(クマタ貿易創業者、熊田晴一氏による「アート・オブ・ブラス」第2巻の序文を日本語に訳したものです。経緯については「熊田晴一氏の名文を掲載します」の項をご覧下さい)
アート・オブ・ブラス第2巻
序文
アート・オブ・ブラス第2巻は30数社にわたる日本の鉄道模型メーカーの代表的製品を写真によって紹介しています。バラエティに富んだ製品が掲載されているので、コレクターにとって、この本は第1巻よりもさらに興味深いかもしれません。
それぞれのメーカーはブラスモデル業界においてアクティブな役割を果たし、その発展に大きく寄与してきました。このメーカー達が皆、今も栄えており、いや、少なくとも生き残っていたらどんなにいいでしょう。しかし、多くは廃業せねばなりませんでした。個人的には、これはたいへんつらいことです。ただし、ある種のモデルコレクターにとっては嬉しいことかもしれません。彼らの持つ過去の傑作が真のアンティークという地位を得て、価値を増すからです。
ここですこし、われわれのビジネスが衰退した理由を考えてみましょう。この本のデータを準備する過程で、私はこれらのメーカーにインタビューを行ないました。いく人かは親切にも、意見をしたためた手紙をくれました。この件に関する彼らの考えを紹介いたしましょう。
第1巻が発売されたとき、あるメーカーはこう書いています。- 1973年のいわゆる「オイルショック」は鉄道模型業界にマイナスの影響を与えましたが、当時の全般的な活況は、石油価格の上昇によっておこった様々な不具合を補って余りあるものでした。ところが、1979年の第二次オイルショックによって、われわれのビジネスに真の下降カーブを描き始めたのです。
1人の知識豊富な仕事仲間は別の原因を指摘します。われわれに不況をもたらしたのは「オイルショック」ではなく、他国からの激しい競争、すなわち「コリア・ショック」なのだ、と。私自身もどちらかといえばこの考えに同意します。
鉄道模型への需要が供給を上回っていたときは、韓国メーカーと仕事を分け合うことに、何の痛みもありませんでした。日本はまだずっと優れた製造者だったのです。韓国の安い賃金は脅威ではありましたが、そのかわり彼らの製品の品質は低いものでした。彼らの品質は次第に改善されて、いつか日本並みになるかもしれないが、そうすると急速なインフレに襲われることになる。シンプルな経済学からみて、韓国メーカーが日本を抑え続けることはできない、と考えたのです。
私はかつて、ブラスモデル製造にかかる人件費について、各国の比較を試みました。以下は一つの例ですが、状況はほとんどのメーカーに当てはまると思います。1977年に、平均的な従業員に支払われていた賃金を100としましょう、そうすると、その従業員は1985年に、日本では140を支払われていることになります。一方、韓国の労働者は350を受け取ります。韓国の賃金上昇は日本の2.5倍なのです。もしこのトレンドが続けば、韓国メーカーが品質の改善を続けたとしても、遅かれ早かれ、韓国のモデルのコストは、日本のモデルのコスト並みになります。
ソウルのトップメーカーが明かしてくれたのですが、彼らの経済的なライバルはもはや日本ではなく、他の韓国人、つまり、よいビジネスに危機をもたらすいい加減なメーカーだ、というのです。彼らは、海外のバイヤーからの注文を確保するために、競合メーカーより遥かに安い価格、つまり、製品の品質をごまかさない限り、倒産してしまうような価格を提示します。これには蝶が花から花へ渡るがごとく、最安値を求めて会社から会社を飛び回るような無節操なバイヤーがいることにも起因しています。韓国のビジネスレポートによると、廃業する模型メーカーの数が急速に増えており、それらに替わるメーカーも、同様の運命をたどるであろう、ということです。
1979年、日本のブラスモデルメーカーは、1つのモデルあたりの注文数量が著しく減っていることに気づき始めました。また、彼らはバイヤーが少ない数量で、出来る限り多様なバラエティのものを買うことにこだわるのを、避けることができなくなってきました。繊維の貿易や他の産業でも同じことが起きていました。ブラスの世界では、他の企業達と同様、小ロット生産によるツールのコストアップによって、ビジネスが立ち行かなくなっているのです。
