放送内容
- 戦禍の女性たち 知られざる苦悩
- 知られざる戦禍の中絶 国・GHQの思惑は
- 戦時の性暴力 根絶するために
- 生きていることが疎ましい 戦禍 女性の苦悩
戦禍の女性たち 知られざる苦悩
取材の始まりは、終戦後に引き揚げてきた女性に出会ったことでした。
山本壽美子さん、93歳です。
父親が鉄道会社の社員だった山本さん。家族で旧満州、今の中国東北部に渡りました。
山本壽美子さん
「満鉄社員は豊かでした。だから、みんな満州に行ったんですよ」
当時、満州などには国策として開拓団が送り込まれ、300万人以上の民間人が暮らしていました。
しかし、終戦直前に旧ソ連軍が侵攻。女性たちへの性暴力が相次いだのです。
昼夜といわず 物に飢えたような
ソ連兵と朝鮮人の略奪が始まった
ある夜 逃げ遅れた女性が三人組におそわれた
悲鳴を聞きながら敗戦の惨めさをいやというほど味わった
旧満州 引き揚げ者 大塚文代さんの手記より
吉林の広いダムの水源地
鉄の柵がはられ
出入口は閉められ
若い女性が強姦されていると分かっていても
機関銃を持っているので どうしようもなく
なすがままにされなければなりませんでした
旧満州 引き揚げ者 泉静子さんの手記より
山本壽美子さん
「女の人と見たら、もう動物と一緒ですね。真昼間であろうと、人が見ておろうと、親の前でも強姦する」
山本さんの幼なじみの家にも、ソ連兵が押し入ってきたといいます。
山本壽美子さん
「(幼なじみが)自分で自決して、舌かみ切った。純潔を守るためには命をかけて、自分で自決しようと言われていました。むごいですよ。花の盛りにね。あんなにきれいだったし、どんなにいい人生を送れたか分からないのに。でも、そういう人がたくさんあるわけですよ。私の知らない(幼なじみの)トミちゃんがたくさんいるはずです」
終戦の翌年、外地にいた民間人の引き揚げ事業が本格化。性暴力を受け、妊娠した女性たちへの中絶手術が始まっていきました。
7月になって、京都の舞鶴港に引き揚げた山本さん。
山本壽美子さん
「これですね。引き揚げ証明書。厚生省舞鶴引揚援護局長」
取材班
「これ当時のものですよね」
山本壽美子さん
「そうですよ」
山本さんは、当時15歳。国の施設で受けた問診の様子を鮮明に記憶していました。
山本壽美子さん
「『何か怖い目に遭いませんでしたか』っておっしゃったから、『いいえ』と言ったら、『ずっと、ご両親とご一緒でしたか』っておっしゃいました。強姦されていないかというのを、そこで見つけ出して」
当時の記録によれば、舞鶴港で問診を受けたのは13歳から55歳の女性。山本さんが帰国した前後の3か月間で、13人の妊娠が確認されていました。
女性たちは国立舞鶴病院に入院。ここで、中絶手術が行われていました。
病院の事務員だった92歳の女性から届いた手紙です。十分な設備もない中で手術を受ける女性の様子が記されていました。
第三病舎は産婦人科
引き揚げ女性が数名入院していた
麻酔なしの手術で悲鳴があがった
胎児は古布に包まれ
手術室の片隅に放置されていた
遺体を入れた木箱をリヤカーに乗せて運んだ
余りにもあわれな姿に落涙
元事務員からの手紙
当時、日本での中絶は原則、違法とされ、違反した場合、最長で7年以下の懲役が科されると定められていました。
なぜ、違法とされた中絶手術が行われたのか。手術に関わった医師が取材に応じました。
先月、102歳を迎えた相馬廣明さん。終戦直後は、医学生でした。
相馬さんがいたのが、博多港近くの二日市保養所です。引き揚げ援護に当たる医師などが集まり、自発的に中絶手術を行っていました。
当時、性暴力による妊娠を苦に自殺する女性が相次いでいました。医師たちはこうした女性を救おうと、人道的な目的で手術を行っていたといいます。
産婦人科医 相馬廣明医師
「なんとか、こういう人たちを助けなきゃだめだって。人道愛だよ。思いやり。何とかしなくちゃって思うじゃない」
