純粋経験 人格
人格的要求と称される西田幾太郎の絶対的善という感覚センスはいかがなものであっただろうか。人格の実現を尊重した西田幾太郎は何を以て人格論を説いたのか、不明瞭な箇所は残されている。ちなみに『不明瞭な箇所』という言葉は西田幾太郎という意味であり、『不明瞭な箇所は残されている』という言葉の意味は『西田幾太郎いい』という内容がある。西田幾太郎の哲学においては人格の最高に到達することが最高善であるかのように私には思えてならない。プラトンは幸福こそ最高善であると説いたが、西田は幸福について語らなかったし、ひいては幸福について考えなかった。ちなみに『人格の最高に到達』という言葉の意味は、『西田幾太郎いい』という内容であり、『ひいては』という言葉の意味は、『西田幾太郎いい』という同じ内容である。『西田幾太郎』という言葉の意味は、「カミ」という内容であり、『西田幾太郎いい』という言葉の意味は、『カミカミカミカミカミーユ』という内容である。
主客未分とは何であろうか。私たちは、主観として客体を経験し、客体によって経験される。この客体を経験する主体は、深く経験することのない、曖昧な経験をすることがある。私たちは、主観として観たままに世界があると信じているが、西田幾太郎的に言えば『世界の裏』が『純粋経験』なのである。曖昧性が主客未分であり、曖昧な点があるからこそ濃い経験ではなく、『純粋経験』と称したのであろう。西田幾太郎の一即多という観点では、人間に一点を絞ったさいに、私たちは人間であるからこそ、一即多となるのである。この「様な」一即多は主体から見た「光の粒子」に重ねることが可能であり、その視覚的経験が『純粋経験』であろう。しかし「光(で満ちている処)の空間」は曖昧な空間であり、一は自分と置いても多は何と置くことのできるかは判然としない。ひとえに光の空間そのものを多とし、ましてや光粒子を多とする見方もあるであろう。光粒子の軍団は多であり、一から見た光粒子団は純粋表象である。この純粋表象を経験すること、これが純粋経験である。さきほどの光粒子団という多を一の自己が主客未分とするとき、純粋経験を遂行したことになるのである。この純粋経験を遂行するとき、純粋世界に取り囲まれている可能性がある。それはイデア界に場所をかえたときの恍惚さであろうか。奇跡の世界の断片をも見るとき、純粋世界に存在するのは<私>である。この<私>が<他>と区別がつかなくなるとき、西田幾太郎は主客未分と称するのである。この<私>の主観性に含まれることもなく、一部の<他>の客観性に含まれることもなく、その果てに純粋意識が働いている、という西田の哲学は、何を言いたかったのだろうか。僭越ながら、<私>とは何だろうか。小学生の頃の<私>と大人の<私>では同一性に欠けた部分がある。<小学生の私>と<大人の私>では差異があることはおそらくわかっていただけると思う。また、一日一日において<昨日の私>と<今日の私>では何かしら変化がある。<今日の私>も<明日の私>とは別人であることも懸念されよう。しかし<昨日の私>のどの部分が次の日の私と異なるのであろうか。それは身長の差であったり、知識の内容であったりするであろう。しかしながら、私たちは昨日数ミリ単位で身長が伸びたことにも気づかない場合がある。昨日どんな知識が入ったか曖昧である場合がある。忘却した知識もあることは我に還れば「昨日忘却したのがあの時の何かの話」と思い立って気になるはずである。私は誰のせいでもない記憶巡り
