名著「アート・オブ・ブラス」第2巻に熊田晴一氏が書いた序文(英文)を、全くの個人的な楽しみのために日本語に訳そうとしています。
 
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苦戦した末に、ほぼ出来あがったのですが、最後に壁につき当たってしまいました。ローマ字で記載してある、日本人の日本語名がわからないのです。ネットで簡単に検索できると思ったのですが、驚くべきことに、いくら探してもでてきません。TMSやとれいんの旧号もめくっているのですが、何せ電子検索ができないので、藁の中から針を探す心地です。小生の要領が悪いのかもしれませんが、模型そのものに比べて、作った人達には、スポットライトが当たらないものなのだなあ、とつくづく思います。
 
そもそも、個人の楽しみのための訳であって、学会発表や仕事に使うわけではないのですから、別に名前がカタカナであろうが、ローマ字であろうが、何の問題もないのですが、現在、われわれに大きな楽しみを与えてくれているブラスモデルの歴史をつくった、偉大な先人達のお名前を、カタカナのままにしておくのは、何とも忍びないのです。
 
そこでお願いです。このブログを見て下さっている皆さんで、下の文章の中の黄色のマーカーの方のお名前を知っている方がいましたら、コメント欄で教えていただけないでしょうか。お一人分だけでも結構です。コメントは遅くなってもかまいません。気長にお待ちします。
 
なお、協力をお願いしておいて恐縮なのですが、訳文そのものをブログに掲載するのは、著作権の問題があるので、難しいと思います。ただし、今後、出典を明らかにした上で、一部を引用する、という形で利用することは法律上可能だと思います。ご協力をよろしくお願いします。
 
以下、アート・オブ・ブラス第2巻 序文より抜粋。黄色のマーカーが不明部分)
 
1933年に前社長である鳥飼ケンタロウ氏によって設立された鉄道模型社は、現存する中で、最も古いメーカーの1つです。
 
現在の日本におけるモデルメーカーと小売店主の経歴を調べれば、ほとんどの人が何らかの形で鉄道模型社とつながりがあることがわかります。傑出した例をあげれば、珊瑚模型店はパーツ製作のサブコントラクターでしたし、有名なモーターメーカーである古市ハルオ氏は組み立てに従事していました。水野宏氏は店員でしたし、大竹ヒロシ氏は鳥飼氏の下請け業者であり、その後クマタの初代工場長になりました。
 
中村精密は、セイコー腕時計の部品メーカーとして、現在の社長である中村ショーザブロウ氏の兄によって創業されました。
 
横浜には2軒の有名ホビーショップがありました。1軒はサワダ・ノボル氏によって設立されたトビーで、もう1つが線路のメーカーであるシノハラです。
 
パイオニの創業者である須田氏は、トビーの下請けとしてビジネスを始めました。第二次世界大戦後すぐに、彼はモデルの製造を始め、2-8-22-6-0といったHOスティームを3050台、ハンドメイドしていました。トビーがこれらを買って、進駐軍の購買部に売っていました。
 
1946年から1978年まで存在したつぼみ堂模型店は、第二次世界大戦後、陸軍から復員した西川勝一氏によって創業されました。
 
おそらくモデル製造はいつか家内工業になるでしょう。すでに1つの良い例があります。コダマは児玉茂氏、奥様、奥様の妹という3人の会社でした。彼らはハイクオリティのモデルを数量限定でつくっていました。
 
1951年から1953年に、「ニューレイル」という模型店が東京の新宿にありました。店は水澤氏と西澤氏によって共同経営されており、米国人の軍人を相手にOゲージのパシフィックやハドソンといったスティームロコを販売していました。
 
コダマ・キヨシ氏(訳者注:正しくは児玉隆重氏です)のキャリアは、トビーとミズノの下請けとして、半田付けをしたところから始まります。その後、彼はHOn3のスティームをトマルコ社に、On3K-27スティームをPFMに、ともに完成品で売ります。彼はいくつかのモデルをフルグレックスにも売りましたが、残念ながら現在はあまり活動していません。
 
日本のモデルビルダーの中で、個人としても企業家としても、最も強烈なブラスモデル熱狂者は、多賀谷氏でしょう。早稲田の大学院で科学とエンジニアリングを学んだ後、彼は伊藤忠商事の下請けとして繊維ビジネスに従事していた父親の援助を得て、オリンピア・プレシジョンを設立します。
 
城南モデルの創業者であるニシクラ・ユウキチ氏は、オリンピアでキャリアをスタートさせました。英語が流暢だったため、彼は海外貿易を担当しました。
 
ニシクラ氏は大竹氏が友人の資金援助を得て設立したトーホーロコに移ります。1968年には別のクマタ社員がこの会社に入ります。ミゾグチ・カズオ氏で、有能は職人でした。トーホーロコのビジネスは順調で、1年後にサトー・マモル氏も加わりました。
 
才能あふれるミゾグチ氏は、自身の名前を冠したミゾクチ製作所で、ブラスモデルを製作しており、最初に製造したのはメトロポリタン向けのスティームC-4/5でした。
 
ゴトー・ハルゾーも重要な存在です。(中略)1967年に、彼はPFMとの関係構築に成功し、会社をGOモデル・ワークスと名付けます。彼の製品のブランド名は「GOM」としました。
 
年配のモデルファンは、立川の商店街にあった「ノザワ」というレコード屋を覚えているでしょう。その2階で、6人くらいが集まって鉄道模型をつくっていました。彼らのチーフはレコード店のオーナーであるノザワ・ヒサト氏で、レコード店のオーナー、サキソフォン奏者、そしてモデルファンでした。彼は自らの製品を「タカラ」ブランドで、ニューヨークのインターナショナル社に輸出し始めました。
 
1965年、籠谷文男氏は東京郊外の昭島市に、自身の会社であるオリオンモデルを立ち上げます。オリンピアの下請けとして、彼はフルグレックス向けのモデルを製造しました。
 
(ご協力をよろしくお願いします)
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