(その1の続きです)
 
他の会社、マイクロキャスト水野を見てみましょう。水野氏が鉄道模型社で働いているとき、彼の先見性と英語の流暢さにすっかり感心した私は、彼にクマタのアメリカ代表にならないかと誘いました。私にとって残念ながら、そして彼にとって幸運なことに、彼には別のプランがありました。日本で最初にロストワックスパーツを工場設備で製造しようと考えたのです。この先見性から、後にマイクロキャスト水野が設立されました。
 
水野氏はモデル製作において改善できることがないか、常に注意を払っていました。最初に彼は、良質なDCモーターをつくることに熱中しました。次にディカールに取り組み、モデルメーカーが望むものは何であれ常に供給しようとしました。氏はさまざまな海外のインポーターとの優れたリレーションを持っていたので、市場トレンドの貴重な情報源でした。英語が非常に上手だったので、彼はインポーターとメーカーの間の仲立ち役として、非常に重宝がられました。
 
水野氏は言います。「私の夢は、一晩中眺めていても飽きないようなモデルを作ることです。そして、日々の楽しみは、この願望を実現させるために、次に何をやるべきかを考えることです」。
 
中村精密は、セイコー腕時計の部品メーカーとして、現在の社長である中村ショーザブロウ氏の兄によって創業されました。当初会社は、車輪やギアその他のパーツを鉄道模型社に提供するサブコントラクターでした。
 
兄が引退した後、中村氏はブラスモデルの製造を始めます。1969年、単独でつくった最初の製品は、フリーの2-4-0タンクロコでした。翌年、ウエストサイドモデル向けのクライマックスAで、輸出事業に乗り出します。
 
それ以降、小さなHOn3の貨車から、キャブフォワードのような大型アーティキュレーテッドロコ、シェイまで、幅広い分野で多数のモデルが生産され、輸出されてきました。彼の顧客は幅広く、ウエストサイドモデル、NJインターナショナル、ノースウエストショートライン、ランバート、パシフィック・ファースト・メール、キーインポーツ、ニッケルプレート、プレシジョン・スケール、そしてフルグレックスを含みます。
 
様々なモデルメーカーのルーツをたぐると、最後に鉄道模型社にたどりつくように、アトラス貿易もブラスモデルの輸出において、同様の傑出した役割を果たしています。1947年、今は亡き三成善次郎氏が会社を設立しました。第二次世界大戦前、氏はさまざまな雑貨の輸出に従事していました。戦後、氏は同じビジネスを再開し、現在、それは鉄道模型の輸出を含みます。
 
アトラスと関係した様々なブラスモデルメーカーの製品は、海外で、ユナイテッドの名で販売され、やがてその名はよく知られるようになりました。ユナイテッドのブランドマークは、アメリカの高級車であるキャデラックのエンブレムに似せてデザインされたといわれています。パシフィック・ファースト・メールのウイリアム(ビル)・ライアン氏はワシントン州シアトルでキャデラックのディーラーをやっていたので、この話はさもありなん、といったところです。ケムトロン社のケマリン氏が1954年にライアン氏に三成氏を紹介して以降、PFMとアトラスの良好なビジネスの関係が続いています。
 
アトラスはかつて、カツミ、カワイ、鉄道模型社、ツボミ、トビー、アダチといったメーカーからモデルを買って、ケムトロンとニューヨークのインターナショナル社に輸出していました。しかしながら、ライアン氏のさまざまな注文に応じるため、1954年に製造会社であるアトラスインダストリー社が設立されます。その後、アトラスインダストリー社は、古い会社であるアトラス貿易を吸収しました。
 
アトラスは主にスティームロコを製造し、その数は現在までに80タイプに及びます。最初の1つ、AT&SF2-8-0は今でも有名です。1956年に300台が製造されましたが、それ以降8,400台が再生産されています。
 
シェイ、クライマックス、ハイスラーといったギアードロコは、アトラスが知られるようになったその高い技術を表すもので、ファンの間で高く評価されています。1962年から1979年の間に5,200台のシェイB-2タイプが販売され、1964年から1973年の間に3,400台のB-3タイプが販売されました。多くはPFMに向けて輸出されましたが、いくつかはヴァンホビー、フルグレックス、モデルドックヤードに送られました。
 
ご子息の三成修三氏は、私にこういいました。「アトラス製品の最大の特徴はしっかりした品質です。それぞれの蒸気機関車の特徴が、どうすればスケールモデルにうまく反映できるか、常にスタディしています」。こういう献身があるからこそ、アトラスによってかくも多数の傑作が作られてきたのでしょう。会社は最近、ユナイテッド・インクに社名を変更しました。
 
ユナイテッドブランドでPFMが輸入したモデルのうち、UPの4-8-4は横浜のトビーが製造したものです。これはトビーにとって最初の「マスプロダクション」の仕事で、数量は50台でした。わずか50台に「マスプロダクション」という言葉を使うのはおかしいと思うかもしれませんが、当時、トビーのみならず、全てのモデルメーカーにとって、こういったロコを50台つくるのは、たいへんなことだったのです。
 
