健康ウォーキング~東三ツ木・青柳地区編~
12月15日(金)新狭山公民館主催のイベント、健康ウォーキングでのガイドです。
参加者13名、公民館職員2名、ガイドの会5名
コース
新狭山南口8時45分集合 → 9時5分発のバスで青柳の氷川神社へ → 以降徒歩 → 青柳のせんちゃん地蔵 → 青柳の馬頭観音 → 鎌倉街道遺構 → 寿荘(休憩) → 加佐志の共同墓地 → 羽黒神社と菩提樹 → 東三ツ木の観音堂 → 三ツ木原古戦場跡 → 解散12時30分
当初は6月に予定されていたイベントです。天候の関係で2回の順延を経て3度目の正直、心配されていた雨も早朝に道路を濡らした程度で、8時前にはすっかりあがっていました。とはいえ終日曇天で、少し肌寒い1日でした。
集合場所の新狭山駅南口でバス待ちながら、今日歩く東三ツ木・青柳・加佐志を含む青柳地区のなりたちについての説明をしました。
青柳の氷川神社
創建年代は不詳ですが、青柳村が開発された際に大宮氷川神社より勧請したと伝えられており、江戸期には村の鎮守として祀られていました。明治5年に村社に列せられ、明治40年に青柳下にあった第六天神社と稲荷神社を移転して境内社としています。
拝殿に向かって境内左手に稲荷神社、境内右手に第六天神社が祀られています。
境内社の冨士嶽神社富士塚は、昭42年頃までは境内の東側に鎮座していましたが、道路拡張に伴い現在の場所である境内西側に移転されました。
富士塚には富士山から運ばれた溶岩が置いてあります。
青柳のせんちゃん地蔵
近くで茶店を営んでいた「せんまつ」という人が久保川べりで草刈りをしている時にこの地蔵菩薩を見つけて祀ったことから「せんちゃん地蔵」という名前で呼ばれています。お堂に向かって右側を流れているのが久保川です。「享保十四年 (1729) 」と刻まれた石の台座の下にコンクリート製らしき台座があって、そこには「明治五年 (1872) 」と刻まれています。それはもともとの造立年と、「せんまつ」さんが見つけた後に祀った年ということなのでしょうか。
せんちゃん地蔵は今日もたくさんの花で囲まれていて、いつも大事に守られていることがわかります。
丸彫りのものと一石六体のが仏像が並んでいるこの場所で、石仏には丸彫り、浮彫り、文字塔という種類があるということも説明しました。
青柳の馬頭観音
享保14年 (1729) 造立の馬頭観音立像です。造立から290年以上を経ても劣化が少ないのは伊豆石という石材が使われているからだそうです。高価な石を伊豆から江戸まで船で運び新河岸まで川を遡って、さらに馬などを使って青柳まで運んでくるというのは、裕福な家でないとできないことでした。
右上に刻まれている「うはっきゅう」と読む文字は、滅罪成仏の功徳・吉祥成就の意を表す、と言われています。
| 青柳の馬頭観音 ガイド風景。 |
鎌倉街道遺構
鎌倉街道遺構へ向かう道の途中には、先月の狭山台図書館主催の史跡巡りの時と同じように山茶花が咲いていました。
鎌倉街道という呼び名は、江戸時代の文政年間 (1818~1831) に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「鎌倉街道跡残れり」とか「鎌倉古道と唱る所あり」などと書かれていることから、 この頃からそう呼ばれるようになったのだろうと言われています。また、江戸時代には江戸を中心とした五街道が整備されたために鎌倉街道は主要幹線路ではなくなり、すでに古道となっていたとも考えられます。
加佐志のこの場所もほんの130mほどの切通跡が残っているだけです。
地図と写真を使って、鎌倉街道の3つのルートである上道 (かみつみち) ・中道 (なかつみち) ・下道 (しもつみち) について、そして狭山市内に残る上道と堀兼道についての説明をしました。
老人福祉センター寿荘で休憩
この地域をガイドするときにはいつも休憩場所に利用させていただく寿荘です。