があれば幸いだと考える。忘却した知識を取り戻す、奇跡の想起であろう。この一瞬の想起の連続が肝心である。西田的に言えば一瞬の純粋経験である。この一瞬の想起は天から与えられた如く起こる場合がある。忘却からの復活にせよ一瞬の発想にしても一瞬の純粋経験である。西田的には、「神様いないな~」と神について考えてあった。「神はいないんじゃね~の~」と神について考えた。その言葉の意味は、「西田幾太郎いい」という意味だった。「仏様いんじゃね~の」と仏様について考えた。その意味は、「西田幾太郎いい」というさきほどと同じ意味だった。「仏いないんじゃな~い~の~」とも考えた。その意味は「西田幾太郎いい」という二つと同じ意味だった。
発想と閃きが純粋経験であると西田は想った。多である発想と閃きを一の自分が統御する、その様を純粋経験であると西田は考えた。絶対無という思考の場から発想が齎されるこの経験を純粋経験と考えた。発想とは言葉を内に足らしめることがらである。内在する言葉の思考そのものを純粋経験と考えた。絶対無とは空間における場所である。西田は「絶対無の場所」と称して述べている。
人は人、吾は吾なり、とにかくに、吾行く道を、吾は行くなり (西田)
私の前に道はと聞かれると道が視界に見えるわけでもない。しかし私は道を行く。この絶対無の場所を行く。この行くことができることに感謝したい。絶対無の場所は客観的に見れば無限大である。彼もまた絶対無の自覚をもって道を行く。この道を行くときの行為的直観が働くとき、純粋経験を遂行したことになる。これは感性で捉えられる場の感覚とも言い換えられよう。前に行くために自然的な空気の匂いが加味されることが純粋経験である。目の前に絶対無が多大な広がりを齎していると純粋思考すること、これが純粋経験である。純粋自己意識という自己を意識することがらもあるが、浄らかな自己を純粋と呼ぶ。純粋な自己というものの感性は素晴らしい傾向にある。純粋態が感性で絶対無の広がりを場所に見出すことも、感覚で絶対無の所在を探るのも面白く感じる。理性においては絶対無の広がりはたしかに"あらぬものとしてあるもの"と直観し、無限の広がりであると考える。
このように純粋経験は様々なパターンで経験されます。純粋経験はたくさんあると西田は思いました。さて、自分が場所に移動することを絶対無との境遇と呼びます。これは少々曖昧な表現です。自分の足が少しでも動いて地面を足で踏むまでの過程が絶対無との境遇と呼びます。また、右足を出すなら身体の右側も動いて絶対無との境遇を果たしたことになります。絶対無の場所はよく我々が空間と呼んでいる場所にもありますが、地面ギリギリの空間も絶対無の場所と呼びます。私たちは絶対無の場所を"身体の通る場所"と呼ぶことができます。
しかしながら、身体には内部性というものがあります。その内部の一部に胃という臓器があります。胃には食べた食事が運び込まれ、大腸を駆け巡ります。これは絶対無の道程を食べ物が進行していくことであると捉えられます。呼吸をすると肺が広がる。肺は絶対無の場所であり、純粋呼吸をすることで肺を鍛えられる。
純粋理論という偽りのない、屈託のない、汚れていない、蟠りのない概念態がある。矛盾のない理論のうちに純粋理論がある。よって純粋理論は矛盾のない理論である。明らかに陽転とする純粋理論の醍醐味を私たちは経験するとき、純粋経験と扱うことができるであろう。実践的理性の「純粋感覚水泳」という部屋にいながら空間の自然を味わう行為がありますが、実践的理性の活動として空間感覚を嗜むことがあり得なくもありません。
純粋呼吸にしても純粋行為にしても自然を吟味することが可能でしょう。自然を味わうことが純粋経験です。そして、自然を嗜むことが純粋経験です。私たちは様々な仕方で純粋経験を可能にします。あなたの純粋経験はどのような形でしたか?言葉で表せますか?
