(その1の続きです)
 
これらの年々の好調は、彼らのハードワークなくしてはありえないのですが、鉄道模型業界にかかわる全ての人にとっても、最も順調な時代だったと思います。ただし、時代はよかったのですが、全ての産業が直面している、1つの共通した問題がありました。それは優秀な工員さんの採用です。需要が供給を大きく上回っていました。
 
日本における工場従業員の採用方法は、規模は小さくなったものの今も同じ方法ですが、次のようなものです。まず、日本の学校の学期が終わる直前の3月に地方に行って、できるだけたくさんの、有望な卒業生をスカウトします。そして彼らを、ときに両親もいっしょに、全額こちら持ちで、東京に招待するのです。そして、観光や歌舞伎のような劇場イベントの合間に、彼らがその会社で働けば、どんなにいいことがあるかを、しっかり見てもらいます。そして、お土産をいっぱいもらって、家に帰ることで、彼らの旅が完了するのです。
 
全ての工場オーナー達がこれに取り組むことで、4月には、わずか10人かそこらの卒業生が就職のためにやってきます。10人を採用するには、えらく高くつく方法かもしれませんが、全ての人材不足の工場長が知っている通り、10人は10人なのです。そして毎年末、工場が閉まって、従業員がボーナスを手に、長い正月休みを楽しむために帰省する、という事実さえなければ、このシステムにはいくらかのメリットがあるといえます。しかし、残念ながら、1月になると、この採用システムが役立たずであることが判明します。なぜなら元の10人のうち、戻ってくるのはいつだって2人かそこらなのですから。
 
現実を目の当たりにした工場のオーナー達から、こういった気の毒な話を聞いたので、私は同じ落とし穴にはまるのを避けようと決心しました。高いお金を使って労働者を無理矢理連れてきて、かくも哀れな結果しか得られない方法をとるわけにはいきません。だから、私の工場は東京にはありません。地方にあります。工場の建設にはお金がかかりますが、地元の従業員を雇い、彼らを教育するほうが、ずっとシンプルです。東京への招待旅行はオファーしませんでしたが、私の方針は成功でした。このことは、私の会社では勤続10年以上の従業者が全体の60%を占める、ということからもわかると思います。
 
ああ、これから書くことに触れなくて済むなら、どんなにいいかと思います。公害に関する話で、どっちみち楽しいトピックではないのですが、一連の、不幸で予期しない状況を通じて、私がどれほど苦しい思いをしたことか。しかし、この本はビジネスマンとしての私の人生を振り返るものですから、関連する、つらい詳細について、正直に思い出さねばなりません。
 
設立から10年だって、宮城県の小牛田町工場は、ひどい惨禍にさらされ、最終的には閉鎖されたのです。ことの発端は、県が新しい公害防止条例を制定したことによります。皮肉にも、その条例は、そのエリアに新しい産業を誘致しようとした彼らの以前の方針と、対極をなすものでした。
 
ともあれ、ある朝、当時の工場長であるS.セノウ氏が朝食を食べながらテレビを見ていたところから、トラブルは始まります。ニュースが進んで、産業廃棄物の話題になりました。テレビの画面に何とわれわれの工場が現れたのです。当時のニュースメディアは、クロム廃棄物がもたらす影響への不安をずっと報じており、ニュースキャストはわれわれの排水設備に疑いの目を向けたのでした。
 
話は急速に広がりました。全ての新聞が、大きな見出しで、このことを大々的に報じました。センセーショナリスムが広がります。小牛田エリアは有名な米どころでした。汚染への不安は未知なるものであり、われわれの工場は犯罪者として最初に指を差されました。
 
われわれは排水システムに欠陥があるかどうかを知りませんでした。それどころか、われわれの廃棄物が本当に有害かどうかもわかりませんでした。しかし、もしそうであれば、われわれは全力でこれを改善するつもりでした。幸い、県当局はわれわれに同情的で、システムをできるかぎり早急に改善することに同意した後は、何の公的なお咎めもありませんでした。
 
これで事件は落着するはずでした。しかし、町の人々の態度は違いました。彼らは、われわれの従業員を、疑いの目でみるようになり、保釈はされたが信頼できない囚人のごとく扱い始めたのです。とてもビジネスのできる環境ではありません。1978年、われわれは断腸の思いで工場を閉鎖したのです。われわれはアンフェアに扱われたのですが、もはや言うだけのことは言いました。さらなるコメントは、私の人生をさらに消費することになるので、控えておきましょう。
 
日本の鉄道模型産業は、大きな事業にはとてもなりそうにありません。われわれが作っているものは、献身的な2、3にしか、アピールしないからです。かつて世界的に有名なソニーが、この業界に興味を持ち、試みに「マイクロ・トレイン」を作りました。これは技術的には非常に革新的なものでしたが、結局ソニーは、参入を中止しました。おそらく模型ビジネスが、彼らの他の商品が享受している大きな売上とは対照的に、非常に限られた市場であることが理由でしょう。
 
そして、かつてわれわれのドロップ・フォージング・パーツのサプライヤーであった関水金属によって開発されたNスケールモデルが、近年、人気となってきました。今日では、Nモデルの売上がHOモデルを完全に凌駕しましたが、それでも、オーダーの数は、私が繊維ビジネスで受ける多数の注文よりずっと少ないのです。そう、私は今でも、その商売に手を染めています。結局のところ、私は繊維屋の息子なのですから。
 