われわれのダウントレンドのビジネスについて、ある者はもっと根本的な原因を指摘します。あるモデルメーカーはいいます。「今日の顧客とかつての顧客の購買態度には大きな違いがある。かつてわれわれの店にくる顧客は、棚に飾られている模型を買って自分のレイアウトに加えたい、というむき出しの欲望を持っていた。今日の顧客は、購買欲を抑制し、製品の欠点を探す。欠点が見つからなくてやっと、購入を何とか自分自身に認めさせようとする」。
このような行動はドイツの統計学者であるエルンスト・エンゲルが発見した経済原理、つまり、家庭が貧しいほど、支出に占める食費の割合が増える、というのとは無関係でしょう。今日の顧客達は経済的に困っている訳ではなく、鉄道模型そのものへの熱を下げているようにみえるのです。
ブラスモデルの製造が栄えた、という歴史のベースには、それが熱心な愛好家達を常に惹き付けてきたことがあります。彼らは若い時にまずお手頃な鉄道模型を持ち、興味が増すにしたがって良いものを求め、ついに高価なブラスモデルを集め始めたのです。今はそうではありません。Nスケールのプラスティック模型に熱中した若者が、大人になったらブラスの顧客になる、ということはないのです。新たにブラスを購買する層が育っていないことが、われわれのビジネスに影響しているのです。
友人の一人である、大きなメーカーの社長が言ったことがあります。「うちの工場は年配者の施設みたいだ。若者は学びにこなくて、年配者はずっといる。彼らは賃上げも求めないし、引退したがるわけでもない。彼らを辞めさせる気持ちはないが」。他の業界に、これほど優しい経営者がいるでしょうか。
ある日、私は自分の工場で、あるインタアーバンの上回りと下回りを組み立てている若い工員達の一団をみました。組み立てられた車両達がテストトラックに乗せられたとき、突然、問題が起きました。いくつかの電球、つまりヘッドライト、テールライト、インテリアライトが点灯しないのです。電球を交換せねばならず、上回り、下回りともに分解しなければならなくなりました。
彼らをみながら、私はギリシャ神話のシーシュポスの伝説を思い起こさずにはいられませんでした。罰として大きな岩を山頂まで押していくことを強いられ、岩はまた転がり落ちる。わが従業員達は徒労なことに、おそらく調達された粗悪なダイオードによって切れてしまった、欠陥品の小さな電球を交換するために、いつまでも分解と再組立てをしていました。彼らの行動は、「モダン・タイムス」でチャーリー・チャップリンがベルトコンベアで苦労するがごとく、終わりなき無用の活動に思えたのです。
ブラスモデル業界はどうなるのでしょう。われわれは顧客の不足に直面しているだけでなく、作り手の不足にも見まわれることになります。若者はもはやわれわれのビジネスに魅力を感じていません。経済状況を考えれば、どこにも行きようのない、シーシュポスの罰にも似た仕事に就く人はいないのです。
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子供の頃、カワイモデルの創業者である川合延行氏のお店をよく訪ねました。汽車をみたい、という私を川合さんは歓迎してくれました。彼は自社の40周年記念カタログにこう記しています。「小学生、中学生で私の店に来てくれた子供達は、長きにわたるお客さんになっています。彼らがその息子達と買い物に来てくれるのを見るといつも、自分が鉄道模型のサプライヤーであることを、神様に感謝します」。
1928年に創業した川合氏は、工場で展示模型を製作し、主に政府機関と商社に売っていました。かつて氏は30分の1スケールで、35ミリゲージの国鉄型電機機関車をつくったことがあり、ビジネスとして模型の世界を選んだのは、彼の趣味の自然な延長でした。
彼が事業をはじめたとき、日本における鉄道模型は未だ初期の段階で、氏は自分の製品を宣伝するのが重要だと考えました。彼は店を東京の真ん中に移し、会社の名を、川合模型製作所から、カワイモデルストアに変更しました。店内の半分は、Oゲージ線路のレイアウトで占められており、彼がレイアウトを操作するときはいつも、人だかりができました。
1936年に、氏は「模型鉄道」と称する雑誌を発刊します。儲けにはなりませんでしたが、この雑誌は鉄道模型の普及に大いに貢献しました。ただし、残念ながらこの雑誌は、第二次世界大戦が始まると廃刊になりました。さらに悪いことに、カワイモデルの工場が、戦時中の火事で破壊されてしまいます。
その後、難しい時代ではありましたが、カワイモデルの戦後ビジネスは非常に早く立ち上がりました。新しい店が建てられ、まもなく多くのOゲージモデルの生産が始まります。戦前にはHOスケールのモデルを生産するプランもあったのですが、時代背景もあって、このプランを実行に移すことはできませんでした。