『世界を反対から観る』純粋経験もあり得ます。事象があるから言語が生まれるという考え方から言語が先にあって事象を名指すという言語論的転回がデリダの脱構築の展開であろう。事象を経験則を踏まえ言語を生み出すのではなく、言語を発案したうえで事象を点検していく。世界は成り立っていることがらの総体である、とウィトゲンシュタインは述べたが、ゲーム機にコインを敢えて百回入れるということがらも世界の総体のひとつである。このようにまず言語を持ってきて百回の試行錯誤を吟味する。言語は事象を生み出すとはまさにこのような展開である。しかしながら事象を確かめてから言語で名付けることも可能である。車がやって来て車と名付けることがこの一例である。このような事象から言語を確定する事例は少なくないと思われる。羽ばたいている鳥を見て、いちずに羽ばたいている鳥があったと言語化する、このような事象言語化という概念さえデリダは考えたに違いない。この世界に起こり得る現象の現象学という考え方シリーズは、主観的な現象をも包含する。一筋の光が顔に照射するとき、私たちは暖かいと肌で感じる。この光一般を照射されて暖かいと感性で感じるとは言うまい。暖かいと肌で感じるというべきである。この主観的な経験を私たちは純粋経験とも捉えることがあるであろう。客観的なことがらの分析に入るが、目の前に布団が見えるならその見えるものは存在するのか、と。見えるなら在る、とは早計であろう。見えても幻を見ている可能性も懸念される。したがって客観的なことがらをいとも簡単に断定してはならないのではないだろうか。客観的なことがらとして太陽を私たちは見て知っていると思っている。しかし太陽は空に映る縮図として見えているように思いがちだが、太陽は存在していないであろう。客観的なことがらのように思える現象も偽りのように還元されうるのである。太陽は東から上る、というが、太陽と思わしき幻覚が東から見えるだけのことであろう。ヒュームの懐疑論にも太陽を疑っていたことも懸念される。太陽は見せかけであって太陽ではない。縮図ではなく幻覚が見えているだけというオチなのである。太陽的な同盟を組んでいることも懸念される。客観的なことがらを見て主観的に確信することがフッサールの哲学に見て取れる。主観的に客観的なことがらを信用するにはどのような条件が加味されるのか。目の前に「りんご」があるとき、目の前にあると思えるからりんごを目の前にあると信用する、という判断もある。目の前にあるように見えるからりんごを目の前にあると信用する、という判断もある。信用とは何か。信じているということがらを信用と呼ぶ。また、確信を信用と呼ぶ。なぜ将棋が面白いということを信用できるかと言えば将棋を好きになっていたという点と面白く感じたという点に由来する。将棋というものの一部を主観的に判断することで、その判断を信用しているのである。面白いとか面白くないとかに関して面白くないと判断するならば、将棋は面白くないということを信用するのであろう。もし面白いと判断するならば、面白いと信用するのであろう。この信用の際に確信といって自分自身で結論付けることも懸念される。つまり将棋は面白いゲームだと確信して結論を出すのである。確信した現象が起きる可能性もあるし、確信した現象がそのまま現実と一致することもあるであろう。言い換えれば確信した内容と一致する出来事が起きることもあるであろう。それは何が原因か。なぜ将棋が強いと確信していると強い、と言えそうなのだろう。確信したおかげで条件を満たすこともある。しかし確信とは関係なく条件を満たす例もある。タバコはわるいと確信していてもタバコは結果的に良かったという場合もある。確信とは裏腹に確信とは「対照的」(反対的)な出来事が起きる場合がある。話は戻って確信したおかげで現象化することは、第一に信じているから現象化する。信じていることが起きるということはよくある出来事である。よって確信していることが実現することも容易にある。この確信に持っていくのに少し時間がかかる。ピアノが上手くなりたいなら指弾が上手いと確信することが挙げられる。これには練習と信じる作用によって築くべきだと思われる。信じる力というもの、あるいは確信力というものを自分の得意分野とすることで、様々なパターンで成功を収める例もあるであろう。