私は子供の頃、姿無き声の教えを聞いていました。だが、その教えは12~13歳ぐらいの頃に途絶えました。
一部の霊能者の方から、貴方は何時になられたら世に出られるのですかと聞かれるのですが、私は子供の時、そなたが力を持つのは最後の最後の時である。その時までは、そなたには力は与えないと言われています。
今日までは、少しでも神力を発揮して少しの予言と過去を言い当てて、少々の病気治しが出来ると、人は押すな押すなとやって来られます。時にはそこから宗教が起きて来ました。それはこれまでの神の御代と呼ばれる人達や霊能者の道でした。私にはその道は歩ませぬです。
死ぬ前と言われても私も困ってしまいました。死ぬ前の者が神の力を頂いてどうなるのか?。さっぱり解らないのが実状です。だが、私もだんだんと年老いて来て、今では何の神力も発揮することなく、あの世に旅立つのかも知れないと思っています。神力を持っていると、神々や霊能者と呼ばれる人には解る様ですが、神力を持っていないから隠れていられることも確かですが。
そんなことで、私が子供の頃に受けていた姿無き声の教えを書いてみたいと思います。今やスピ全盛で、一人一人が創造神で宇宙だから、何をやってもよい。好き勝手でいいのですと説いて来る人が後を絶ちません。創造神などと呼ばれる神など存在していないと思っているのが、今のスピ系の多くの方達なのです。
本当に創造神は存在せず。一人一人が創造神で、宇宙で、好き勝手をしていればよいのかどうかは、何れ解るでしょう。だが、創造神と呼ばれる神が存在すると解った時はモウ遅いのです。自分が創造神ならば、一人で何でも創れるだろうと、その時には宇宙に放逐されかねません。
私は幼少の頃、そこに時計があれば、その時計を分解してどうなっているのだろうと解明しょうとしてました。その当時の時計とは歯車式です。常に何故?、が先に来るのです。
私が子供の頃に臨まれた声は言われました。時計には幾つもの歯車がある。大きな歯車もあれば小さな歯車もある。何かを動かすとは、自分一人では動かせるものでは無い。大きな歯車の役割を持つ者。小さな歯車の役割を持つ者。そうした歯車達が集まって噛み合い、それぞれが役割を果たすことで一つのことを為す。物事とは、そういうものぞ。
自分は大きな歯車だからと言ったところで、小さな歯車が無いと何も動けない。人はそれぞれに役割が違う。それは大きな歯車であり、小さな歯車かも知れない。しかし、どれ一つ欠けても動かせないことになる。自分は小さな歯車の役割しかないと何も卑下する必要は無い。役割である。自分が居なければ大きな歯車も動けないのだと、各々が自分に与えられた役割を果たす。そのことを理解することが大切なのである。
現代では、そうしたことを言ったとしたら、そうか。そうか。我が社では要らない歯車がゴロゴロ眠っている。他所で必要な歯車として働いてくれと、リストラ対象になってしまうかも知れません。
しかし、神の目から見ると、神が必要としない人間など居ないと言うことを言われたのでしょう。皆が歯車の一つだということです。
ある時は、こういうことを言われました。御輿に乗る者もあれば、その御輿を担ぐ人もある。その御輿を担ぐ人の草鞋を編む人もある。自分が御輿に担がれたからと言って、自分は偉いのでは無い。御輿を担ぐ人がいなければ、その御輿に乗るわけにもいかないであろう。御輿に載せて貰える意味を考えないといけない。
自分を担いでくれる人達。その担いでくれる人達を支えている人達。そうした多くの人達の支えがあってこそ、自分は御輿に乗せて貰えるのである。だすとれば、御輿に乗る者は自分を担いでくれている人。周囲から支えてくれる人。そうした人達に対してありがとうと感謝し、そこに対する心配りをしないと行けない。
御輿に乗る。世の上の人として立つ。それは担ぐ人があっての話し。御輿に乗る者がそこを間違えれば、世の中は悪くなる。
こうした教えは昔からある類のものと同じです。それはある意味、神が説いておられるからでしょう。そうした教えを否定して、我れ好しが最高だと説く者達。そして、そうした道徳の教えは古いと神を否定して行く。それに拍手する者達。それは同類なのです。今やそうした存在が人気を拍するのでしょう。
聖書では、神は、汝と共にあり。私達の魂の中には主の分魂が存在しています。
それを私はコトバの仕組みから「良心」神と説いています。
神が長年に渡って仕組んで来られたこと、それを理解することもなく。
何でも創れるのだ出来るのだと錯覚して進む道も自分が選んだ道。
モウ既に人類は主の神と共に道を進む者達と、主などは居ない。俺たち一人一人が創造神だ!と宣伝する者とその支持者達。
大本教は主は表舞台から退いておられたと説いたのです。主は元々存在しないと、退いていたのとでは意味が違うのです。退くは「復帰」があるのです。
旧約聖書の神も大本教が説いた神も「祟り」神。
祟りは「出て示す」。

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