今や我れも我れもの急増スピリチュアルではなく、以前のスピリチュアルでは、人の魂は「コップの水の中のスポイトの一滴分の水」で表現されて来ました。
その意味は、私達の魂はコップ一杯の水が本体の魂であるとするならば、そのコップの中からスポイトで取り出した水の一滴たる分量が、私達の体内に在る魂の分量だという説です。
日本古来の神道が魂論として「一霊四魂」という構造論を展開するならば、これは「魂の容量」論なのです。
私達の肉体に在る魂とは、成人であれば誰も大きさにさほどの違いがあるのではないのです。特別にあの人の魂は大きくて、あの人の魂は小さいは無いのです。人の魂は心臓の大きさと関係する為に肉体に収容の限界が在るのです。ただ、人は同じ様な大きさだとしても、そこに魂の質の違いはありますが、それは十人十色と言われるような「魂の色」の違いで性質・性格の違いです。磨かれた魂は美しく、汚れた魂は美しくないだけです。すなわち、水が汚れているか、いないかです。

問題は、このコップの水なのです。コップによっては僅かな水しか入っていないコップもあれば、大量の水に満たされているコップもあるのです。そして、そのコップ自体の容器が大きいものもあれば、小さなコップもあるのです。
この世では人としては平等の立場であっても、魂の世界に戻ればその本体たる魂が住む次元すら違って来るのです。この世には高次元の世界から降りて来ておられる魂の存在もありまして、現在生きておられる〇〇博士とか△△博士は七次元世界からの方だと言われています。この世を去って四次元という話しではないのです。
お釈迦様もイエスも弘法さんも日蓮さんもそうした高次元界の魂が人としてこの世に出られたのであって、この世を終えて帰られる世界とは、この世の平等世界とは意味が違うのです。両博士とも科学者で神を説かれる方です。
下記の図は私のホームページのものですが、神が人に試練として与える「苦労」はコップ(魂の本体)たる容器の大きさ、水の量にあるのです。
同じ人として産まれて来にも関わらず、自分はどうしてこんなに苦労ばかりをしなければいけないのか?。そうした疑問が湧く時があろうかと思います。それはカルマの昇華(消化)だけの問題ではないのです。
人の肉体に入る魂は同じ程度の大きさであっても、自分の本体たる魂が高次元界にあったりすれば、その本体たる魂が大きいからなのです。その苦労を世に出ている肉体が受けないと行けないわけです。どの魂本体から見ても、魂の容量に合った比率はほとんど等しいのです。が、容量の大きな魂から出た肉体にすれば、そうしたことが解らないので愚痴も出るわけです。また、本体の魂が大きい方は苦労を受け止めることも出来たりするものなのです。
古来より、魂が高い存在(大きなコップ)から出た分魂たる子供さんは、この世では苦労苦労の連続で見ていても可哀想だと言われていますが、魂の世界からすると平等論ではあるのです。