しかしながら、売上げの規模はともかく、鉄道模型の製造におけるボトルネックの数々は、フラストレーションのたまるものです。これは今でも、わが社と日本の鉄道模型業界にとって黄金時代だった過去10年間と、何ら変わりません。大きな問題は常に模型を完成させるのに必要な全てのパーツを順序良く揃えることでした。たった1つのパーツが配達されないだけでも、模型の完成が遅れてしまうのです。
 
そして、懸命の努力にもかかわらず、同じフラストレーションが繰り返されました。モーターは届かない、車輪は遅い、キャスティングは永遠に時間がかかる。問題が続きます。工場の生産力が増えるに従って、必要な小さなパーツを入手する問題も大きくなったと思います。
 
サプライヤーに文句を言っても仕方がありません。鉄道模型業界はせいぜい中くらいの業界で、もっと大きな産業が持つような影響力はないのです。これによって、多くのメーカーは小さなパーツを自分でつくらざるを得なくなっていました。例えば私の工場では、それが可能な機械がありました。しかし、そういった機械の多くは、ビジネスがかつてほどでなくなったために、使われずにいます。
 
そして、正直に言えば、熟練した職人さんをみつけるのが課題です。年配の従業員が引退し、この20年間日本が享受した繁栄が、後継の人達に影響を与えました。新しい従業員達は、もっと自由で、もっと独立した立場にこだわり、ときに自分自身のメーカーを立ち上げる者まで出てきたのです。
 
こうすることで彼らは、自分のペースで働くことができます。人件費や経費が安いので、生計を立てることができると感じます。彼らは顧客すら、すぐにみつけました。日本の裏路地は、より安いメーカーを見つけるために日本を訪れるインポーター達を常に魅了していたのです。私の元従業員の何人かも、この道を選びました。私は彼らを「熊田学校の卒業生」と呼ぶのが好きです。幸いにも、多くは巨額の富を築くことを期待しない正直な男達です。彼らは独立して模型を作っても、金持ちにはなれないことを知っているのです。
 
小さな産業によくある例として、鉄道模型ビジネスの業界は、非常に保守的です。メーカーは、少なからぬプライドを持っている彼らの創造物に関して、極めて保護的です。新しいモデル作られるときは、常に秘密のベールに包まれているという、ジェームズ・ボンドですらリラックスできるような世界なのです。彼らの工場を知りたいと思う訪問者は、永遠に「部外者立ち入り禁止」のサインに阻まれるでしょう。そして他の業界と違って、彼らの合計年間生産高の統計は、決して公表されたことがないのです。
 
しかしながら、1965年、リーディングメーカーの中で業界団体を組織する動きが、カツミ模型店の洒井一氏と、天賞堂のサワヤ氏の2人によって始められました。彼らの努力によって、日本鉄道模型連合会、JMRAが設立されました。
 
連合会の規約にあるとおり、会の目的は、鉄道模型ビジネスの発展と、会員相互の友好関係の促進にありました。いざ結成してみると、この組織は有益でした。好例を挙げましょう。外部から政府に、鉄道模型は金属でできているから玩具であり、よって日本金属玩具協会(訳者注:Japan Metal Toys Associationを直訳しましたが、実際の団体名は確認できていません)の輸出検査が必要である、という働きかけがありました。このときわれわれは、通産省の役人と交渉し、通産省が「玩具」に使われるモーターは3極モーターであり、「模型」に使われるモーターは5極かそれ以上のものである、と規定することによって、この輸出検査導入を防ぐことができました。
 
JMRAは、われわれの発展を邪魔するような他の事項にも目を配りました。会員は、特許を黙って申請し、独占所有することを禁じられています。これはある会員ではないメーカーが、特許申請の中に、もはや一般知識となっており、実際に使われている、明らかな事実を含めようとしていることがわかったことから、ルール化されました。この特許申請には、模型を動かす方法として、「プラスとマイナスの電流を右と左の線路にそれぞれ流すことで、走らせる」いう趣旨が書いてありました。連合会が弁護士を使うことによって、われわれは何とか、この申請を取り下げさせることができました。
 
ただし、会員が自分自身を守ることを忘れているときには、JMRAがこれを助けるのはかなり難しくなります。この気の毒な例は、会員であり、鉄道模型社の社主である鳥飼政治氏による見落としです。彼は模型製造において最初にフォトエッチングを導入しましたが、特許を取得しませんでした。もしそうしていたら、と思うと、寂しい気持ちになります。私でさえそうなのですから、鳥飼氏はもっと残念に違いありません。
 
現在、JMRAには7社の会員しかいません。そして今、さらに2つの組織が活動し始めようとしています。Railroad Model Federation(訳者注:この団体の日本語名をご存知の方がいましたら、ご教授願います)と日本Nゲージ鉄道模型工業会で、どちらも年に1度、展示会を開催します。Railroad Model Federationの会員は、大手卸から小さなパーツメーカーまで広範に渡り、その製品は大型ライブスティームからZゲージモデルに及びます。展示会の来場者はおよそ8割が大人です。一方、日本Nゲージ鉄道模型工業会の展示会は逆で、おおよそ8割が子供です。
 
Nゲージモデルが最初に紹介されたとき、入門者によるNゲージ人気は、われわれにとってもよいことになるのでは、と期待しました。鉄道への興味が増せば、ハイクラスなブラスモデルの市場拡大につながるのではないかと考えたのです。これは実際には起こりませんでした。2つのモデルのタイプは、それぞれのモデルの世界にしっかり根を下ろして動かなかったのです。いずれにしても、おそらくNゲージは、真の鉄道模型愛好者には受け入れられないのだと思います。彼らは、極端なミニチュア化の技術的な制約が、より大きな鉄道模型のみが持つ、なんらかの美の要素を消してしまうことを知っているのです。
 
(その3に続きます)
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