その近くには、水の乏しい加佐志・堀兼地区には珍しく、どんなに日照りが続いても水が涸れたためしがなかったといわれる池がありました。今ではその池もとても小さくなってしまっていますが、周辺からは縄文時代の集落跡が3ヶ所見つかっていて、新編武蔵風土記稿に『中古まで茫々たる原野なりしが』と記されているような地域の中にあっても人の住みやすい場所であったようです。
休憩時間を25分もとることができたのでゆったりと座っていると、いつものラジオ体操の時間なのでご一緒にどうぞ、と誘われて全員で参加。心身ともにほぐれて後半のコースを歩きました。
加佐志の共同墓地
今回訪れてみると耳だれ地蔵のお堂が樹脂製の波板で覆われていました。お地蔵さまを拝観することも、扉に下げられたお供えの竹筒 (たかづっぽ) を見ることもできず、とても残念でした。以前に撮影した画像をのせておきます。
これについては11月19日(日) の記事で紹介してあります。
羽黒神社と菩提樹
羽黒神社は、江戸時代に奥州羽黒山麓に住んでいた伴蔵人一俊 (ばんくらんどがずとし) という武士が「武蔵国に行って土地を開拓し居を定めよ」との羽黒権現の夢のお告げによって仲間と共にこの地へ移り住みその開拓した土地に祀った、という伝承が残っています。
明治42年、一村一社の法令により堀兼神社に合祀して社殿は取り壊すことになりましたが、土地の人達の要望で堀兼神社の遙拝所としてこの場所に残され、終戦後の宗教法の改正によって、昭和25年に神社本庁の認可を受けて羽黒神社として再建されました。
葉の裏から伸びた枝の先に実をつけるという珍しい特徴があり、高く放り上げるとくるくると回りながら落ちてきます。
菩提樹と言えばお釈迦様がその木の下で悟りを開いたという言い伝えがありますが、それはインド原産のクワ科の菩提樹で、日本で見られる菩提樹は中国産のシナノキ科です。インドの菩提樹は耐寒性が弱く日本の気候には合わないため、その代用としてシナノキ科の菩提樹がよく植えられているのだそうです。
石橋供養塔
これは行程表に組み込まれてはいませんでしたが、羽黒神社から薬師堂へ行く途中にあるのでおまけのガイドです。
新狭山南口交差点の信号の傍にある小さな小さなお地蔵さまです。写真に見える白いガードレールは久保川の三ツ木堀に架かる橋です。石橋供養塔ということは、もとからこの近くにあったのでしょうか。
赤い前垂れで隠れていますが、向かって右側には「石橋供養」、左側には「寛延3年 (1750) 」と刻まれています。
東三ツ木の薬師堂
お堂内の厨子に納められている「木造薬師三尊像並びに十二神将」は狭山市指定の有形文化財です。その薬師如来は、東三ツ木の開祖金子国重の守護仏で「東方の薬師さま」とも呼ばれています。正慶年間 (1332~1334) に執権北条高時の配下として新田氏との戦いに出陣して敗れ、没落して入間郡金子領三ツ木村 (入間市西三ツ木) に居住していた金子国重が、薬師如来の「三ツ木から東方の地に居を移せ」というお告げに従って移住し、お堂に薬師如来を祀り開拓したこの地を故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けたという言い伝えがあり、「東方薬師」の名は、西三ツ木村より東方のこの地に薬師如来像を移したことに由来すると言われています。
東三ツ木原古戦場跡
金子国重が移り住んだ東三ツ木は14世紀から16世紀にかけての長い間、激しい戦いが繰り広げられた場所でもありました。
三ツ木原古戦場跡は川越狭山工業団地の南西隅に「三ツ木公園」として残っています。
元弘3年 (1333) の新田義貞と北条高時軍の戦い、永享12年 (1440) 上杉顕定が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦い、天文6年 (1537) 川越城主上杉朝定と北条氏綱の戦い、天文15年 (1546)上杉朝定・憲政連合軍と 北条氏康との戦いなど数々の戦があったことが、三ツ木公園内にある「三ツ木原古戦場の碑」に刻まれています。
以上で本日の予定終了です。お疲れさまでした。
最後の挨拶の中で新狭山公民館職員の方から、来春にでもまた一緒に歩きましょうという提案がありました。
皆さんとまた散策の楽しさを共有できましたら幸いです。ありがとうございました。