スピ系の方の中には、何かと言えば光だ!光だ!で、「コトバ」など必要無いと言う方達がおられます。闇と光の二元論に陥ってしまって、事の本質を見失っておられる方達が多いような気がしてなりません。
闇の字を見ますと、門から音が出るなのです。では、その音とは何でしょう?。音を分解すれば「日立」となります。すなわち、日(火)が立つのです。私の2番目の師匠は言霊師でしたが、その言霊で「ヒーヒーヒー」と発せられると、私の体に火が付いたようになって、熱い、熱いとなって思わず衣服を脱いだことがあります。「ヒ」の言霊たる音で火が生じるのです。
この火の立ったものを「光」と呼ぶだけなのです。すなわち、闇無くして光は無いのです。光は照らしなのです。それを天が遍(あまね)く照らすことを「天照らす」と言うのです。それを良心と取るのか、愛と取るかで論理が変わって来ます。
良心の中には「愛」は存在します。良心を持っていて、愛が無い者など居ないからです。しかし「愛」はあっても、良心の無い人達は存在して来るのです。この違いが解らないようでは、話にもなりません。愛には自己愛があり、「欲」も自己愛なのです。悪魔とて「愛」はあるのです。愛を説く者が正しいではないのです。
私は人に内在する良心神を説いていますが、この論理は大本教神諭予告の「九つ花」にあります。この九つ花の解読そのものは、私は違う角度のものを見せられて解きましたが、先駆者があります。
大本教在籍時には出口直開祖派と言われ、反出口王仁三郎派と言われた後の神道天行居(しんどうてんこうきょ)開祖・友清歓真(ともきよ よしさね)によって世に発表されましたが、真ん中の「41」は「ラ」で、天之御中主様とする論です。
これは古来から伝わる九の数理盤で、龍宮の音秘めであり、西遊記という物語の中では、孫悟空と魔王との間で三蔵法師がお釈迦様の悟りを得る為の道の問題で有り、悟空はその為に観音様の元に飛ぶ話でもあるのです。お釈迦様の悟りに繋がっているところがミソなのです。
空を悟る「悟空」なのですが、これに言霊を当てますと「ラ」神論になります。その「ラ」に漢字を振りますと「良」となるのです。この記号が大本教出口王仁三郎聖師の拇印にもあったとされる「〇の中に小さな黒点」なのですが、これは「良」の漢字の源字であり、「米」を量る意味であり、宇宙記号としては太陽記号なのです。ですから、西洋では太陽神・創造神を「ラ・Ra」とも言うのです。
その中心の「41」に、「ラ」を当てることを神道天行居(しんどうてんこうきょ)開祖・友清歓真(ともきよ よしさね)さんに教えた神があるのです。出口王仁三郎聖師の「ス」の神論に対して、そうではないと教えてしまわれた神があったということなのです。
そして、この仕組みはお釈迦様の悟りなので、当然にみろく(369)でなければなりません。そして、三十三観世音の仕組みを持ちます。その図はこのプログのhttp://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=52に記してます。
こうしたことは、神は光だ!光だ!と言っているだけでは、何も解らないわけです。神は「コトバ」なりで、コトバを見ることで解るのです。
スピ系では「コトバ」と示された時、そんなものは必要がない。宇宙は全て「インスピレーション」で語るのた。そうした主張ばかりです。
スピを言われる方ならば、霊との会話はインスピレーションで語ると言われる事はもっもです。だが、そこにある一点を忘れておられます。それは、コトバの世界は【自動翻訳】になっていることです。異国の人の霊との会話も全て「日本語」で聞けるはずなのです。その間に翻訳する機械がありましたか?。通訳がいましたか?。声の質はインスピレーションでも解るはずです。声に質があるということは、それはもうコトバなのです。そこに【言】とは何か?。スピを言われる方は、そうしたことに対する意識がまるで抜け落ちています。
コトバとは、【個と場】でもあるのです。私達は【個】であって、創造神そのものではないのです。私達の魂の中に在る〇の中の黒点の部分が創造神からの直霊(分魂)なのです。それを持って、自分達は創造神だ!。宇宙意識だ!。光だ!。そんな子供遊びは止めないといけないのです。
何度も言いますが、そこまで言うのならば、貴方の意識で太陽や地球や月を創ってから言うべき事です。そんな力はどこにもないのです。それでは天使ごっこと言う遊びなのです。もうスピ遊びから抜けるべきなのです。
神の世界のエンジェルとは、最初は純粋な幼児と同じです。だが、泥をくぐった天使でないと、純粋だけの天使では使い者にならないのです。人としての苦しみ悲しみ辛さの泥を体験して、悪を知って善となり、真の天使と成長するからです。どうして幼児達は泥遊びをしたがるのか?。泥にまみれてエンジェルも成長するのです。
何故に天使であった存在も、この世に降ろされたのか?。天使と言えども、堕天使も存在します。それは愛で有り欲望からです。それは自分には羽根が有るとか無いの問題ではないのです。例え根は泥の中な置かれたとしても、水面にきれいな花を咲かせます。それがすなわち「南無妙法蓮華経」となります。南無妙法蓮華経とお題目を唱えることではなくて、根は泥の中でも見事な華を咲かせて見せますの心なのです。
主は、聖書と神道と仏教を通じて教えを下さっています。宗教団体に所属する云々ではなくて、どの宗教に所属しなくても神の教えは学べるのです。だが、感性だ!。感性だ!。では、どこまで学べたのでしょうか?。結局は、感性だけでは完成しないと解って来て、学びに入るのは遠回りなのです。宇宙からのテレパシーだと思っていても、黒龍神と呼ばれる存在だったがあるのです。それは宇宙からとは言えないのです。
私達は「個」であるので、それを活かせる「場」が必要なのです。私達は個を活かせる為に、地球と言う「場」。日本と言う「場」に存在して居るのです。その社会を活かす為に【個と場】は必要なのです。
全ての「個」が消滅するならばいざ知らず、「個」の存在がある限り、その為の「場」は創られて、【個と場】は永遠に続くのです。
自分達は光なのだ!。そんな光は「天の岩戸」と呼ばれる世界に秘められている光とは比べようもないのです。もしもその光の世界を垣間見て来たならば、それに対処するのは魂を磨くより道が無いと解るのです。その光は、魂に毛物が発生していれば、とんでもないことになるのです。
大本教神典は、天の岩戸を開ける役に閉める役。閉める役が難しいと、その光の世界の恐ろしさを説いているのです。その光の中では、自分の魂に汚れがあると七転八倒で転げ回らなくてならなくなるのです。私はその光の世界を垣間見て、どうすればいいのかと思案を続けて「良心神」だと解ったのです。
私達が見ている太陽の「光」ではないのです。この「光」のことは法華経ではありませんが、仏教系の教えにも存在しています。日本各地にある天の岩戸の話ではないのです。自己の良心を無くせば、破落戸者(ならずもの)となって、光を防ぎきれませんよ。
どうして「ならず者」に「破落戸者」の漢字が振られているのか?。それが神はコトバなりきの教えの為なのです。その為に、神は天の岩戸開けという神話まで創られてきたのです。

にほんブログ村この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。