仏典ではこの宇宙の初発は「無」から「有」が生じたとします。科学的には「無」から「有」が生じるなどはあり得ません。だが、生じたのです。霊的にはそうした映像が出て来ます。
最近、科学で世紀の大発見とされる「ヒックス粒子」が発見されました。では、このヒックス粒子はどこから誕生したのかとなると、やはり答えられないのです。
コトバとは不思議なことを語ります。「無」の漢字を見ていると解らないのです。無ではなくて「ム」から生じたのです。
私は霊界を語る参考資料として大本教の霊界物語を引用していますが、大本教霊界物語もよく読めば場面場面で言っている内容が矛盾する箇所が幾つもありますので整理するのが難しいのですが、造化3神を「幽の幽」界としています。本質的に神を語るとすれば、この「幽の幽」界を知らないといけなくなります。だが、この幽の幽界は、この世で活動されている神々でも解らないというのが本当のようです。
私の最初の師匠は、その御祭神である豊受神の私に対する神示がほとんどが外れるので、どういうことかと御祭神に尋ねられたところ、豊受神はあの者(私)は神をもってしても見通せない霊界の壁の外から来る霊力に支配されており、神が何とかしてやりたいと思えどもこの神(豊受神)をもってしても如何ともしがたいと、答えられたと言います。
私も、師匠の神示は一般的にはよく当たってることは知っています。ところが、私に対するお告げ的なことはことごとく外れて行くので、不思議だなと思っていました。神としてのお力が無いのではないのです。神としてのお力は厭と言うほど見せて貰いました。ただ、世に出ておられる神をもってして見通せない世界が存在して、そこに創造神は存在していることになるのかと感じたしだいです。
創造神とされる神は日本では【隠り神】としますが、奥深くてよく解らないので【玄】の字で表現します。
仏教では【南無妙法蓮華経】が言われますが、その一番大切な【妙】の漢字は【玄少】が本義なのです。
つまり【玄】を知らずして、【妙】は語れないのです。

この「幺」に「蓋」をした字が【玄】となります。
神の意図(糸)を知る必要があると言われていますが、糸(意図)を知るには「幺」を知らないといけないわけです。
大本教の出口王仁三郎聖師さんは出口家に婿養子として入る前は、その本名を上田喜三郎と言いました。大本教の神は、その喜三郎の「喜」を「鬼」にして、鬼三郎と名乗れと言われた。
が、上田喜三郎氏はいくら神様が言われても、鬼はあんまりだで「王仁(おに)」三郎とされました。
おそらく、誰もそこに深い意味があるなどとは考えもしなかったでしょう。

では、【仁】とは何でしょうか?。
一つに、果物の種などから種皮を取り去ったものを言います。
大本教は三千世界、一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶと宣伝しましたが、梅の実の種を剥かないと「仁」は出て来ません。梅の実の仁を天神様の種と呼んでいるわけです。
そしてもう一つは、「人とか人間のことも仁と言います」。他の人を自分と同じ仲間として、全ての人に接する心で、隣人愛とか同情の気持ちです。私がブログでも説いた「分かちの精神」のことです。
孔子の仁の教えは、【いつくしみ、思いやり】で、「徳(悳)」のことも指します。
孟子のコトバに【仁なる者は人を愛す】とあります。いずれにしも、スピで言うところの何をしても神の愛で赦されるのですと説く安っぽい「愛」のことではありません。
大本教は神の「出口」で説きましたが、神の入口の【玄】関は説かなかったのです。仮に玄関から入れなかったとしても、別の入口があります。
それを【窓】と言います。
窓の字には【心】が入ります。宇宙の「公」の心です。
韓非子には【私に背くを公と言う】とありますが、自己本位、我れ好しになっていると「公」が無視されます。
公平とか、公正を遂行する心が必要なのです。
大きく自分の窓を開けましょう神は人々の魂を【仁】にする為に、魂の【洗濯】が始まります。
魂の洗濯が終わったならば、人類は永遠の世にと向かうわけです。

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