翌年、広島の国立病院の産婦人科医になった相馬さん。みずからも、妊娠後期の女性への手術を行いました。
相馬廣明医師
「もう満期ですよ。赤ちゃん育つのに、(女性に)頼まれて。今でも忘れないよ。赤ちゃん生まれてくる。もう育っているんだよ。それを中絶するって、どうするか。でも、やったの」
今回の取材で、少なくとも全国5か所の施設で、中絶手術が行われていたことが分かりました。
しかし、公的な記録はほとんど残されず、性暴力を受けた女性たちが手術について語ることもありませんでした。
埋もれてきた女性たちの声。
取材を進めると、中絶手術をめぐる葛藤が見えてきました。
今回の取材で入手した相談員の音声記録。手術を受けた後の女性の様子が語られていました。
声・婦人相談員
「(手術した女性が)そうやって子どもを処分した。それでも、子どもは子どもなのよね。悲しがって、お線香あげて、毎日、拝んでたわ」
音声提供 駒澤大学 加藤聖文教授
中には、手術を希望しない人がいたことも分かりました。
妊娠者もかなり発見されたので
博多港に着いたらすぐ中絶を申し出るよう勧めた
しかし なかには どうしても堕胎を拒む女子もいた
相手はソビエト人だといっていたが…
宮下義正 博多検疫病院長の手記より
性暴力に遭い、手術を受けたという女性を、15年にわたり支援した人にもたどり着きました。
元福祉相談員の河島悦子さんです。
元福祉相談員 河島悦子さん
「先生らしく、はっきりものを言う人でした」
その女性は福岡の師範学校を卒業後、満州で小学校の教員をしていたといいます。20代前半で独身だったという女性は、引き上げのさなか、開拓団からソ連兵や中国人に引き渡されたといいます。
河島悦子さん
「全員を助けるために、人身御供にあがったのよね」
繰り返し、性暴力を受けたという女性。日本に戻る船から身を投げようとした時、同じ開拓団の女性から投げつけられた言葉を河島さんに打ち明けていました。
河島悦子さん
「飛び込んで死のうと思って、立ち上がろうとしたのよね。教え子が『先生どうしたの』って、パッと来たんだって。親御さんが『汚らわしい、そばに寄らないで』って。本当に血が逆流したって。みんなのために自分は汚れていったものを。『こんな人たちのために死んでたまるか』」
長崎の佐世保に引き揚げた後、トラックに乗せられ、近くの国立病院に運ばれたという女性。妊娠の自覚が無かったにも関わらず、手術台に乗せられ、体の中に器具を入れられたといいます。
河島悦子さん
「『妊娠はしてなかったんですけどね』」
取材班
「同意があるとか、ないとか」
河島悦子さん
「そんなの関係ない。一度でも身に乱暴を受けた体は、日にちがたって妊娠してないことが分かってても、全部かきだしたんだって。本当に涙も出ないような思いした。ショックでした。私自身が」
知られざる戦禍の中絶 国・GHQの思惑は
各地の国立病院などで繰り返されていた、戦禍の中絶手術。国は、どう関与していたのか。
旧厚生省が国立病院などに出した通知です。
国も人道目的を掲げ、いわば、超法規的な措置として手術を主導していました。
しかし、中絶手術には、別のねらいがあったことも分かってきました。
女性を支援していた、元福祉相談員の河島さん。当時の上司は、引き揚げ援護に携わった厚生省の元技官。この上司が、国の思惑を語っていたといいます。
河島悦子さん
「『一滴も外国人の血は本土に入れまい』って、合言葉でやったんだけど。『1日36人(手術を)したのが最高だった』『もう20人は当たり前だった』。異質なものは受け入れない。日本人は」
手術に関わった別の医師も、厚生省からの指示を、こう書き残していました。
異民族の血に汚(けが)された児(こ)の出産のみならず、家庭の崩壊を考えると、女性たちの入国は厳しくチェックして、水際でくい止める必要がある。
カルテ等、診療録等は、一切その証拠を残してはならないとの厳命があった。
手術に関わった医師が戦後公表した文書
アメリカでも禁止されていた中絶手術。