興味深いことに、50年代、カワイモデルのHO製品は、ほとんどがキットの形で輸出されています。ペンシルバニアのO1B、サウスショアラインのスティープルキャブ、SPの0-6-0、ボールドウィンのディーゼル、NYCの4-6-2等。いくつかのリオグランデの2-6-0や2-8-0ロコは、大阪の貿易会社である「セイリンシャ」によって輸出され、Oゲージモデルとインタアーバンは熊田貿易株式会社を通じて米国に届けられました。今日、カワイモデルの輸出オーダーがほとんどないのは、寂しいことです。
1933年に前社長である鳥飼ケンタロウ氏によって設立された鉄道模型社は、現存する中で、最も古いメーカーの1つです。会社名はビジネスの内容そのもので、"Railroad"、" Model"、"Company"です。初期には鳥飼氏の会社は下請けから買ったOスケール用のギア、車輪、挽き物のパーツといった、様々な小パーツを小売りしていました。
現在のオーナーである鳥飼政治氏は、彼の同年代と同じく、戦後復員してきても仕事がありませんでした。生き残る唯一の方法は、兄の仕事を助けることだったのです。これは兄弟双方にベネフィットがありました。工科大学の卒業生である彼の才能と能力は、模型製造の世界で遺憾なく発揮されたのです。鉄道模型社はHOモデルのパイオニアとして知られていました。1947年には日本の雑誌である「鉄道模型趣味」発行人の山崎喜陽氏によるアドバイスにより、最初の10.5㎜車輪をつくっています。数年後には真鍮製のコード100レールを発売しました。最初の完成品はSPのアトランティックロコで、続いてB&Aの4-6-6Tが登場します。これらのモデルは全てセミハンドメイドでした。
続いて、HOn3のD&RGW K-28、プレーリー、シェイがアトラス貿易を通じてパシフィック・ファースト・メールに輸出されます。3トラックシェイは、売れなかった2トラックシェイのための対応策と捉えられています。これらにはプロトタイプに忠実ではなかったとか、スケールに難があったといった問題があったようなのですが、いずれにしても、これらのシェイロコが300台を超えてつくられることはありませんでした。
日本のモデルメーカーの中で、鳥飼政治氏は、技術開発の点でもっとも進んでいました。1950年、彼はフォトエッチングに目をつけ、国鉄ED-17電気機関車の車体のストライプに初めてこの手法を用います。結果は満足すべきものでした。それ以来、エッチングのプロセスは、リベット、ライン、プレートといったアイテムを表現するのに使われました。エッチングのみならず、電鋳(訳者注:原型をもとに電解法で複製品をつくる方法)もモデル製造に取り込みました。最初の試みは1951年に50から60台を製造した「デイライト」スティームロコでなされました。
このようなイノベーションは、模型製作技術の進歩に対する鳥飼氏の絶大な貢献を示しています。加えて、彼は職人さん、下請業者、協力者、そして店員さんから優れた人材を育成しました。
現在の日本におけるモデルメーカーと小売店主の経歴を調べれば、ほとんどの人が何らかの形で鉄道模型社とつながりがあることがわかります。傑出した例をあげれば、珊瑚模型店はパーツ製作のサブコントラクターでしたし、有名なモーターメーカーである古市ハルオ氏は組み立てに従事していました。水野宏は店員でしたし、大竹ヒロシは鳥飼氏の下請け業者であり、その後クマタの初代工場長になりました。中村精密の前社長は挽き物のサブコントラクターでした。リストは尽きません。
鉄道模型社はアトラス貿易を通じて輸出を始めます。後には柴田商会、クマタといった輸出者も使いました。鉄道模型社はブラスモデルの主要なサプライヤーになっていました。もちろん、あらゆるビジネスと同様、失敗もありました。EMD E-7 A&Bをアトラス貿易向けに1,000セット生産したのですが、ほとんどのモデルに欠陥があって、100セットしか売れず、残りはスクラップにされました。
50年以上前に創業して以来、彼らはずっと、東京の同じ場所でブラスモデルビジネスを行なってきました。間口3メートルの小さな店です。この小さな店から偉大なものが作られてきたのです。私にとってこのことは、われわれ皆がブラスモデルの世界で成し遂げてきたことを象徴しているように思えます。
(その2に続きます)
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