人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

愛は仏教の十二因縁で迷いの根源、支え合い、助け合いのアイは?

最近特に感じるのは、我れ好しが増えて来ているということです。だいぶ前に取られたアンケートでも、多くの人々が世の中の人の心が悪くなっていると答えらられたのですが、さらに悪化して来ているようです。
先日もコンビニで支払いで並んでいると、中年女性が横から割り込んで来て店員さんに支払いを告げられて、私が並んで待っていることに気付かれて謝られたので、いいですよ。お先にどうぞと譲りましたが、自分のことだけで周囲のことに気付かない人が増えて来ています。
狭い一車線の道路でカーブを曲がって入って来る車はその手前でミラーを確認してから入る道路でも、何の確認もしないで突っ込んで来る車があります。以前はそうした車は男性が多かったのですが、最近は若い女性が平気でお構いなしに突っ込んで来られるが多くなって来ました。
自分がその手前でミラーを確認して、対向で来る車があれば待っていれば両方が無理なく通過出来るのに待とうともしないわけです。自己本位・自己中心主義の何物でもなのです。

私は人の顔をしていても、その魂は毛物(獣)になりつつありますよと説いて来ましたが、残念ながら魂を磨いて毛物(獣)状態から脱却しましょうの教えはあまり通りません。ほとんどのスピ系では、辛いから魂磨きはやめましょう。自分が自由に好き勝手放題でいいのですと説く教えがほとんどなのです。今だけが幸せであればよいで、永遠性の命を保った魂の概念がないわけです。
私が子供の頃に臨んだ声は私に言いました。この世での僅かなひとときの場面で起きる出来事で「刹那心」に溺れてはいけない。永遠の命である魂を殺してしまうと。
刹那心とは仏教用語で、過去や将来を考えないで、ただこの瞬間さえよければそれでこと足りるという考え方のことです。刹那の「刹」の字は仏教用語で、「殺す」の異字体なのです。何を殺すのか?。永遠性の命を保った魂を殺してしまうことが「刹那」なのです。

スピの人の全員ではありませんが、地獄界など無いと言う方達があります。それは地獄界を見聞していないだけなのです。地獄が無いから「閻魔大王」も居ないとなるのです。各自の魂の真ん中に「円真」として存在するのです。その存在を天帝とするか、裁きの大王とするかは各自の心の在り方なのです。

何をしていもいいのです等を真に受けて聞いていますと、この世ではいいでしょう。だが、意識は不滅であり、永遠に苦しみの中に進むかも知れないのです。そうしたスピの方達の中には、自分は宇宙と交信する。アカシックレコードを見る。そして光でこの世を浄化しているのだ!。そうした凄い者達だと言われます。全ては愛だ!。神の大愛で何をしても赦されるのだ!。

私が子供の頃に臨んだ声は、私に【イエスの愛の教えを乗り越えよ】と告げられました。私自身、子供心に「愛」を乗り越える教えなど存在するのだろうかと思っていました。人に内在する良心神に辿り着いて、愛を越えた教えがあったのだと解りました。
今日まで魂の核たる部分に関しましては、直霊とか大直日とか伊都能売(イヅノメ)等の名で説かれて来ましたが、曲津を正す働きとしての概念で、非常に分かり難かった面があるのです。
愛と良心を比較すれば、一目瞭然で「良心」でしょう。それでも良心神は言わず「愛」に固執しているのは「蛇」の囁きを抜けられないからです。
私はこの良心神を大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」から展開しています。それは「ラ」と呼ぶ言霊です。この「ラ」に漢字を振れば「良」なのです。さらに良心神だけでなく、この「ラ」は太陽神「ラ」を意味してもいるのです。ですから、神は愛だ!。光だでは無く。神は人に内在する良心神の大源であり、太陽を意味する「光」でもあるわけです。
人に内在する良心神は太陽と同様に人々を「遍く(あまねく)照らす」ことから「天照らす」とも言うのです。

愛って、何でしょうか?。自分の好き勝手をすることが「愛」なのでしょうか?。確かに好き勝手をすることは「自己愛」です。自己を愛せない者が他人を愛せるか!。そうした屁理屈はあるでしょう。

もしかすると、「愛」の字の使い方の意味を間違えたのではないでしょうか?。愛の意味は親兄弟に対する「いつくしみ」。広く人間や生物に対する「思いやり」のことです。どこに好き勝手をすることが「愛」の定義として存在するのでしょうか?。
仏教では愛は「愛欲・愛着・渇愛・強い欲望」のことを指し、十二因縁の8番目としてあげているのです。愛は【迷いの根源】としているぐらいなのです。

本当の「愛」は【支え合い】。【助け合い】ですね。「愛」の字では無くて「合い」ですよね。私達人類は地球号という宇宙船に「乗り合い」しています。だからこそ、皆、仲間なのです。「愛」でなくて「合い」なのです。
表と裏。男と女。陰と陽。善と悪。開くと閉じる。右と左。天と地。そうした正反対の二つが合わさっているわけです。スピでは二元論は古いと言われますが、そうではなくて相反する性質の二つが合わさっているのです。互いを見つめ合うことなのです。それが「アイ」なのです。
私達は何かを想うわけです。それは「相」という対象物があって「相」見る心の「想」が起きるのです。何も対象物が無ければ何も想わないわけです。完全なる「無」となってしまうのです。
神は「無」ではないのです。相まみえるものがあって、心で「想像」をなされたわけです。だから、神に「意志」が無いではなくて、「意志」が存在して「創造」へと走ったのです。

では、スピで言う何をしても神の愛で許されますは元はキリスト教?。イエスは悔い改めなさい。そうすれば神の愛で許されますと説いたのであり、イエスが人類の罪を背負った代償として神が許されるの話であって、スピの人達が言う何をしても神の「愛」で許されるとは元々違う話です。

スピを説く人達は、罪人の償いの代償として代わりにイエスの様に自分の身を磔の犠牲にして払うのでしょうか?。
 
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