横浜には2軒の有名ホビーショップがありました。1軒はサワダ・ノボル氏によって設立されたトビーで、もう1つが線路のメーカーであるシノハラです(線路については後述します)。サワダ氏の店は土産物を売っており、進駐軍がよく訪れていました。店は大いに賑わっており、それゆえ1949年、氏は横須賀にあるアメリカの海軍基地にホビーショップを出店することにしました。当時、サワダ氏は模型飛行機やボートを売っていましたが、スクラッチビルドによるHO蒸気も売っていました。数量は5台から10台といったところです。おそらく海軍の軍人が買ったものの1つが、シアトルでビル・ライアンの目にとまりました。これがトビーとPFMの関係の始まりです。
 
この結びつきを通じて、1958年から1963年の間に、前述のUP 4-8-4 HOスティーム、さらに他の4-8-4として、D&RGW、C&OのJ3J3aCB&QO-5O5aN&W、さらに他のモデルが、製造され輸出されました。サワダ氏は他のルートも使って輸出ビジネスを拡大しようと試み、1963年にロギングロッドタイプの2-6-2TNo.9の契約をNWSLと結ぶことに成功します。フルグレックスとのビジネスは1965年に、300台のSBB Be 4/6電機機関車で始まりました。
 
トビーは現在までに109種のモデルを輸出用に、20種のモデルを国内用に製造しています。多くはスティームとエレクトリックロコで、カブースや貨車はトータル生産数量の10%かそれ以下です。Oゲージについては、サワダ氏が保管している記念写真のアルバムをみると、おおよそ10種の米国タイプと、2、3種の欧州タイプがあることがわかります。
 
パイオニヤの創業者である須田弘氏は、トビーの下請けとしてビジネスを始めました。第二次世界大戦後すぐに、彼はモデルの製造を始め、2-8-22-6-0といったHOスティームを3050台、ハンドメイドしていました。トビーがこれらを買って、進駐軍の購買部に売っていました。
 
古谷三郎氏も戦後、ブラスの世界に入ってきました。1959年に、彼はトビーと協働して「クラウン」シリーズのいくつかのモデルを製作しました。彼の作品がビル・ライアンの目にとまり、彼は1962年に、フジヤマのブランド名で製品を販売する、独立したモデルメーカーになりました。古谷氏のモデルは、氏が製作を好んだノーザンタイプのスティームが主で、数量が限られていたため、セミハンドメイドのマスターピースとして、モデルコレクターの間で高く評価されました。
 
彼の製品にはノーザン、NP Z-5クラス「イエローストーン」、C&O H-8クラス「アレギーニー」、HOn3On3の美しいミカド、木造客車、カブース等があります。これらは彼の代理店であるPFM、NWSL、フルグレックス、ホールマーク等を通じて販売され、多くのモデルファンに歓迎されました。
 
前述した、横浜にあるもう1つの有名モデルショップであるシノハラは、線路の製造で世界的に有名です。最初彼らは、真鍮レールとプラスティック枕木でHOゲージの線路を作り始めました。後に真鍮レールは、徐々にニッケルシルバーレールに代わっていきました。随分前、シノハラが木製屋根のメタル製HOボックスカーをつくったことがある、ときいて驚く方も多いでしょう。悲しいかな、現物はシノハラに残っておらず、記憶の中にのみ存在します。
 
線路は鉄道模型の中で最も重要な構成要素の1つですが、同様に、シーナリーがなければどんな良いレイアウトも単調なものになってしまいます。協同ライト商会は1954年から、それまでの玩具に使う小さな電球に加えて、信号や橋といった鉄道模型アクセサリーの製造を開始し、後者のニーズを満たしてきました。こういったアクセサリーの役割は、補助的なものでしょうが、彼らによる鉄道模型発展への寄与は、大いに讃えられるべきでしょう。
 
エンドウは、1946年に設立され、Oゲージ貨車とビギナーのための線路で非常に有名でした。私自身のビジネスキャリアにおいて、この会社にはよき思い出があります。サンフランシスコのケン・キダーへの輸出用に、彼らのOゲージ32㎜の3線式ブリキ線路の在庫を全て買い取ったことがあるのです。
 
1960年以降、彼らはHO貨車と国鉄型プロトタイプを短縮した80分の1サイスの電気機関車、HOの「完成線路」に力を入れました。1978年にはNゲージに参入し、Nゲージの「完成線路」といくつかの国鉄型電車を製造しました。翌年、ヨーロッパ向け輸出用のNスケール電気機関車と米国向けのHOディーゼルロコが作られました。
 
エンドウは一般に、最も設備の整ったモデルメーカーとみられています。優れた工作機械を揃え、いかなるスケールでも大きな注文に応えることができます。彼らのHO、HOm、Nのモデルの豊かなバラエティは、モデルファンに広く愛されており、2、3あげるだけでも、フルグレックス、PSC、キーインポーツといったインポーターに向けて輸出をしています。
 
