<大卒初任給>
1959年:10,200円
2025年:300,000円
単純レート換算で1959年時
の250のオートバイは現在
価格で約550万円相当。
100万円した自動車などは
3,000万円相当になる。
「1950年代は一般国民は自
家用車などには乗れず、富
豪しか自動車などには乗っ
ていなかった」とか言うと
信じない若い人が多いが、
戦後日本がどれほど貧しか
ったか知らないからだろう。
二輪も四輪も非常に高価な
ものだった。
オートバイに乗ったり車に
乗ったりするのは映画の中
だけの世界だった。
だから、戦後は「豊かなア
メリカ」に日本人は憧れ、
オートバイではハーレーこ
そが富の象徴、という鬱屈
した憧憬を抱いていた。
ハーレーに関しては日本人
は今でもその屈折した情念
を持っており、ハーレー志
向には確実にその精神背景
が見え隠れする。
だが真のアメリカ好きでも
二輪好きでもない。
ディーンが好んだ走りの王
者トライアンフなどは選ば
ないからだ。
つまり富への卑屈な憧憬と
してハーレーを嗜好する。
ハーレーがパーレーであった
ならハーレーを選ぶのではな
く、パーレーならばパーレー
を選ぶ。ハーレーではなく。
別段ハーレーだからと求める
のではなく、富の象徴として
モーターサイクルを求める。
ステイタスが好きなのであり、
バイクが好きなのではない。
本当にハーレーが好きなら、
世界グランプリで世界チャン
ピオンになったハーレーの
2ストマシンなどを嗜好して
もよさそうだが、そういう
歴史にさえ見向きもしない。
好きなのは二輪ではなく、
金持ちと擬勢を張る自分が
好きなだけだからだ。
それは「貧乏を憎むのでは
なく貧乏人を憎む」という
歪んだ根性と同列だ。
日本人のハーレー持ちのほぼ
全員がそれ。真にハーレーを
愛している者はごくごく一部
だ。これ事実。アメリカ人本
人たちがハーレーに乗るのと
はかなり様相が異なる。
卑屈な敗戦国民の進駐軍への
憧れの裏返しでハーレーを志
向するのが実体である日本人
が殆どだからだ。現実として。
トラやドカやノートンや国産
と同列としてハーレーを見よ
うとはしない。
家にプールがあるアメリカン
がグレイトだ、とする時代錯
誤の象徴としてハーレーは日
本人によって利用されている。
国産250が550万円の時代、ハ
ーレーに乗れるのは富豪しか
いなかった歴史を背景として。
今もその延長線上にハーレー
志向があるのは、日本人が敗
戦国民根性から脱していない
からだ。性根がポチのまたポ
チ。
芸能人、お笑い芸人が典型で、
金を持つと誰もがハーレー、
ハーレーと言う。「いつかは
田園調布に家を」と同じ感覚
で。
極めて回路が乏しく貧しい。
決して「豊か」ではない。
真のハーレーマンは数える程、
という現実は、欧州に比べて
日本の二輪文化の薄さを象徴
している。