(その2の続きです)
日本のモデルビルダーの中で、個人としても企業家としても、最も強烈なブラスモデル熱狂者は、多賀谷宏氏でしょう。早稲田の大学院で科学とエンジニアリングを学んだ後、彼は伊藤忠商事の下請けとして繊維ビジネスに従事していた父親の援助を得て、オリンピア・プレシジョンを設立します。
多賀谷氏の有名な製品の1つがHOのバーディ・スティームロコです。これは非常に正確なディーティルを持った、エポックメーキングなモデルであり、彼がどのように働いたかを示すよい例です。彼は自分自身を完全に満足させるファインモデルを作り出すために全力を傾け、ときに会社に損害を与えるコストアップを気にも掛けませんでした。
彼は自社のモデルを常に改善してきました。ロストワックスキャスティングを研究し、この手法を外回りのディーティリングだけでなく、キャブインテリアのディーティリングにも使ったのです。出来上がったファインモデルが工場から届くと、彼はいつだって、甘やかされた子供のごとく、そのモデルを売るのではなく、手元に置いておきたいと願ったのでした。1973年の氏の早すぎる死は、ブラス業界にとって大きな損失でした。
他のモデルメーカーと同様に、オリンピア・プレジジョンもまた、多くの新しいモデルビルダーを輩出しました。城南モデルの創業者であるニシクラ・ユウキチ氏は、オリンピアでキャリアをスタートさせました。英語が流暢だったため、彼は海外貿易を担当しました。その1か月前、望月氏がオリンピアに入社しました。後に彼は、会社を去り、オリンピアの継承者としてトウカイドウ・モデルを設立しました。クマタ貿易の前工場長である大竹ヒロシ氏も、一時はオリンピアの下請けの1つでした。
オリンピア・プレシジョンでの意見の相違から、ニシクラさんは会社を去り、大竹さんのアドバイスによって、クマタ貿易に入りました。しかしながら、彼の在籍期間は短いものでした。1年後、彼は大竹氏が友人の資金援助を得て設立したトーホーロコに移ります。1968年には別のクマタ社員がこの会社に入ります。ミゾグチ・カズオ氏で、有能は職人でした。トーホーロコのビジネスは順調で、1年後にサトー・マモル氏も加わりました。
「船頭多くして船、山に登る」という日本のことわざ通り、大竹氏とサトー氏は意見があわず、2人は会社を去りました。1961年にはミゾグチ氏も独立を決意して、ニシクラさんが1人でトーホーロコに関するさまざまなことをこなさねばならなくなりました。彼はこれを1974年に自身のビジネスである城南モデルを設立するまで続けました。
ニシクラさんがトーホーロコとついに関係を断ったとき、2つのアイテムが未完成でした。1つはスイスのエレクトリックロコであるAe 3/6、もう一つがアメリカのスティームで2-8-0シエラです。ミゾグチ氏がこれらを完成させましたが、この2つは会社の最後の製品となりました。
新しい会社である城南で、ニシクラ氏の最初の製品はメトロポリタン向けに輸出されたスイスBLSロコでした。その後彼はNWSL向けのSP No.1ディーゼル、オリエンタルリミテッド向けのエンパイアビルダー客車、そしてオーストラリアのミニモデル向けのスティームNo.32を製作しました。今日までに彼がつくったのはおおよそ12タイプで、現在はご子息が経営をみています。
才能あふれるミゾグチ氏は、自身の名前を冠したミゾクチ製作所で、ブラスモデルを製作しており、最初に製造したのはメトロポリタン向けのスティームC-4/5でした。その後彼はE-4/4タンクロコ、SSBのエレクトリックロコである Ae 3/6、Re 4/4、Ce 6/8、BLS Ae 4/4、Ae 8/8、Be 6/8、Be 5/7、Ce 6/6、Ae 6/8、E-71そしてE-91など、およそ27タイプのHOモデルを製作しています。彼のブラスモデルのうち、大型電機であるBLSBe 6/8 201は、彼がとりわけ製作を楽しんだもので、これがBLSロコのさらなる大量オーダーにつながりました。彼の2つのタイプのスイスクロコダイルは傑作です。
日本型モデルのメーカーのリストは数尽きません。ゴトー・ハルゾーも重要な存在です。1920年生まれの彼は逓信省の技術者でした。戦後は鉄道模型のトランスをつくります。1952年には天賞堂に入社し、線路や貨車の製造に携わりました。