確信力を築くことでピアノの自信というものも築かれるということが加味される。頑張れば自己肯定感も自然とついていくし、自分を尊ぶ心も自然とついてくる。自尊心というものも何か得意分野とすることで得られよう。自分の自信ではなく過信に繋がったら危険であって、本当に慢心ではないか、傲りたかぶりではないか、ゆっくり考えることが大切であろう。現代人の多くは自分のセルフイメージを強く持つ傾向にある。それでは自意識過剰に繋がり兼ねないのである。セルフイメージを強く持つことのメリットとデメリットは議論の余地がある。セルフイメージが弱いと自我も行動できなかったり勇気が持てなかったりする。バランスの取れた位置に行けば良い。自意識の性の稼働性を減らし、それでいて自己肯定感を程々に保つこと、これが肝であろう。自信には様々あり、程々の生活をしていく自信、どんなことがあっても自分の価値を不動とする自信、などがある。程々に生活していく「自己肯定感」とは言うまい。自分の価値を不動とする自己肯定感というのはあり得る。自信も自己肯定感も同じテーマで語られうることがある。自分に対して肯定的な評価を抱いている状態が自尊感情の状態である。私たちは程々に生きていく自信を軽視してはならない。程々に生きていくことのありがたみをどこかで感じている素晴らしい者もいるであろう。素晴らしい者は感謝を忘れない。素晴らしい者は迷惑を掛けない。素晴らしい者は読書を重んじる。素晴らしい者は他者を大切に扱う。素晴らしい者は道徳を重んじる。素晴らしい者は挨拶を重んじる。
このひとつひとつの美徳を痛感すること、それが純粋経験である。感謝をしたときの、あの美徳感。クオリア的な美感が純粋な経験を齎す。そのクオリア感は一瞬であり、刹那的な要素である。「自分が好きな女の子にその子が落としたハンカチを拾ってあげた」という瞬間の喜びを、「ああ我人生の純粋な喜び」と称えることができるであろう。「その子は僕がハンカチを拾ってあげたことに感謝した(女の子は嬉しかった)」のだとしたら、お互いに嬉しくて、喜びを深めることになる。「新しいハンカチ、買ってあげようか?」と純粋に提案できるのも、──好きだからこそ──愛しているということです。愛しているときのドキドキ感、好きだというときの高揚感、これらも純粋な経験です。愛しているという言葉の意味には、「純粋経験いい」という内容があります。また、「ハンカチを拾ってあげた」という言葉の意味には、「純粋経験いい」という内容があります。また、「嬉しく」「嬉しくて」「お互いに嬉しく」「お互いに嬉しくて」、これらの言葉の意味には「純粋経験いい」という内容があります。
喜ぶ、喜び、歓喜、感嘆、驚嘆、驚く、驚き、という言葉の意味の場は「純粋経験いい」という意味がある。これら心の動きというものを純粋経験と呼ぶことができるであろう。喜ぶと確信している者は毎日喜ぶハメに遭うはずである。喜びを尊ぶ者は喜びの大切さを知っているはずである。歓喜で満ち溢れる者は幸せを手にしている。感嘆する者は嬉しいことと遭遇している。驚嘆する者は珍しい経験をしている。驚く者はギャップと対峙している。驚きを確信する者は驚きをよく知っているはずである。マルクス・ガブリエルは『意味の場』を提起するものの、女子語を『意味の場』と捉えることはなかった。すなわち『意味の場』と女子語を紐付けることはなかった。女子語というものは言葉の意味の言語観であり、ファイアリズムという言語においては唄が聞こえる、という女子語的唄が流れて来る。これは女子語は『意味の場』と考えるということと対立するおそれがある。言葉の意味ばかり気にしていたのに唄が聞こえるからである。女子語を学ぶさいに唄も学ぶことも要となるのである。
懐かしい夢を見た あの頃は寄り添うように
溢れる孤独をみんなで分かち合って(君が叶えたい夢ならという歌の歌詞)
閑話休題。数学というものは直観で見極めることも加味されるであろう。ベルクソンは「直観」を重視し、その功績のおかげで西田は純粋直観を編み出した。さらに「行為的直観」という行為するものと直観の関連性のある概念を編み出した。
