スピ系の方は、何かと神は光だと言われます。私はそうした方達に、ヒカリとは「火借り」の意味で、根源の「火」が解らないと意味は無いと注意しています。
下記の写真を見てください。最初の一枚目は何の変哲も無い光景です。2枚目は色調も違っていて、光のゴーストが写っています。ほぼ同じ位置で撮影したものと解るでしょう。そして、その間にさほどの時間差はありません。
この撮影のカメラは一眼デジカメラの中級機で、携帯電話のカメラとか安いデジカメとは違って、カメラの素粒子による影響がさほど起きません。
私が何故に、こんな変哲も無い場所を写したかと言いますと、下に岩がゴロゴロしていますが、そこが磁場であると解ったからです。この岩がある下の平地に行者堂があり、蔵王権現が祭られています。そこは、江戸時代にその山の山頂に蔵王権現を祭れと夢のお告げがあって、行者堂が出来ているわけです。何故、ここに祭れとお告げが出たのか?。で、検証に行ってみたのです。その山頂です。その山頂部分だけ、何故か岩がゴロゴロしていて地元では岩根と言っています。
その磁場によって、写真で見ると光の変化が発生したわけです。
次に、単に山の中から太陽を写しただけの写真ですが、構図を見ていただければ2枚ともほぼ同じ位置だと解ると思います。何が違うか?。
太陽の大きさだけがまるで違って写っていると解ると思います。下の写真は太陽だけが約4倍ほどの大きさで写っています。これは通常のコンパクトデジタルカメラでの撮影です。
この違いはコンパクトデジカメカメラの性能の関係なのか、光のいたずらかは解りませんが、光が化けてしまったわけです。なお、赤い丸はコンパクトデジタルカメラの特徴として,太陽に向けて写すと素粒子の関係で出る独特の現象です。最初カメラ屋に聞いても、この赤い丸が解らなかったのですが、調べたところコンパクトデジタルカメラの場合は素粒子が小さいので、こうした現象が出ると解りました。
光の漢字を調べると面白いことが解ります。光の異字体として「火化ける」があるのです。補助漢字の部類に入りますので、インターネットでそのまま出ないと思いますので、像で出します。
光とは、火が化けているです。確かに、その通りなのです。スピ系の方は、何かと言えば神は光だ!。闇と光の闘いだ!。そんなことしか言われませんね。光は太陽と言う「火」が燃えているわけです。
元来、「神」の呼称には、言葉を示し申すの神があり。モウ一つは火(か)水(み)があるのです。この「火水(かみ)」が解っていないと、「神」の論議など出来ないのです。だが、スピ系の方はこの「火水(かみ)」の意味が解っておられずに、神は愛だ!。光だ!ばかりを言っておられるわけです。
そもそも、光として見る「白」は反射光であり、「黒」は透過光なのです。そこに光と闇の闘いだと二元論を持ち出すことそのものが間違いなのです。為に、光を発する存在が神だという概念論に囚われてしまいますと、火水(かみ)とはエネルギーを指すことが解らなくなります。邪神と呼ばれる存在も火水(かみ)であり、火を発することで光は出せるのです。
ですから、光だけで物事の判断は危険なのです。火は燃えているだけで、そこに善悪などは最初からないからです。
光を言うのであれば、まず「火」の意味が何を意味するかを知らないと行けなくなります。火は厳霊と言います。父なる神を指します。そして水は瑞霊に属します。母なる神を指します。
火(厳)が縦で、水(瑞)が横で、組み合わさって十字形(+)となって「神」なのです。
下記の写真は私が撮影したものではありませんが、木曽御嶽山の滝口不動明王様を撮影された方がありまして、光の中に不動明王さんが存在されています。霊的現実としてお不動様が出て来られる時、火焔をあげて出て来られます。そうしますと、そこには光が在るということにはなります。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。