日本の神を祭っておられる方ですと大祓詞(中臣祓詞)を唱えられると思います。この中に高山の伊褒理(いほり)短山(ひきやま)の伊褒理を掻分(かきわ)けてとあります。祝詞本によっては短山(ひきやま)が「低山」となっているのもありますが、辞書を調べても「伊褒理」の意味が存在していません。試しにネットで検索しても「伊褒理」の解説が存在していません。
この「伊褒理」の「褒」は褒美の「褒」でして、悪事にむくいるには「報」で、善行にむくいるには「褒」なのです。
面白いことに旧大祓詞を見ますと「伊褒理」ではなくて「伊穂理」なのです。掻き分けるなので「穂」かも知れませ。いずれにしても、神の言うことをよく聞けば罪はありませんよという意味です。信心が大切になります。
私が霊界に関わって不思議に思ったことは、その人がいくら善人でも、神を信じていない人には本当の天国門が開かないということなのです。さりとて、神を信じていないから地獄ではありません。善行で地獄など落ちようがないからです。中有と呼ばれる世界です。
この中有界という呼び名は、霊能者によって多少呼び方や位置づけが違うかと思います。言うなれば天国界でもなければ地獄界でもない中間帯に位置する世界で輪廻転生を一番起こしている世界と言えます。
仏教で日本で神様と呼ばれている存在も輪廻転生は免れないで、如来の下位で菩薩よりも上だと「大菩薩」等の称号が贈られています。それは仏界から言えば神界は仏界の下だの位置づけからです。確かに、神社等に鎮座されている御神霊は、御神霊と呼ばれておられていても輪廻転生から免れていない存在であることは事実なのです。だが、それは仏をもって神が下ではないのです。
神と呼称するのは万物の創造神から、祠に祭られているような御神霊までピンキリだからです。神と呼ばれる段階に入った時、輪廻転生で人の世に出て来ることはあったとしても、神の世界での寿命は長いわけです。神の世界(霊界)の位が高くなればなるほど、輪廻転生の数は減ることになります。
さて、高山という意味は高い山の意味だと解ります。短山とか低山とは小さな山の意味だと解ります。そこにある違いは何でしょうか?。
霊的世界では面白いことが解ります。汚れの少ない霊は高い山に上がれますが、魂が磨かれていない霊は高い山には登れずに低い山なのです。高い所に祭られている御神霊のところに伺うにも、汚れた霊では行けず、その山に上がる人に乗っかって上がって行く現象が見られることです。霊媒質の方だと解ると思います。
神の高山とは、多くの霊能者の方が日本一の高い山である「富士山」のことだと言われます。見た目はそうです。この富士山とは「不尽山」と呼ばれていたのですが、「命が尽きない山」の意味で、「不死山」でもあるのです。神の「高山」とは、「命が尽きない山」の意味なのです。だから最後は「高山」に逃げなさいなのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は「みの終わりの国の中から現れる誠の女子」を予言されています。美濃尾張の国から高山に向かう国道は「41」号線であり、モーゼやイエスの仕組みを見ても解る様に、「41」は人に内在する「良心」神。その高山に登ることは「命が尽きない不死山」に進むことなのです。だが、その山は高いから登るのが容易ではないのです。魂を磨く努力を必要とするのです。
私達の魂は不滅とは言いますが、実際にはその魂は油断をすれば腐ったり捻れたりします。そうしますと、もう輪廻転生の枠組みからは離れます。そうした魂でも神に対する信仰心があれば、神の温情としての救いがあったのです。そうしたことが神の「慈悲」と呼ばれて来たわけです。魂を甦らせる閻魔大王の「来世門」とも言われて来たわけです。
では、悪神は魂が腐ったり潰れていないのかとなりますと、悪神とは魂の汚れから発生することで、魂が腐ったり潰れているのではないのです。魂を腐らせたり潰す最大の要因は「我れよし・自分勝手」なのです。織田信長という方は魔界の存在と言う方が多いようですが、では、信長無くして戦乱の世が治まったかどうかです。我れよし・自己勝手は「我楽多(ガラクタ)」と言いますが、遊んでばかりで自分の魂を磨かないことから腐ったり潰れたりするのです。
「41」号線の「高山」は「不死山」の意味であることは解るとして、では短山・低山はどこかとなります。これは「41」号線の終点の富(十三)山なのです。良心があっても神の「高山」に登れなかった人は、神通じる川である「神通川」を渡って、富山という短山・低山に逃げなさいなのです。神を通じ(神通)ることによって、最後に逃げ込むことなのです。
この富山に秘められた意味は、十三(トミ)で表現された素戔嗚尊様ではあるのですが、素(ス)直に主の神の存在を信じることで、主の働きによって新しい世に救われることなのです。また、主に通じている御神霊を拝して行くことで、その道は進めるわけです。
しかしながら、スピリチュアルを標榜している方達を見た時に解る様に、主の神を言われる方は希です。ほとんどの方がその存在を無視しておられるでしょう。一人一人が創造神で、宇宙を統括する神の存在を認められませんね。それは霊的世界においても主の存在を無視している勢力が非常に強いと言うことなのです。
チャネラーと称している人達も全て霊懸かりの者です。だからと言って、そのチャネラーに懸かっている霊が主の神に従う勢力でもないわけです。それが主の神は御引退状態と言われる由縁なのです。主は存在されていても、出られない状態に置かれていたということなのです。
始めにして終わりの神なので、「身の終わり(美濃尾張)」として、言葉の仕組みが組み立ててあるわけです。
もし、神の高山を意味する山が現実の「富士山」という山であるならば、どうしてその富士山に最後の時に全人類が登るなど出来るでしょうか?。神の高山は魂の中の「良心」神であり、神の短山・底山(ひきやま)は素直な心で主の神を信じることです。その高山と短山・底山であるならば全人類が登ることが出来る山と言えるのです。

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