桃から産まれたのは桃太郎ですが、魂から産まれたのは玉太郎でしょうか?。
下記の写真は京都鞍馬山の貴船神社から鞍馬山に入る料金所の屋根下に写ったオーブ写真なのですが、このオーブ写真に直接関係した話ではありません。今回の話のこんな玉という参考写真に過ぎません。この写真全体では3個の玉が写っています。その一つの部分写真です。この手は神霊の玉とされていますが、別にこの玉が誰なのか詮索する必要もありません。皆さんの魂も、色色はあっても、こうした玉なのですよと言うだけです。
神霊の玉ともなれば、中にはこのような小さな玉ではなくて超弩級の巨大な玉も存在しますが、写真としては一部に大型のもので秘写真としてありますが、正神界とは呼べないものかも知れません。

とある夜、私が就寝しようと布団にもぐると、こうした白い玉が見えて来ました。???と見ていると、その玉の中に人の様な顔が見えて来ます。?と見ていると、その玉の中から歌舞伎の世界と言うよりも「能」の連獅子の衣装で白頭の人が大きくなって出て来ました。そして、もう一つ玉が居たようで、そこからは赤頭の獅子が出て来て、やはり大きな姿となって、私の前で白頭と赤頭の連獅子の衣装で髪を振り回す能舞を始めたのです。舞が終わると、スッーと消えて行きました。
当時の私はこの連獅子の舞を見ていて、何の意味だろうといぶかりはしましたが、あまり気に留めておりませんでした。
獅子はライオンのことだと思う人もあれば、伝説上の動物だと思う人もあるわけです。日本における連獅子は、古来より【獅子は我が子を千尋の谷底へ落とし、自力で崖を登ってきた強い子獅子だけを我が子とする】という伝説の動物のことであって、ライオンは草原動物なので草原に千尋の谷はないのでライオンのことではないのです。
私が子供の頃に臨んだ声は、この【獅子は我が子を千尋の谷底へ落とし、自力で崖を登ってきた強い子獅子だけを我が子とする】という諺を教えてくれましたが、何の解説もされませんでした。この獅子は、教えの意味なのです。
はっきり言って、どなたも「獅子」の漢字を見ておられません。神はコトバで教えているがまったく理解されていないわけです。
獅子の獅は獣の「師」です。師(統帥)たる神を知りたくば、谷底から這い上がって来いと言うことなのです。
私は子供の当時の別の時に、【そなたを社会の底辺に置く。そこから学んで這い上って来なさい】と告げられています。下から這い上がるです。豊受の神様から、貴方に教えが出来る神など居ませんよと言われ、霊能者の方から、貴方に師はないとまで言われて、子供の時に聞かされたこの社会の仕組みが教師なりで、社会、コトバ、人々の心を学びとして来たわけです。
私に臨んだ声は、人類ではそなたが初めての者で有り、そなたを持って終わると告げられたましたが、コトバを見て神の解釈する道のことだったようです。しかし、まだその道は誰も歩んだことが無い道なので、まったく理解されない道だったようです。
神からこう言われました。ああ言われましたとやっていれば楽な道ですが、崖登りですから自力の道なのです。
何故に私がそのことをはっきりと打ち出すかと言いますと、このブログの中で【分かちの国】に言及しています。【分かちの国に通じる霊子(たまのこ)線・神の子宮http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=35】と、【霊界の絶壁を越えて渡る「分かちの国」http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=58】で書いていることなのですが、主の元に行くには「崖」ではなくて「涯を登る」があるのです。自分の生涯を賭けて、主の元に行く道だからです。
仏教用語として【彼岸】が説かれます。この「岸」は「崖」と同じことで、単なる川向こうの意味ではないのです。単に川向こうならば、渡し舟で行けばいいのです。まさにその「崖」を登るのは【悲願】なのです。皆さんはその登り方を知らないので「悲しき願い」だったわけです。その登り方は神の言うコトバを信じることにあるのです。
これまで説かれて来た天国とは「輪廻転生」を免れる世界ではないのです。それに対して「分かちの国」は、天主のお坐す国と言うことなのです。
この崖を登ったと言う方に何人か出会いましたので、その存在は間違いないでしょう。ただ、それはどの方も聞けば指導神(本守護神と関係する神)の付き添いでの登りです。それを知る人達は、不思議だ!。どうしてあんな方法で登れるのだと言われます。その方法を使わないで登れば、墜落の可能性があるのです。否、不可能です。
通常は、誰も登れない。不可能だの決めつけから崖(岸)登ろうとしないのです。自己の概念で登れないと決めているからです。不自由想念が邪魔をするのです。だが、指導神のコトバに素直に従っている方は登っておられるのです。
その世界は金銭で買うことは不可能です。誰かを教祖と拝めば連れて行って貰える世界ではありません。主と呼ばれる神の存在を認識するのが一番大切なのです。そうすれば各々の魂の本守護神たる神が案内してくれるのです。
私は子供の頃、変な妄想の中に居ました。それはエジプトのピラミッドの前に坐るスフィンクスは「獅子」のことだという想いです。私は終わりの時、あの石像が立ち上がるという妄想の中にありました。今から思うと、石像だから無理な話です。だが、それは連獅子の意味だったのです。日本の神社では社の前に獅子が飾ってありますね。だが、その獅子がスフィンクスと同じ意味の事だとは頭の中の知恵では結びつかなかったわけです。
父なる神を求めて必死に崖を上がる子獅子達(神の子達)。
神を求めざる者に神は合間見られず。
大本教霊界物語に三途川でなくて、神一筋の少途川が記載されますが、神に対する想いの強い人達が行く道なのかも知れません。神に恋する。神に惚れる。神が好きになるです。
それを神を惚れまいらせそうろうと言うのです。
神様に何かして貰おうではなくて、神が好きだから、神の為に何かをする。神に尽くすなのです。
現世御利益信仰は神様に何かをして貰おうで神を敬うことで、百八十度の発想が違うのです。
私達は死ねば霊界に渡ります。その霊界での自分の姿とは、この世に生きた当時の姿の霊界用の服を纏っています。それも霊界の段を進むに連れて脱がないといけないのです。それによって、高次元の自分の霊体が出て来ます。その姿形は、この世に生きていた自分とは別の姿なのです。
神は光だ!と言われている光の存在とは、高次元の自分であることがあるのです。ですから光に帰るという意味は、一面では正しくても、それをもって創造神と言うのではないのです。
人は【意識】を持つが故に、生きる(息留)を知るのです。ですから、霊界は【想いの世界】と説かれて来たのです。その想いが清い者達は清い者達が集まる世界を創り、澄みきった世界だから天国とも呼ばれ、その想いが欲に垢まみれであれば、欲に垢まみれの者達が集まって地獄と呼ばれる様な世界を創って来たのです。全ては自分の想念が原因であり、意識・想念の問題なのです。
そうした意識・想念が集まった塊を【玉思惟】と言うのです。自己の玉を磨きなさいとくどいほど説かれて来たにも関わらず、最近のスピの遊んで入ればいいのですよと説く者達の教えに狂っていれば、そりゃ玉思惟(魂)は腐ります。
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