彼は1960年に独立し、天賞堂の下請けとしていくつかの国鉄型蒸気とディーゼルロコをつくります。加えて、彼はカツミのために、いくつかの輸出用モデルをつくりました。1967年に、彼はPFMとの関係構築に成功し、会社をGOモデル・ワークスと名付けます。彼の製品のブランド名は「GOM」としました。彼の日本名を英語にすると、製品ラインに見事にフィットしたのです。「Goto」という名は、「go to」に似ており、彼の会社のイニシャルの「GO」や「GOM」は、競合に勝って前に進もう、という勇ましい感じを持っていたのです。
GOMの最初のモデルは1968年につくられた、CNRとCPRの古いタイプのカブースでした。翌年、SPのA-3アトランティックが輸出され、好評を博します。「Train」マガジンも好意的な記事を掲載しました。結果として米国からの需要が増し、彼は生産能力の増強を迫られます。景気がいいときの事業拡大は、小さな会社にとって容易ではありません。熟練した労働者は、より大きな会社に魅力を感じるものなのです。ビジネスの拡大に乗り出す前に考えねばならないことが、もう1つありました。1970年、米ドルは急に弱くなりました。鉄道模型の輸出に影響はないか? ゴト―氏は、事を進める前に米国に行き、市場を調べました。
とうとう彼は、東京から300キロ離れた秋田県の湯沢にあるさらに大きな設備に工場を移転させました。彼はまた、彼は最小人数で、この上なく高品質の製品を作ろうと考えたので、慎重に選抜した20人の優秀な従業員を追加採用しました。彼の戦略が功を奏し、彼の製品はあらゆる地のモデルファンに歓迎されました。
他の全てのモデルメーカーと同様、1979年頃に、ゴトー氏は米国から注文されるアイテムの数量が減ったことに気付き、ヨーロッパ市場向けのモデル製造に集中しました。彼がフルグレックスのためにつくったHOスケールの、バイエルン S2/6 ロコは、1983年の「モデル・オブ・ザ・イヤー」を獲得します。それ以降も多くの傑作が製造されました。
ゴトー氏はかくも優れた企業家だったため、多くの人は、なぜ彼が最終的に模型製造をギブアップしたのか、不思議に思うことでしょう。当然ですが、われわれは皆、歳をとり、ビジネスのストレスによって、いつかは引退せねばなりません。
しかしこれだけでは彼の意思決定を十分に説明できません。小さなビジネスは、ときに1人の人間の個性と強さによって栄えるのです。引退が近くなると、よき後任は必須であり、ゴト―氏は、後任を彼のチーフアシスタントの1人であるS.ワガ氏にしたいと思っていました。彼は残念ながらワガ氏を後任にすることに失敗し、1984年、ゴト―氏はGOMの名声を失うことよりも、ビジネスを辞めることを決意しました。
時が流れ、沢山の素晴らしいモデルメーカーが亡くなりました。年配のモデルファンは、立川の商店街にあった「ノザワ」というレコード屋を覚えているでしょう。その2階で、6人くらいが集まって鉄道模型をつくっていました。彼らのチーフはレコード店のオーナーであるノザワ・ヒサト氏で、レコード店のオーナー、サキソフォン奏者、そしてモデルファンでした。
彼は自らの製品を「タカラ」ブランドで、ニューヨークのインターナショナル社に輸出し始めました。その後、クマタ貿易と仕事を始めます。1956年、将来のオリオンモデルのオーナーである籠谷文男氏が模型製作の手法を学ぶために、ノザワ氏の仕事に加わります。2年後、籠谷氏は、アカネ製作所社長の関野栄一氏に誘われて、アカネのスタッフになります。
1965年、籠谷氏は東京郊外の昭島市に、自身の会社であるオリオンモデルを立ち上げます。オリンピアの下請けとして、彼はフルグレックス向けのモデルを製造しました。海外から受けた最初のオーダーはNSWLのHOカブースです。彼のビジネスはその後も拡大し、サイダム、NJインターナショナル、GHBインターナショナルといった会社と取引しました。
アカネ製作所の関野氏は、日本のブラスモデル業界で特別な地位を占めます。多数のモデルメーカーの中にあって、彼はビジネスにおける繊細さと大胆さを兼ね備え、それゆえに今日の氏の成功があるのです。彼がわれわれの業界でアクティブだった時期、- 氏は風のように来て、風のように去っていきました - 氏の会社はモデルの生産量で第1位でした。彼のビジネスの試みは、常にユニークでした。おもちゃの飛行機からブラスモデルにきて、レーシングカーから、遊園地用の乗り物列車製造、これが他のアミューズメントに広がってお化け屋、ゴーストタウン、そしてとうとう今は、競走馬の育成にまで。
プレスアイゼンバーンの松本謙一氏と私が、関野氏にコレクションの写真を借りたいとお願いしたとき、彼は、この本に使うようにと、自分の経歴についての思いを手紙に綴ってくれました。