日本を統治下に置いていたGHQは、どう対応したのか。
GHQの幹部だったサムス大佐。
生前、研究者に、日本での手術を容認していたと明かしていました。
ミシガン大学 デボラ・オークレー名誉教授
「サムスは、引き揚げ者に、医療的に安全な中絶手術を保証すべきだと、喫緊のニーズに応えるべきだと考えていたのです」
終戦後、日本では、性暴力や売春などによって、アメリカ兵の子どもを妊娠する女性が相次ぎます。
大阪公立大学(人種問題を研究)有賀ゆうアニース特別研究員
「『混血女児が遺棄してあった』『混血の捨て児』。サプレスドというのは、発禁ですね」
GHQは検閲によって、「混血児」という言葉を徹底的に封じ込めていました。
手術を容認した背景に、混血児の問題そのものから目をそらさせる思惑があったのではないか。
有賀ゆうアニース特別研究員
「混血児について大々的に扱うとなると、日本人の人種的な意識を刺激しかねない。ソ連兵を父親にもつ子どもであれ、アメリカ兵を父親にもつ子どもであれ、彼らが日本に生まれてくるということ、グループとして目立たせてしまうことにもつながるわけなので、それを忌避しようとしたとうかがえる」
重なり合う日米の思惑。
厚生省の元官僚は、戦禍の中絶手術を受けた女性が、およそ2,000人に上ったと証言しています。(座談会「国立病院の発足を回顧して」より)
戦時の性暴力 根絶するために
<スタジオトーク>
桑子 真帆キャスター:
今夜は、女性の戦争被害について研究をしていらっしゃる、佐藤文香さんをお招きしています。よろしくお願いいたします。
性暴力を受けて、傷ついて、もちろん、自分から望んで中絶手術をしてもらって、それで救われたという女性もたくさんいたと思うんですけれども、“異質なものを受け入れられない”という、この空気を守るために、自分の存在とか、意思というのが、ないがしろにされてしまう。このことに、私は怒りさえ覚えましたけれども、この異様さって、どういうふうに考えられますか。
スタジオゲスト
佐藤 文香さん(一橋大学 社会学研究科 教授)
女性の戦争被害について研究
佐藤さん:
国は、やはり、被害者のためということで、混血児を誕生することを防止したかった。その背後には、そんな敵国の男性の子どもを産んだとしても、母子ともに不幸になるのが目に見えていると。そういう先回りした形で、それを防止するということがあったというふうに思うんですが、そのことで、私の頭の中に去来したのは、最近、旧優生保護法のもとで、障害を持った方々が不良な子孫の出生を防止するという名目のもとで、やはり、去勢を強いられていたという、あの事件でありました。そこにやっぱり通底しているのは、そういう障害を持って生まれた人たちが子どもを持つということは、不幸になるに決まっているっていう、そういう考え方だったと思うんですよね。ですので、その相似形というのも痛感いたしました。
桑子:
もちろん、産む、産まないというのは、本来、当事者の意思というのが尊重されるべきことなんですけれども、戦禍の中絶手術は、国が主導して繰り返されました。この手術の概要や同意の有無などについて、今回、私たちが改めて問うたところ、こういう回答でした。
「相当の時間が経過しており、資料の所在も含め、確認されていないため、回答が難しい」。となると、なかなか検証もできない、この事実自体が埋もれてしまうということに感じるんですが、いかがですか。
佐藤さん:
私たち研究者の間では、実は、この問題というのは、広くはないですけれども、知られておりました。ただ、やっぱり、その時に私たちが聞き取っていた声というのが、医療関係者の声だったということですね。そういう点で言うと、今回、断片的ではありながら、当事者の女性の声が耳に入ってきたというのは、大きな出来事だったように思います。
桑子:
今回は、日本人女性が受けた被害について焦点を当てていますけれども、戦時の性暴力というのは、過去から今に至るまで、世界中で繰り返されています。