安達製作所もしっかりした生産能力を過去から持つメーカーです。ほとんどの日本のブラスモデルメーカーと同じく、安達庄之助氏の鉄道模型への興味は趣味として始まりました。1949年、彼は貿易会社で働いていましたが、エースモデルショップから、余暇時間にスクラッチビルドモデルを作るよう頼まれて、引き受けます。1951年、彼はパーツの製作から組み立てまで一連の作業ができる工場を開設し、ニューヨークのインターナショナル社向けに、OゲージのUSRAライトパシフィック、ライトミカド、貨車を製造します。
 
その後、三成氏の紹介によって彼はビル・ライアンと知り合います。同様にカツミ模型店の酒井一氏の紹介で、彼はブラスモデルの有名なインポーターであるマックスグレイと出会います。1955年にPFMによって輸入された、最も有名なシェイであるB-2は、アダチと、有名なブラスモデルデザイナーであるカツミの祖父江欣平氏のジョイントベンチャーです。アダチは一時、ホームマーケットである日本でブラスモデルの評判を高めようと努力しましたが、現在は米国とヨーロッパ向け輸出用のスーパーディーティルモデルの製造に力を注いています。
 
1946年から1978年まで存在したつぼみ堂模型店は、第二次世界大戦後、陸軍から復員した西川勝一氏によって創業されました。まず彼はハンドメイドの、30分の1スケール35㎜ゲージモデルをいくつか売り始め、それらを店頭のショーケースに飾っていました。ここでも、他の多くと同様、彼のモデル製作ビジネスは趣味として始まったのです。
 
彼の最初の製品は切り替えスイッチでした。次に主にカツミに供給したフラットタイプのモーターが続きます。後に、彼はいくつかの国鉄型モデルをキットで販売しました。ファイバーと木によるもので、ユニークといえないこともないのですが、そうせざるを得ない時代だったのです。1952年に彼はブラスモデルの製造を始めます。フリーの0-4-0タンクエンジンが主力製品で、これは様々なバージョンで50,000台以上が販売されました。輸出用アイテムとしては、パシフィック電鉄のさまざまなタイプのインタアーバンがコンスタントにクマタ貿易に納入され、サイダムによって輸入されました。
 
最も古い模型店の1つであるつぼみ堂が突然ビジネスをやめたとき、日本のブラスモデル業界にいる人々は驚きました。私が理由を尋ねると、西川氏はいいました。「輸出にも日本市場にも将来性が感じられない。鉄道模型を作っていた人々は老い、若い人は作り方を学ぶことにまるで感心がない」。
 
今、ビジネスを続けているわれわれは、西川氏は先見性があったといいます。われわれがそう言うとき、私は、皮肉でそういっているのか、ねたみでそういっているのか、わからなくなってしまいます。
 
おそらくモデル製造はいつか家内工業になるでしょう。すでに1つの良い例があります。コダマは児玉茂氏、奥様、奥様の妹という3人の会社でした。彼らはハイクオリティのモデルを数量限定でつくっていました。彼は限られた「スタッフ」にもかかわらず、当時の平均的サラリーマンより稼いでいたし、好きでもない仕事にしがみついている誰かと違って、自身の仕事を楽しんでいました。
 
児玉さんの履歴をご紹介しましょう。1951年から1953年に、「ニューレイル」という模型店が東京の新宿にありました。店は水澤氏と西澤氏によって共同経営されており、米国人の軍人を相手にOゲージのパシフィックやハドソンといったスティームロコを販売していました。Oゲージモデルを製作して自ら販売していた児玉氏は、モデル愛好家の集まりである「35ミーティング」で、会のメンバーである水澤氏と知り合います。これにより、「ニューレイル」の共同経営者である西澤氏とも会うことになり、その後、西澤氏の紹介で、児玉氏はクマタ貿易の仕事をいくらかすることになりました。(西澤氏についていえば、彼は結局「ニューレイル」を辞め、自身のビジネスを始めました。それはパワーパックやポイントマシンを製造し、多くの国内小売店と卸に売るというものでした)
 
クマタ貿易のオーダーで児玉氏が完成させた、2バージョンのOゲージメイソンボギーは、彼の偉大な仕事の実例です。というのも、彼は以前、安物HOスティームロコの大量注文を引き受け、大失敗に終わったことがあります。彼はその才能をハイクオリティの数量限定モデルに制限すべきだったのです。
 
この児玉に続いて、もう1人のコダマが日本のブラスモデル界に入ってきます。紛らわしいので、2人を区別するために、児玉茂氏を「オールド」コダマ、若いほうの児玉キヨシ氏(訳者注:正しくは児玉隆重氏と思われます)を「ニュー」コダマと呼ぶことにしましょう。
 
「ニュー」コダマのキャリアは、トビーとミズノの下請けとして、半田付けをしたところから始まります。その後、彼はHOn3のスティームをトマルコ社に、On3K-27スティームをPFMに、ともに完成品で売ります。彼はいくつかのモデルをフルグレックスにも売りましたが、残念ながら現在はあまり活動していません。
 
(その3に続きます)
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