人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

体験経験を経てプラス思考で進む「あるがまま」

スピリチュアルだけでなく、一般的にプラス思考が言われます。だが、現実にプラス思考に持って行こうとしても、なかなか難しいと思います。

私は約30年ほど神霊の世界を垣間見て来ました。そこで見聞して来た中で、プラス思考が取れるようになりました。
一昨年とその前年、よりによって2回も自家用車をバックさせて電柱にぶつけてしまいました。車にバックモニターを装備しながら、頭から何も無いと思い込んでサイドミラーだけでバックしたら、予想外のところに2回とも電柱が立っていたのです。一回目の修理賃は60数万円。2回目は40万円ほど。車は自動車保険で修理出来ましたが、翌年から自動車保険料が大幅アップになってしまいました。普通なら自分に腹が立ちますね。
別に運転がへたではなかったのです。大型自動車免許を持っていますし、プロ用の普通二種免許も持っています。長い間、事故も起こしていません。でも、どうしてその時はそんな油断をしたのかは解りません。
でも、ありがとうございましたなのです。もし、ここで自分の自動車を破損させていなければ、自分は大事故に遭っていたかも知れない。その大事故を、事前にこうした形で処理して頂けたのだと思うわけです。大事故に出会って、大怪我をするよりも車が私の身代わりをしてくれたのだ。ありがたい。ありがたいです。私はそうした事物を見て来ているからです。
こうした自己過失による失敗は往往にあることです。そんな時でも、くよくよする人がありますが、良かったと思うことです。ただ、そうしたことで相手に被害を与えたような場合はきちんと償いをしなければなりません。その場合でも、これぐらいで済んだと思えば感謝となります。
つまり、感謝で行くことはプラス思考となるのです。くよくよすると、マイナス思考で感謝心が芽生えません。

私は神霊世界の修業をさせていただいている時、基本的に願い事はしませんでした。しかし、生きるか死ぬかの時は相談に行って、助けて貰いました。修業で命を落としそうになった時にも助けていただきました。明日は小豆島に参拝という前日、高い塀の上から落下。これは怪我で小豆島に行けないと思ったら、体が猫の様に半回転して足から着地で何の無我も無し。参って来いと神様が助けて下さった。ああ、ありがたやです。
私のホームページ「あなたの知らない伏見稲荷山」の白狐の霊界物語の中で、ひっくり返った三宝http://inariyama.com/byaltuko/page018.htmlに書いておりますが、信仰していることによって大難が中難に、中難が小難に、小難は消えるはあるのです。大難を消すではないので、信仰していても事故や病気には遇います。
人は、このことがなかなか解らないのです。自己の中にあるカルマによって起きるであろう事柄なども予測が出来ないわけです。だが、神霊段階では解っているのです。そうしたことが解って来てから、信仰することで自分にプラス思考が出て来たのです。心からの感謝心です。

どんな目に出逢っても、おかげさまでこれだけの被害で済んだのだです。こうした心根は「良寛和尚」の心根なのです。何の腹も立たなくなるのです。厭なことも流せるのです。生かされている自分が解って来るわけです。そこに「あるがまま」となります。

しかしながら、世に「あるがまま」を説いている方を見ますと、大きな錯覚の「あるがまま」を説いておられ様に見受けられます。錯覚した「あるがまま」を覚えると、自己本位になってしまうのです。明治25年に開教した大本教の出口なお開祖が、その信徒に「道の真ん中を歩くように」と教えると、その信徒達は往来をそこのけそこのけと道の真ん中を歩いて、開祖が嘆かれたと言われています。それと同じことを起こしてしまうのです。
まだ30代前半ぐらいまでの若い方に「あるがまま」を教えても、意味の理解には到達出来ないと思います。また、大衆に向けても理解は無理なのです。修業を積んで来た若い僧に老師が「あるがまま」を説いて、その若い僧が覚者的になって来た時に本来の「あるがまま」が解って来るのです。学ではなくて、長い体験や経験の積み重ねが「あるがまま」を理解させるのです。
それは物事に「欲」がある間は難しいのです。若い時は欲があってこそ前進出来るのであり、前進の為の欲は必要なのです。だが、ある程度の年月を経て枯れてくれば、地位、名誉、財。そうした物に囚われもなくなり、この世の諸行無常を見つめても常にプラス思考で考えられるようになり、諦観、達観と呼ばれる境地になった時、情に棹さすこともなく、飄飄と風に吹かれているが如く、風任せが「あるがまま」なのです。

信仰でこうした段階に進まれた方は、死後の世界で四次元と呼ばれるような世界ではなくて、五次元、六次元、七次元と呼ばれるような高い次元の世界にと向かわれて行くようです。私の大伯父が霊界でどこに行ったかを調べた時、大伯父が住んでいた神社の御祭神に尋ねたところ、自分には解らないほど高い世界に行かれたと言っていました。あの大伯父ならば、行っただろうと納得も出来ました。
私達がこの地球に出て来ている意味は、この地球は魂の修業場で有り、この世での修業しだいで、高次元の世界に進むことが可能となっているからです。この物質欲の世界において、悪しきことをする人達も居る世において、如何に執着心から離れることが出来るのか?。魂を浄め、心からの囚われを無くし、自在(束縛も支障も無く、心のまま。思いのまま)になることなのです。

スピリチュアルで、何でも自由なのです。思いのままなのですと言っているのは、道の真ん中を歩けと教えたら、そこのけ、そこのけで往来を歩くことだと思っている者と五十歩百歩なのです。同じコトバを発しても、受け手の能力で理解力が違うのです。そこには体験や経験で裏打ちされたものが要るのです。
この世では何かを為し得ようとすれば、地位や名誉や財が必要です。地位や名誉や財の欲が欲しくて働くことと、働くことが喜びで、その働きの結果とし地位や名誉や財が自然について来たとでは、結果的には同じに見えても、その目的とするところが違っているわけです。同じ物質欲の中であっても前者は地を這う蛇であり、後者は上昇する蛇とか昇華される蛇とか羽根ある蛇などと表現されてくるわけです。
五次元アセンションなどと言わずに、自己の魂を浄め、多くの人の為に役に立ち、人は創造神と呼ばれる神の子の信心があれば、六次元も七次元もの上の世界が開いて来ます。だからこそ、魂はこの世に人として出ることを希望したのです。それを忘れて堕落したのが今日の人々の姿と言えるでしょう。権利ばかりを主張して、義務を果たそうとしてないのです。

死ぬも生きるも神の手の内。カンナガラ。カンナガラ。

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