ(三四五)」と語られて来ました。
その「みよいづ(三四五)」ならば、この地球でいいわけです。しかし、日月神示等で予告されているのは「みよいづ(三四五)」から「五六七(みろく)」なのです。それは、五次元・六次元・七次元の地球の話なのです。そちらの五次元にアセンションの話なのです。それには「魂が獣」であってはいけないわけです。主の分魂である直霊に従うことが大切なのです。

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