(その2の続きです)
 
同じ旅で、ビル・ライアンは天賞堂オーナーの子息の1人である新本秀雄と出会います。新本さんは1930年代に米国を旅行し、米国型鉄道と鉄道模型に興味を持っていました。1949年、新本秀雄は父親の反対にあいながらも、天賞堂の工場の中に、米国型の鉄道模型をつくる小さな部門を設立します。彼らの最初の製品は、占領下の日本や、韓国に駐留していた米国軍人に向けたものでした。しかしながら新本秀雄は模型製造ビジネスの拡張を望んでおり、ビル・ライアンとのミーティングはまさにこの機会を与えるものでした。米国におけるパシフィック・ファースト・メールによる独占的販売代理権が締結され、ブラス製品の米国型製造のプランが話し合われました。最初の製品は1955年に到着しています。
 
同じくPFM第1版カタログにあるNYCハドソン。1955年にPFMによって125台が輸入されています。天賞堂のサイトによると、この模型の発売は1953年で、これは日本駐留の米国軍人向けに売られたものと思われます。1955年にはC&NWのアトランティックもPFMによって58台が輸入されており、こちらの日本での発売は1952年です。なお、これらの模型がPFMの前の天賞堂代理店であるインターナショナルやケムトロンによって、55年以前に米国に輸入されたかどうかは、よくわかりません。
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これだけではありません。次にビル・ライアンは、古谷さんに会います。彼は優れたビルダーであり、過去にハンドクラフトの高品質カスタムモデルを、天賞堂に提供していました。古谷さんはフジヤマの名で、彼自身の工場を設立したいと考えていました。高級モデルと、ハンドメイドのPFMクラウンを提供するという、フジヤマとの独占的契約が結ばれました。
 
ビル・ライアンによって考案された「クラウン」という呼称は、パシフィック・ファースト・メールの最高級の品質を持った、原則として非常に限られた数量のハンドメイドモデルを示すものです。彼のアイディアは、これらのモデルをトップディーラーに1台ずつ供給する、というものでした。残念ながら、クラウンの名は後年、他のブラスインポーター達に濫用され、レアで最高品質という重みが失われてしまいましたが。
 
日本から戻った時点で、ビル・ライアンには天賞堂、フジヤマ、そしてアサヒ・サイエンティフィック社、つまり日本最高品質のメーカー達との独占的販売代理権が確保されていました。彼はレボン・ケマルヤンに「合弁関係を解消したい」として、十分な額の小切手を送りました。そしてPFMはブラスロコのビジネスを始めたのです。
 
 モデルレイルローダー誌1955年9月号に掲載された興味深い広告。上段はケムトロンの広告で、「需要の急増するパーツの製造に専念するため、キットの輸入をやめる。輸入の権利はPFMに委譲する。ケムトロンのパーツはPFMが輸入するモデルに使われる」とあります。下段はPFMの広告で、今回新たに天賞堂模型部の代理店となる旨がアナウンスされており、モデルとしてFTディーゼル、GP7、それにさきほどのNYCハドソンとC&NWアトランティック、さらに200トンクレーン車がでています。あわせてPFMがユナイテッドの代理店である旨も記載されており、モデルとしてはミルウォーキーのプレーリーが書いてあります。
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三成さんの会社は、多数の家内工業的メーカーを代表したものだったので、彼とビル・ライアンは、これらのスモール・オペレーションをカバーするアンブレラとして、「ユナイテッド」のラベルを開発しました。これらのメーカーの規模は、1人でやっているところから、5、6人のところまで様々でした。彼らの全てのモデルは、ユナイテッドのラベルで売られました。三成さんはアトラス・トレーディング株式会社の名を、レター、請求書、その他内部的な書類に使い続けていました。(興味深いことに、初期のユナイテッドのギアード・ロコはユナイテッドモデルの製品としてカツミ(KTM)によって作られています。その後カツミは、米国、欧州、豪州の新たなブラスモデルインポーター達の主要サプライヤーとなります)
 
1950年代終わりから1960年代初頭にかけて、PFMはおおよそ950のパシフィック・ファースト・メール・ディーラーを認定します。欧州においては、スイス・ローザンヌのアスター・フレグレックスがPFMの代理店となりました。アート・フルトンは全てのディーラーを担当するとともに、アメリカ製のロストワックスパーツを日本のメーカーに提供する役割りを果たしました。アートは長年に渡ってビルの片腕であり、1990年までPFMで働きました。
 