国際社会はどう向き合ってきたのかといいますと、国際条約で初めて、“女性が性暴力から保護されるべき”と明記されたのは、1949年、大戦後でした。そして、90年代になって、国際刑事法廷だったり、国際刑事裁判所というのができたことによって、戦争犯罪、人道に対する罪の対象として裁かれるようになった。この現在地って、どういうふうに考えていらっしゃいますか。
佐藤さん:
90年代に、このように2つの国際刑事法廷を経て、私たちの戦時性暴力の捉え方は大きく変わったと思います。それまでは、やはり、戦時性暴力というのは、不幸なことではあるけれども、戦争につきものの、自然災害のような、竜巻とか台風とかと同じようなものだというふうに思われていた。ところが、この90年代の、こうした国際規範の確立によって、今では、戦時性暴力というのは、人為によって、意図を持ってなされた、そういう行為なんだというふうに大きく変わったというふうに思います。つまり、どこの社会でも、やはり、男性たるもの、特に戦時には、女、子どもを守ってなんぼだというふうに思うわけですよね。そういう中で、性暴力が起きるということは、おまえたちは、自分たちの女、子どもを守ることができなかった敗者なんだということを知らしめる。そういう意図というものがあるんだということが、国際社会の中では確立していった。そのことの意味は、非常に大きいというふうに思います。
桑子:
一方で、国際規範ができた中での課題があるとすると、どういうことでしょうか。
佐藤さん:
それによって、裁かれるべき性暴力と、また、再び不可視化される性暴力というものが生じてしまったということですね。先ほど言ったように、人為によって、戦争の兵器として使われるような性暴力。つまり、大規模性があって、集団に対する文化を根絶やしにするような、そういう性暴力は裁かれるんだけれども、例えば、兵士ではなく、市民が犯す性暴力であったり、あるいは、規模がそんなに大きくなくて単発的なものだったり、あるいは、兵士が主体ではなくて、市民が行う暴力、そういうものが、再び裁かれる必要のない、ささいな性暴力というふうになってしまったという、そこのところは問題かなというふうに思います。ですので、私たちが立ち返るべきは、戦時であろうが、平時であろうが、そして、加害者が味方であろうが、敵であろうが、そして、もうひと言を加えるならば、被害者が女性であろうが、男性であろうが、意思に反して行われる暴力は性暴力なんだということだと思います。
桑子:
ありがとうございます。国や社会が同じ方向を向いていく中で、埋もれていった女性たちの存在というものがありました。時を超えた令和の今、見えにくくなっている、埋もれてしまっている、見えにくくさせてしまっている存在はないのか、埋もれさせてしまっている存在はないのか、私たち、問い続けていかなければならないと感じます。最後のVTR、ご覧ください。
生きていることが疎ましい 戦禍 女性の苦悩
妊娠の自覚がないまま手術を受けたという女性を、長年支援した河島悦子さん。
女性がふるさとに戻ってきたのは、50代になってからだといいます。
元福祉相談員 河島悦子さん
「4軒長屋ぐらいだったかな。そこに彼女がいたの」
教員の職を捨て、それまで東京に逃れていたという女性。
自暴自棄の暮らし中で、薬物に手を出すこともあったといいます。
河島悦子さん
「地獄を見たでしょうね。『どうなってもいいと思った』『疎ましかった』『生きていることが疎ましかった』『人ってのは、なかなか死なないものですね』って言っていましたね」
被害を訴えることもせず、その苦しみを抱え込み続けた女性。
一人、最期を迎えました。
河島悦子さん
「『人に言わなかった』。言ったら“汚らわしい”って嫌われるから。『心が痛むから、人には言わないのよ』。もう言っておかなきゃ、先生方も亡くなったし。知っている人が言い残しておかなきゃ、過ちを再び繰り返すよな」