前回に引き続き、Monday Morning Expressの松本謙一氏インタビュー3回目です。

 

松本謙一氏インタビュー 第3回

マンデーモーニングエクスプレス セッション4 エピソード6 2018年10月8日公開より 33:26から)

 

フレッド:インターナショナルから、オリンピアやアカネに移行していったということですね。それはPFMの前のことだ。小規模なメーカーが集まって、大口注文を満たすために協力し始めた。これが、私に言わせると真のブラス業界の始まりです。われわれは、このビルダーのコンソーシアムから本当に素晴らしいモデルを手に入れることができるようになりました。彼らは協力し合い、大口注文に応え始めたのです

 

ダン:そしてPFMが登場すると、品質は......

 

フレッド:ビル・ライアンが入ってきて、彼はより良いものを求めてスタンダードを上げました。そのために彼はカルスケールのパーツを導入しました。全体が押し上げられ、競争が激しくなった。ウエストサイドモデルがカツミと組んだ。ビル・ライアンと契約することで、(鉄道模型社の)武氏がそれまで使えなかったカルスケールのパーツを入手できるようになった。

 

ダン:これらは輸入の歴史において重要な出来事だった。

 

フレッド:60年代初期に、とても素晴らしいモデルが出始めた。

 

 

松本:60年代から70年代前半は、日本のブラスモデルの全盛期でした。その後、日本の人件費が急に高くなり、一方で注文が各ビルダーの能力を超えるまで拡大しました。だから、オーバーランドやサンセットのようなアメリカの第2世代のインポーターは韓国に行かざるを得なかったのです。彼らは、韓国の人件費がかなり安く、しかも一度に多くの注文を受けられることを知りました。そうして、インポーターの心は韓国に移って行きました。

 

フレッド:それ以前の話ですが、ウエストサイドモデルのディック・トゥルースデールは、大量発注を始めた人だった。彼の最初のナローゲージのプロジェクトはC16で、前代未聞の1,200台を発注しました。水野はノーと言った。KTMもどうやればいいかわからないといった。最終的には素晴らしいモデルができた。カツミだ(訳者注:コダマの間違い?)。

 

松本:日本のビルダーは200台から300台が受注の限界でしたが、韓国は500台でも1,000台でも大歓迎でした。韓国のビルダーを見つける前は、どのインポーターも日本のビルダーの仕事の遅さにストレスを感じていました。しかし一方で、日本のビルダーにとっては、注文は彼らの能力に対して大きすぎたのです。おそらく日本のビルダーの仕事は、どんなプロジェクトも数量は300台に満たず、たいていは200台でした。

 

フレッド:松本さん、韓国に最初に行ったのは天賞堂ですか?

 

松本:いや、最初に行ったのは中村とクマタです。彼らはもともと韓国のビルダーを下請けに使うつもりでした。

 

フレッド:エッチングとかボディーの部分だけやって、最終的な組み立ては日本でやる。そうして韓国が入ってきた。

 

松本:当時、韓国のビルダーは韓国でモーターを手に入れることができず、日本のモーターメーカーからモーターを調達しなければならなかったと聞いています。だから、クマタや中村は彼らを下請けとして使うつもりでした。ハンダ付けだけ韓国でやって、最終的な組み立ては日本でやろうとした。しかし、韓国のメーカーは日本の輸出業者は必要なく、アメリカの輸入業者と直接ビジネスをやりたいと思うようになりました。

 

フレッド:韓国で最初に完全なオーダーをしたのが、ノースウエストショートラインのロン・マーティンだった。

 

ダン:それはどのモデルですか?

 

フレッド:ディスアスター・シリーズです(笑)。

 

 

ダン:指紋みたいなのがありますね(笑)。

 

フレッド:信じられないかもしれませんが、サムホンサが作ったものです。セイ・ヤン・リーの父であるサン・マン・リーの最初のプロジェクトで、彼はカブースが何なのかさえ知らなかったのです。

 

 

松本:最も重要なことは、彼らが製品を迅速に作ることができたということです。

 

フレット:そして安価でした。この頃はちょうど日本経済が活況を呈しており、工場の賃金が上がってブラスの価格を上げ続けなければならないような状況だった。だから半額でモデルを手に入れることができる韓国は魅力だった。クオリティはそこそこだったが、値段は良かった。そして市場もそれを受け入れた。それでも、天賞堂とカツミの2社は今でもビジネスを続けている。

 

松本:そう、日本のプロトタイプのためにね。

 

ダン:彼らは美しいモデルを作っている。

 

松本:でも、値段はずいぶん高くなりました。

 

ダン:今でも同じ場所にあるのですか?

 

松本:ええ、そしてカワイも同じところにまだ店舗を構えています。でも、鉄道模型社は鳥飼さんが亡くなって閉店しました。ともかく、韓国メーカーがなかったら、あんなにたくさんのプロトタイプを手に入れることはできなかったでしょう。なぜなら日本のビルダーは同じモデルの注文を繰り返し受けるのを好んでいて、天賞堂がグレートノーザンのロコを何度も再生産していたのはご存じでしょう。そのため、韓国のビルダーが参入する前は、HOのプロトタイプの数は非常に少なかった。天賞堂と鉄道模型社のグレートノーザンか、カツミのサザンパシフィックくらいのもので、それほど種類が多くありませんでした。

 

フレッド:日本では70フィート、80フィート、それから60フィートの客車を同時に生産することはなかったから、60フィートと72フィートの客車の生産タイミングをそれぞれ見つけなければならなかった。ときに待たなければならないこともあった。当時は客車に関しては完全な列車を作ることができなかったんだ。彼らは84フィート車か70フィート車しかやらなくて、それをいっしょにはやってくれない。ところが、韓国では問題なく、私たちが望むものは何でもできる。だから、私たちは完全な旅客列車を手に入れることが出来始めたんです。

 

(以上3枚の写真はBrasstrains.comのYouTubeよりお借りしました。第4回に続きます)

 

訳者注:文中に出てくるDisaster SeriesのカブースをBrasstrains.comで検索するとこちらがでてきます。インポーターのFar East Distributersというのはノースウエストショートラインのサイドライン・ブランドで、外箱にはless trucksと書いてあるので、台車は米国で付けられたものだと思います。小生の見た範囲では、「Disaster(災害)シリーズ」と称しているのは、この1種類だけです。ご覧のとおり、水平垂直の出ていないひどい組み立てで、これをインポーターがヤケクソでDisasterと呼んだのか、それともプロトタイプにそういう呼び方のものがあるのかは、よくわかりません。いずれにしても、この上なくユニークな模型であることは確かですね。これが起点になって、今日の韓国のウルトラディーティルモデルにつながっていると考えると、なかなか感慨深いものがあります。

 

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