この世に肉体として出された本体の魂の一部がこの世で学んで来たことは、自分の本体たる魂に戻れば、この世での学びはその魂全体に共有されます。何故ならば、それはコップの水の中では自分だからです。
一部で神人合一が言われて来ました。その神とは自分の魂本体のことなのです。すなわち正守護神(霊)と呼ばれる存在です。自分の魂本体(コップの水)に帰ることが神人合一なのです。ですから、その正守護神(霊)として自分の前世が出て来ることがあります。否、前世と言うよりもコップの水の中にその時代に出た存在が在ると言う言い方が正しいのかも知れません。
本守護神、正守護神、副守護神の違いが解っていないと、理解しづらいことかも知れません。ただ、人によっては正守護神よりも本守護神の方が早く判明する方もあります。
ある方は本守護神としてイザナミ様があると判明して、判定した霊能者はそんな高い魂を本守護神に持つ人などあり得ないと絶句されたそうですが、違う霊能者はあり得ると別に驚きもされませんでした。その方の正守護神様が誰かと判明して、イザナミ様から繋がる神系ラインで、その正守護神たる方の和魂(にぎみたま)だったことが解ったのです。
一部では御先祖霊供養ばかり言っておられる人達がおられますが、家系御先祖霊さんは六代前以上になると輪廻転生で生まれ変わっておられる人が多く、その家系に繋がる霊脈を守っておられる神的な方が居られれば別ですが、守らなければならない特別の家筋はさほど多くはないはずです。
肉体の御縁たる御先祖霊さんの御供養も大切ですが、自分の魂の先祖と言うべきコップの水に戻ることは、それ以上に大切なのです。自己の本守護神・正守護神とは自分の魂のルーツなのです。私達は日本人です。どうして神国日本と呼ばれる地で生まれたのか?。そこには魂のルーツが深く関わるのです。
今の急増スピリチュアルでは、神は愛だから何をしても許されます。魂を磨くなど辛いだけですし、良心に従うなどは魂の重荷ですから、捨てなさいと説いている人達がますます増えて来ています。また、そうした説に飛びつく人が多いわけです。
仏教でもさんざ言われて来たことですが、自力信仰の修業は辛くて、他力信仰は楽なわけです。人は誰しも楽な道を辿りたいのです。それは文明という科学要素が発達すれば発達するほど、楽な道にと走ります。
人類は幾度か滅びたとも言われています。それは必ず文明が発達して便利な世になって、神(仏)に仕える者達までが神(仏)の存在を忘れた時だったと言われて来ています。形骸化した信仰の時です。
人はこの世で何をしてもいいのだ。好き勝手に生きる自由主義こそ正しい。実はこの問題は国常立尊様の御引退の要因になった問題とされます。どちらが邪神界と言う定義よりも、国常立尊様の規律が厳しかったことで神々の反乱が起きて、勝てば官軍。負ければ賊軍で、国常立尊様の天使長が総責任を取って落とされたことで、国常立尊様の腕や足となる天使達も追いやられた。で、手も足も出せない「ダルマ」だろうと揶揄されたとも言われるわけです。
神は愛だから何をしてもいいのだ。好き勝手でいいのだ。魂を磨くとか、良心に従うなどは止めなさいと説く急増スピリチュアルの人達は、何をしてもいい。好き勝手は自己の魂を汚すということを何も御存じないわけです。スポイトの一滴の水としてこの世に出て来ている魂が汚れた場合、本体であるコップの水はそのコップに戻ってくることを、本体が汚れてもよいという魂以外は拒否します。本体のコップに戻れば、そのコップ全体の水を薄くても汚すからです。それは、汚れた魂は所在する次元を落とさないと行けなくなるのです。
綺麗なコップの水ならば、モウあんな者は本体に帰って来なくてもよろしいとなります。で、元の神界に戻れなくなるのです。別にコップの中から出て行ったスポイトの一滴の水です。モウ帰って来なくても、それで本体の魂にさほど影響があるのではないのです。
神は愛で救うではなくて、自分が自分の本体の魂から見放されるだけのことなのです。
そうなれば、自己の魂の汚れが取れるまで神界や自己の魂の出身たる宇宙の星にも帰ることも出来なく、この地球で輪廻転生の道を歩むだけのことです。だが、次にこの世に出て来た時は、この地球上は経済破綻から力の強い者だけが生き残る獣達の世になっているかも知れません。そうなれば、もっと悲惨な社会で魂を汚さないは不可能になって来ます。
モウ誰が世界の指導者になろうとも、日本の首相になろうとも、改革に手を染めなければ立ち行きません。改革には血が流れる以上、それに対する不満のブーイングの嵐に遭うだけです。全ての人を現状のままで満足させる等は、この地球の限られた資源の中では物理的にも不可能で有り、皆が「分かち合う精神」にならない限り無理でしょう。
急増スピリチュアルでは一人一人が創造神だから、何でも創れるのだから何の問題も無いと言う方達もあるようです。確かに、一人一人が創造神ならば、そうでしょう。しかし、人は皆創造神ならば、その創造神全てにエゴがある以上、エゴとエゴがぶつかりますよ。そうなったならば、モウ収拾が取れなくなってしまいます。
どうしてこんなに道理も道筋も考えていないで、思考は捨てろ。感性に従えと言うスピリチュアルが蔓延っているのか?。それは終わりの時が来ているからでしょう。ニセメシア、ニセキリスト、ニセ仏陀の続出だけでなく、竹の子の様に乱造して来るスピリチュアル。私達はそこから、創造神様からいよいよだよと教えて貰っているのはないでしょうか。
聖書のマタイ伝24章35に、イエスの言葉として「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時はだれも知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱船にはいる日まで・・・・・彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」。
同24章42は、だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこれるのか、あなたがたはわからないからである」とありますが、その日が何時なのか誰も解らないのです。聖書のマタイ伝に従えば、何をしても主が愛で救ってくださる等の記述はなさそうです。急増スピリチュアルの人達は何かと天使名を使われますが、天の御使いも知らないと預言してあるようです。宇宙人と称する存在から何を聞かされているのでしょうか?。
ここを見ると、その人の子とはイエス自身ではないと解ります。そして、人々はその人の子に気がつかなかったとなります。たぶん、雲の上に乗らないと無理なのでしょうね。

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