人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

魂を磨く里の行、他を救う世根(米)は身禄(369)なり

私は私の身の上に起きた摩訶不思議な霊体験から、一人の霊能者の方の元を訪れました。その霊能者の方は、私に貴方にはお不動様がついておられますので修業をしなさいと告げられたのです。そこで終わっていれば、私は修験道の道に行ったのかも知れません。
その時、私の家系の御先祖霊さんが出て来られて、自分(御先祖霊)が断食や瀧行等の苦行を積んで来ましたので、この者にそうした苦行をさせる必要はありませんとその霊能者の方に告げられたのです。それで、その霊能者の方も納得されたのですが、私に言われます。
貴方には断食や瀧行が必要無いとしても、何事も体験です。体験として瀧行だけはされた方がいいかと思います。自分はもう歳なので御指導が出来ません。誰か指導が出来る方を探されて、瀧行を受けてみて下さいと言われます。確かに何も体験せずに言うといことは、知らずに物を言ってしまうことになります。
次に訪ねた某地方の豊受様を奉る神社で神主的なことをされていた女性霊能者の元に、私の先祖霊と称する霊があの者(私)を預かって下さいと頼んだことで、私はそこで面倒を見てもらうことになりました。この女性霊能者の方は、当時の女性霊能者ではトップクラスと言われており、男性をまじえても日本で10本指に入ると言われていたほどの実力霊能者で豊受様の御代をされていました。その前が四国の某霊場のお不動様の御代をされていたのですが、豊受様の御代として引き抜かれたのです。100日間断食を2回こなしておられました。これは男性でもおられないかも知れません。

最初、その師匠の元で伏見稲荷山で瀧行を受けた時、無意識で印を結んでいました。すると、師匠が貴方は法華教の行者の印を結んでおられましたと言われます。私にすれば、法華教と言われても解りません。後に判明したのは御先祖霊が法華行者として行を積まれたらしいです。
2回目の時、その師匠は伏見稲荷大社に用務があるので、清瀧と呼ばれる瀧場で一人で瀧を受けて来なさいと言います。私は九字一つ切れません。すると、その師匠は貴方に九字など必要ありません。貴方は瀧場の神様にお願いしますと言われたら、貴方のことは瀧場の神様が守られますと言われます。
そこで一人で瀧を受けると、水受けが苦しくて苦しくてなりません。思わずその水から逃げたのです。するとどうしたことか、瀧の水が私を追っかけて来るのです。バカな!。そんなことあり得ない!。物理学の理論では説明出来ません。
そのことを御本社から山に帰って来た師匠に話すと、豊受様に伺っていたのでしょうか?。あなたは山の行をされる方ではありません。あなたは【里の行】をされる方だそうです。瀧行は必要無いとのことです。前の霊能者の方と同じことを言われます。
私は山の行と里の行を聞かされて尋ねましたところ、山の行とは私(師匠)の様に瀧に打たれたり断食したり山を歩き回る荒行です。里の行とは社会の中で、人と人とを通じて揉まれていくことです。山の行は体力的には辛いですが、自分一人で他人との関係がありませんので、人としての逃げ場があります。しかし、里の行は人と人との関係なので精神的に逃げ場がなくなり、自殺に追い込まれたりします
山の行でいくら神通力を得たとしても、その力には限界があります。しかし、里の行には限界というものがありません。山の行より里の行の方が遙かに辛く、自分の魂を磨けます。それが里の修業だと豊受様は言われたわけです。
確かに、人と人の関係は逃げ場がないと、自殺まで追い込まれてしまいます。一方、神通力者となって法力を得たとしても、その人間性に問題がある方がいくらでもおられます。悪なる行者さんもいられます。お釈迦様が荒行を止められたのも、里行の大切さを理解されたからでしよう。

山で修行することが神につながる道ではないのです。この社会の底辺で、人と人との関係で苦しむ「里の行」こそ。魂を磨く修業なのです。しかし、いくら里の行として汗水を流したとしても、自己勝手、我れよしの行動をしている方の魂は捻れています。汗水を流したから、その人は正しい人とはならないのです。
あちらのスピリチュアル。こちらのスピリチュアルと大金を払って講習を受けることが魂の修業ではないのです。逆に蛇霊で商売している霊能者の方だとそこに行くことで蛇霊をつけられてしまうがあります。こうしたことは里の行だけでは解らず、山の行を積んだ人の方が理解しています。それは修行の中では蛇霊の存在を知るからです。
そうした意味では「里の行」と「山の行」の両方積めればいいのですが、誰しも自分の生活を考えると難しくなります。その場合は「里の行」を中心にすればいいのです。

この社会の底辺で汗水垂らして、人と人との関係の軋轢の中で自分を磨いて、正しい信仰をしている人が、本物の魂磨きをされているのです

私は掃除をしているオバチャンを低い人だと見ている様な人はダメだと言っています。霊界に帰れば、そのオバチャンが輝く程高い世界の神なのかも知れないのですよと説くのです。高い魂の持ち主ほど、この世では社会の底辺で暮らしていたりするのです。
そうした社会の底辺でコツコツ働いている人が表面的に信仰心の無い人に見えていても、信仰心が無いとは言えないのです。何故ならば、その人の魂は神社仏閣に祭られている御神霊よりも霊界では高い地位の魂であったりします。だとすれば、その魂が神社仏閣に祭られている御神霊を敬うとは限らないのです。まして現在の宗教界の有様は、信仰する気にならないわけです。ただ、氏神様には挨拶されていたりするのです。
人の魂の輪廻転生の中で、その魂とは今生の肉体だけでは解らないのです。その魂の本体はコップにある水だからです。ですから、肉体の行動だけを見ていて判断するのは禁物なのです。自分達はコップの中の水滴の一滴で、本体はコップの中にあるからです。このブログの「自分の魂のルーツ、コップ一杯の水とスポイトの一滴」参照。

私は「里」の行として、田の土で実る「米」の教えをしています。
他(田)を救い(鋤くい)て世根(米)となれ。
世には狸神や猫神が自分が創造神だと名乗っていますが、田で実る物の解釈が違っています。
これは身禄(369)の仕組みなのです。

そうしますと、自己の魂の汚れが消えて行き、魂の中の核が光を発した時、その光を通すことが出来る様になるのです。
いくら光だ光だと言っていたところで、自己の魂の核は良心神の太陽神「ラ」で説くことで解る様に、アマテラス大神の働きがあるのですから、自己の魂の中の光を隠していた天の岩戸を開けたならば、その光に自分の魂が苦しまなければならなくなるのです。

米を「ヨネ」と読むことぐらいは、理解しておいてください。
大本教の出口聖師が、喜(三郎)→鬼(三郎)→王仁(三郎) と名を変えられたように、言葉を転換させて知るのが神の仕組みです。
為に、こうした仕組みを日本に秘めるには三千年もの月日がかけられて来たのです。

369(みろく)の仕組みは、この前のプログにあります。


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