私は大本教神典を読んでいて、どうしても解らないところがありました。それは、天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しいとあります。
昔のことですが、私の元に元伊勢の一つ、現在は福知山市大江町の元伊勢から参られたしとテレパシーが来て、車で30分程の距離なので慌てて参拝したところ、上がり口で麻呂子親王霊だと思うのですが迎えに来ておられて、麻呂子親王霊と何を話したかあまり記憶していませんが、参道を歩いて本殿に伺ったところ、誰も出て来られない。
人を呼んでおいて、おかしいと天の岩戸神社に伺うと、何体もの御神霊が出て来られて、ここの天の岩戸が開いたらどうなるかと聞かれます。すると、私はそんなものは開いても何の意味も無いと言い切ってしまいました。自分で、あれ?。自分は何を言っているのだです。
大本教が言ったのは「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」と、「一輪の言霊の秘密」です。同一の言霊を言っているのだろうか?。大本教神諭が予告した「九つ花」を紐解くと「ラ」の言霊が出て来ます。これは「経綸」です。天の岩戸を開いたならば、太陽神の意味である「ラ」が出せます。これは、天の岩戸を開けることにつながります。
日本神話におきます天の岩戸と呼ばれる場所は「日向の高千穂」と「信州の戸隠」が有名です。大江にも元伊勢がある様に、その他にもあります。特に伊勢の伊勢神宮と伊雑宮を結ぶ伊勢道路の脇にある天の岩戸と呼ばれる場所に行ったら、こりゃなんじゃ!。となります。そうした場所に磁場であったりすることはあったとしても、そこに太陽神が隠れました等は、いくら神話でも話がおかしくなります。
前回のブログで「ん」の元となる漢字が「无」であることを書きました。
大本教からは「いろは歌」が出されました。この「いろは歌」の並びから、著書「キリストは日本で死んでいる」で知られる「山根キク」さんという方が、ある言葉を見つけられました。
それは「咎なくて死す」です。では、その「いろは歌」を出します。大本教では女子の教祖で七代続くとしましたが、七と七で折(織)ってしまうのです。その一番右端に来る並びです。

「山根キクさ」んは、これを「咎なくて死す」として世に言われたのです。私はこれは間違いで、解かなくて死すと解釈していましたが、「无」の漢字で「戸がなくて死す」かと解りました。それは「ならず者」のに振られている漢字が、「破落戸」だからです。戸が無ければ天の岩戸が開けられた時、その光を閉じる戸が存在しなくなるからです。
私は天の岩戸に隠されたとする光の世界を見た時、頭を抱えてしまいました。天の岩戸を開けられて、その光の中で悠然として居ることが出来るなど、お釈迦様ぐらいしか居られない。そのお釈迦様の悟りは何だろう?。
一般的にお釈迦様の悟りは「慈悲」とされています。慈悲だとか、愛で通過出来る光の世界ではないのです。だとすれば、お釈迦様は慈悲だと悟られたのではない。お釈迦様は別のことを悟られたはずだ。私はお釈迦様が何を悟られたのか?。その模索を続けたのです。
お釈迦様の亡き後は、お釈迦様の悟りを知る存在は「みろく」様とされています。大本教から「みろく」神が出されました。そこに来たのは「ス」の神論です。それではお釈迦様の悟りに結びつきません。私は大本教神諭予告「九つ花」で、369(みろく)の仕組みから「ラ」神論に入りました。だが、「ラ」神論だけでは良心神には結びつかないのです。
私は昭和五十五年、目の前を真っ暗闇にされて、地底の底から湧き上がって来る様な恐ろしい声が臨みました。それで一人の女子と出会いました。その女子の名は「良子」。その女子は大阪の「十三(じゅうそう)」に消えました。十三で消えた良。私は首を捻っていました。
「十三(ス)」に消えた良子の謎が、良心神を紐解かせる原点となったのです。そして、その女子は「アン」とも名乗っていましたが、「ン」には気付きませんでした。その当時は「ア」から「良(ラ)に行って、「ン」で結ぶなど解らなかったのです。そして、十三の「ス」神論で「ラ」が消えていたわけです。
曹洞宗の機関誌で、お釈迦様の悟りが「慈悲」でなく、人に内在する良心神であったと解った時は小躍りしました。これで、天の岩戸が開かれたとしても、各自の良心神が育成出来れば光を通すことが出来るからです。
スピ系の方達は神は光だの一辺倒です。しかし、天の岩戸と呼ばれる世界を見た時、お釈迦様ほどの力量も無い人達が、まるで自分は創造神だの感覚でおられますが、たぶんその光に耐えることなど出来ないでしょう。
その為には、大本教神典が予告する「天の岩戸を開ける役」と「天の岩戸を閉める役」の二種類いるのです。そうでなければ、「戸が無くて死す」の状態を起こしてしまうのです。
言葉の仕組みの論理としては、天の岩戸を開ける「ラ」は、それほど難しくはありませんね。が、天の岩戸を閉める「ン」は難しいですね。気がつかないものです。
私が子供の頃に臨まれた声は、私は私であり。旧約聖書の神と名乗られました。この日本は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国であると。私は別に何の力も与えられた者ではありませんから、ただただ検証だけを続けて来ました。その結果、この国に満ちあふれているのは「言葉の仕組み」だったわけです。
私はこうした言葉の仕組みを誰がしたのだろうと考えます。明らかに作為されているからです。自然に成り立ったものではないことぐらい解ります。世に自分ほど偉い者は居ない式の霊能者の方はゴロゴロおられます。そうした方達が言われる〇〇大神様に通して貰っても、言葉の仕組みをまるで理解されておられません。
神々も、言葉の仕組みをいくら説いても人は寄っては来ない。人が寄って来るのは御利益だ。御利益を与えると言えば、我れも我れもと押しかけて来る。人は良心神など言えば、そんな者は自分に厳しいだけの鬼だと毛嫌いをする。そう言われたいのだろうと思います。
それは重々解るのですが、もしも天の岩戸が開いたならば、その光で七転八倒するのは魂を汚している人達なのです。それこそ、光を禦(ふせ)ぐ戸が無くて、「戸が無くて死す」になってしまうのです。
大本教が予告した、「天の岩戸を開ける役」と「天の岩戸を閉める役」は、その型を演じる人物もあるのだろうと推察はしますが、「天の岩戸を閉める役」が見つからないと、「天の岩戸を開ける役」も動けないことになります。
まだ、現世御利益の神に向かって走り続けるのか?。新しい夜明けに向かって進むのか?。それを決めるのは一人一人なのです。

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