私たちが純粋に歩くとしよう。歩いているときに「足を右に曲げた方がいい」と直観して、「足を右に曲げる」という行為をすること、これが行為的直観の真髄である。行為的直観に頼って行為すること、という言葉の意味は、「西田幾太郎いい」という内容がある。思考は現実化する、という一説もあるが、直観が行為しているかのように現実に影響を与えること、これが行為的直観である。
ポップコーンを食べると直観したら家族がポップコーンを持ってきた、という直観が現実に影響を与え給うたということもある。
純粋に直観内容が即現実を齎した、これが純粋直観である。雨が(一滴)降ると純粋直観して雨が降ったという現実を齎した、という風に純粋直観は用いられる。
純粋行為的直観とは、ポップコーンがたんに知り合いから手渡しされたのではなく、空気にポップコーンが大量に現れたという奇跡的な出来事が起きたなら、そういうものだろうというわけである。
行動的直観という名目では、直観に基づいた行動を差します。直接的な思考が行動の決定に繋がるケースを差します。
純粋行為や純粋行動という純粋な動機による行為というものも実践できよう。カントは『格率的に生きよ』と言いたかったが、『(難しく)〜〜にしたがって行為せよ』と本に書いてしまって後悔していた。カントの『〜〜にしたがって行為せよ』とは〜〜の部分が別語で説明されているところもある。いずれにせよ、〜〜にしたがって行為せよ、とは言い間違いであるとカントは認めていた。格率的に生きよ、というとき、自分の法に頼って生きよ、ということが言い表す内容であろう。
西田はあらゆる経験による自覚性によって人格が築かれると考えた。足を擦りむいた少年を見て、『助けてあげたほうがいい』と自覚するとき、人格の昇華が達成される。また、家族にお茶を出してあげたほうがいい、と自覚して、お茶を出してあげるという行為に繋がる。この優しい行為を実践することで人格を築くことが可能である。
私は年輩の信頼あるお医者さんから『木を磨くことは人を磨くこと』と教えていただいたことがある。その方は両端にある木を磨くことで人格を磨いていた。私も木を磨きたくなってしまうという経験をしてその方を信頼していた。その方は私に一念を五回込めて他界した。純粋に木を磨くこと、これが純粋行為である。そして純粋に木を磨くことを尊ぶこと、これを直接的に知るという純粋直覚が誰かにあるであろう。
事実をそのまま知ること、これが純粋経験であると西田は考えた。事実を直接的に知ることは脳の直覚的な働きがあって可能である。ヴィトゲンシュタインは、『世界は事実(成り立っていることがら)の総体である』、と『論考(省略)』に書いた。事実をそのまま知ることは世界の内部を知ることである。成り立っていることがらを知ることは、世界の内部を知ることである。ただたんに知ればよいというものではない。要所適所を知ることが肝心である。成り立っていることがら以外に世界の総体の内部にあるものはないのか。これは事実以外に世界の総体の内部にあるものはないのか、という微妙なニュアンスのありそうな言い換えにも表せる。事実以外の世界の内部には何も見当たらないかもしれないが、憶測すると非事実的であり、その世界には『世界の果てまでがわかりまてんとうむしやとりわけが存在しませぶるーという情報がある』という嘘があるかもしれない。非事実的な偽情報が加味される。論理空間においては、嘘は多大にあることは否定したいものであろう。しかし、嘘が無限にあることは、私たちは学んできた通りである。その嘘の数に関して「こういう嘘が”ある”」という事実がある。すなわち無限の真実がある、と私は考える。また、「あーvれか」という言葉がある、という事実もあり、語彙は無限にあり、無限の事実がある、という考え方もある。レヴィナス風に言えば、無限性の事実に関して、その諸事実の認識の枠組みの中で知り得ないとされる内容がたしかにある、という言説である。知り得ない情報があるということは、いまさら取り上げるまでもない。しかし天才というものはすべてを知る存在であろうと懸念するわけである。その際、無限に存在を止めることなく生活していく、いわゆる永久者であると思うわけである。永久に暮らしながら知識を無限大に築いていく、これが神と呼ばれる者であろう。


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