私は大本教神諭予告九つ花に咲く一輪の言霊の経綸から、人に内在する良心神を紐解いて「神言葉」として、大本教発祥の綾部で全戸配布で10回に渡りチラシを発行しましたが、「ス」の神論絶対の中では「ラ」神論から導き出される「人に内在する良心神」と言うものは解りにくい教えだとは言えました。
パーソナルコンピューターが広まって来て、私のホームページ神言会で「良心」神を出して、ヤフーの啓示版東洋哲学の輪廻転生の板で論陣を張り出した頃から、人に内在する良心神が少しずつ理解されて来る様にはなりました。
しかし、それだけでは単に人に内在する良心神という狭い概念で縛られてしまいまして、万物の創造神と呼ばれる存在の神が見えて来なくなります。私達は魂を持っており、その魂は輪廻転生の過程を経ています。その「魂」の字は鬼が云うであり、鬼とはウシトラでも「牛虎(牛頭虎パンツ)」で表現されるのですが、仏教で「牛頭天王」とも表現されている存在を悪魔だとか魔神とかで説いている方達もあったりして、それが万物の創造神のことだという概念が涌いて来なくなるのです。それこそ「節分の炒り豆で鬼は外」が止まないわけです。
そうなりますと、聖書で説かれている神、仏教の教え、日本神道と信じる宗教は違っていても【万教同根】が解って来なくなります。すなわち、魂の中の主の分魂。日本神道では「直霊」と呼んでいますが、内在神だ内在神だと言っているだけで、万物を創って来られた神々の存在が解らなくなるわけです。そこには自然と呼ばれる働きを司る神々に対する感謝の気持ちも薄れてしまいます。火水(かみ)の働きです。
私達が持っている魂の中で、直霊と呼ばれる天帝の分魂とは僅かな量です。その量では、宇宙を創造出来ないのです。私達は自己の魂の中に天帝たる神から僅かな分魂を貰っていることで、人は神の子・神の宮とはなりますが神その物ではないのです。それは大本教の出口王仁三郎聖師が私達の魂が持っている分量が柄杓の水一杯だとすれば、天帝の分量は地球の全体の海の量だと述べておられるようなものなのです。
そうした違いを知ると言うことは、神は私達を区別するのか!。差別するのかと!。喚いていることではないのです。自分が「いと小さきもの」と知ることなのです。謙虚に自分を省みて悔い改めることなのです。
自分の良心神だけを磨いていれば事済む話ではありません。良心神が天帝の分魂であるとするならば、その天帝たる神の存在を認識しないといけないのです。そして八方向の「世根」としての働きをしなければならないのです。
聖書において、「ダビデの若枝」が説かれています。このタビデの若枝とは、そこに一本の大木があります。その大木の枝葉には無数の花が咲いています。枝葉に咲く花とは、世に出ておられる神々のことになります。人々はその枝葉に咲く神達を見ておられるけれども、根元神を見ておられないのです。
その根元付近でその大木が切り倒されたとすれば、その根元から若枝が芽を出して来ます。しかし根元は残っていますので、一気に成長して行くのです。そして、それも大きな大木となるでしょう。何故ならば根元は残っているからです。
これは、聖書では神は六日でこの世界を創られた。七日目を安息日として定められたと説きますが、今の世は「七光」の世と言いますが、次は「八光」の世となるのです。天主交代が起きることなのです。ですから、始めにして終わりの神が出て、次の天主候補にその座が引き継がれるなのです。そして永遠の世が始まるとされるわけです。
神は光だと説いておられる方達がありますが、今の世の光は七光であって八光ではないのです。ここに【天の岩戸開け】が盛んに説かれているのであって、天の岩戸の中の光とは私達が見ている光の世界のことではないのです。
これは天使と称する方の中での噂話で絶対的な話ではないと思いますが、今日までの天主が交代されて、次期天主となるべき存在の魂は既存の天使達の中からは選ばれずに、現在は人としての肉体を纏って修業を積んでいる人間の中から選ばれる。ただ、その候補者は一人ではなくて複数形で、その候補者の中で一番辛苦を味わって魂を磨いた候補たるた存在が天主の座に就かれるです。世を治める為に人の苦しみ悲しみを体験することです。
つまり、それがダビデの若枝と称される存在のことらしいのですが、候補者は一人ではなく複数形なので、その存在に関してはよく解らないわけです。
若い男性だと言う方もあり、話は錯綜しているのです。
聖書とか仏典とか大本教が出した神諭並びに霊界物語は、個別の宗教の教えの話ではなくて、同根の存在が出しておられるのです。
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