自動車産業から来たことで、ビル・ライアンは小売店を持ち、かつ、ディスカウントを行なわないディーラーを探しました。彼はPFMがつくりだすモデルは高品質であり、それゆえオーナーがそれを正業とする正規のホビーショップで販売されるべきと考えたのです。加えて彼は、定めた小売価格をディスカウントすることは、潜在的な購入者の心の中で、PFMモデルのイメージをチープなものにすると感じていました。ちゃんとした小売店でないとわかったとき、ビルは躊躇なく取引をキャンセルしました。残念ながら、ゼネラルモーターズのシボレー・ディビションとそのディーラーに関する最高裁判決は、一度商品が売られてしまえば、新しいオーナーはいかようにも販売価格を決定できる、というもので、これによって、ディスカウントを理由に取引を停止することは違法となりました。それでもPFMは長年に渡って正規のフルタイム・ホビーショップのみとの取引を維持しようとしたし、極力ディスカウントをさせないようにしてきました。
 
ビル・ライアンは1964年まで、PFMの全ての広告を執筆しました。彼はPFMモデルを「infinitely superior」(無限に優れた)としています。この表現は少々高慢だったかもしれませんが、彼はPFMによってつくられるモデルをトップクオリティにするために、全力を注ぎました。この点において、天賞堂、ユナイテッド、フジヤマ、その他数社の高度に熟達したハンドメーカー達は、優れた仕事をしました。
 
1960年になると、ビル・ライアンは三成さんに、ユナイテッドの名を使って、自身の工場をオープンすべきだと説きました。三成さんは東京のダウンタウンから北東に電車で約45分の農業エリアに土地を見つけました。彼は手頃な価格のその土地を買い、1区画全部を占める、壁に囲まれた2階建ての工場設備を建てました。三成さんの甥である森山さんがチーフエンジニア兼デザイナーになり、三成さんの義理の息子である山崎さんが経理と購買と担当し、三成さんのご子息である修三さんが社長補佐となりました。まもなく、ユナイテッドの工場は100名を超える従業員を抱えるようになりました。
 
ユナイテッドは農村部に出向き、工場で働く若い女性をリクルートしました。工場の2階には寮があり、キッチン、食堂、レクリエーション室、それからこの若い女性たちの面倒をみる寮母さんがいました。従業員のレクリエーションの1つは、娯楽のための鉄道模型レイアウトの製作であり、たくさんのキャンベルキット、アサーンの車両、ケーディカプラー、そして他の米国アイテムが、ユナイテッドの工場レイアウトに使われていました。
 
モデルレイルローダー1960年9月号のPFMの広告。ユナイテッドの西川口工場の写真が掲載されています。写真に写っている範囲では平屋ですが、背後に2階建ての建物があったのでしょうか。
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通常、あるモデルの製作を決定してから初回生産分が到着するまでには、3年から4年がかかります。モデルプログラムのアイディアは、興味をもったホビイスト達から届き、ときに彼らは図面や写真の提供にも協力してくれます。製作の決定がなされると、われわれはメーカーを選びます。メーカーは設計を開始し、半田付けのためのジグや他のツールをつくるのに数年が過ぎることもあります。ハンドメイドのパイロットモデルがわれわれのところに評価のために送られてきて、必要な個所には改良が加えられます。最終的にプリ・プロダクションモデルが届き、広告写真に使われます。初回生産分が届く頃、新モデルの広告が掲載されます。
 
1964年の後半、PFMはクラフトマン誌とモデルレイルローダー誌の両方の裏表紙の権利を獲得しました。われわれのポリシーは、広告には常にわれわれのモデルの写真を使い、プロトタイプの写真を使わないこと、そして同じ広告を2度と繰り返さないことでした。
 
モデルレイルローダー誌1964年9月号。記念すべき裏表紙への最初の広告で、リオグランデのミカドと、SPのテンホイーラーという、ユナイテッドの2台のナローモデルが掲載されています。ちなみに前号までの広告はアカネのブラスなので、主役交代を感じさせます。
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こちらはクラフトマン1964年8月号の裏表紙広告で、ユナイテッドによるサンタフェのミカドが掲載されています。前号、前々号を持っていないので、何ともいえないのですが、これも初回に近い広告だと思います。
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(その4に続きます)

 

 

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