「1945年8月、長く苦しい戦争がやっと終わりました。復員して、故郷である八王子の荒れ果てた様子をみて、私はショックを受けました。われわれは皆、最低限の生活すら、どうやって送ればいいのかわからず、途方に暮れていました。
子供達を楽しませるものは何もありませんでしたが、彼らなりに、昆虫を集めるといったシンプルなことに楽しみを見出していました。彼らはまた、模型の飛行機や汽車で遊びました。私は彼らの楽しみを取り戻してやりたいと思いました。模型の世界に入ったのです。私は粗末な素材でできたゴム動力の飛行機を売るという小さなビジネスを始めました。まもなく事態が好転してきました。少しずつ、Oゲージの電気トレイン用のパーツが、店頭に並ぶようになってきたのです。
日本の鉄道模型製造は、スクラッチビルドのモデルが店頭で売られたところから始まったと思います。60年代(訳者注:50年代の誤り?)の初め、これらのモデルは、進駐軍の中のアメリカ人モデルコレクターから、その優れたクラフトマンシップを高く評価されました。注文が増え、他の日本のブラスモデルメーカーと同様、私も大いに稼ぎました。
私の顧客は、期せずして子供達から、日本に駐在するアメリカの軍人になりました。そして、一人の将校と知り合いになり、米国には非常に大きな鉄道模型の市場があることを知ったのです。私は自分の店でHOのロコを作ろうと考えました。時は熟していました。軍需産業の機械工具、労働力、技術者がもはや不要になっており、これが、ブラスモデル産業成長の土台整備に貢献したのです。
当時の多くのモデルメーカーは、どんなロコを作ればいいのか、ということのみならず、どれだけ作ればいいのか、どうやって売ればいいのか、について暗中模索の状態でした。賢い選択をすれば、よく売れる可能性は高まります。私はアメリカのロコの実物写真、設計図、その他のデータを調べました。
製品を海外で売る方法には大きく分けて、2つの方法があります。直接のメールオーダーか、インポーターを通じての取引です。私は限られた数量のハンドメイドモデルをつくることになるメールオーダー方式を好みませんでした。消費者にリーチするため、小売店とコンタクトを持つ卸に製品を届けるルートを持っている、インポーターを通じた流通を目指したのです。これにより、モデルの大量生産が可能になりました。
この方法で困ったのが魅力的な価格にすることでした。アメリカでの小売価格を輸出価格のおよそ2.7倍にしたいのですが、インポーターを通じて売ると、これが4から5倍になってしまうのです。大量生産が唯一の解決方法でした。私は6つの大型アーティキュレーテッドから始めましたが、生産台数は当時不可能と思われていたものでした。記録をみると、SPの4-8-8-2は少なくとも4,000台、C&Oの2-6-6-6は600台が作られ、1963年のわずか2か月で、無事米国に輸出されています。自身最大の偉業はMa&Paの2-8-0で、なんと累計24,000台を製造しています。このようにして、私は価格の問題を克服したのです。
後年、私が取引する一番大きなインポーターの最大在庫高がわずか17万ドルと知って、私はこのビジネスの将来性がどうなのか、考えるようになりました。私の結論はこうでした-モデル製造ではもはや儲かる会社になりえない。
それゆえ、私は新しい事業を模索し、ブラスモデル製造からレーシングカー開発、そして1965年、ついには遊園地の設計・建設に移ったのです。これは私が、たびたび訪問したロスアンジェルスのディズニーランドに魅せられていたことによります。
ブラスモデルは膨大な数を作る訳ではないので、このビジネスは、高価なロボットを使ったり、高額な機械を設置することによるマスプロダクションを採用することができません。また、日本経済の著しい進歩を考えると、今日の賃金水準に見合ったものにもなりえません。こういった要因で、日本におけるモデル製造は、ますます難しくなる一方なのです。
しかしながら、振り返るに、モデルメーカーとしての、あの厳しい日々があったからこそ、今の私の成功があると思っています。私がつくったブラスモデルは、アカネのブランドで売られました。その名は、私が育てている競争馬、愛すべきサラブレッドの名前の頭に使われています。アカネテンリュウ、アカネハチマン、アカネダイモン、この国のメイントラックで、競馬ファンを熱狂させている馬達です」。
残念ながら、この序文は1つの重たい事実で締めくくらねばなりません。ブラスモデルの製造は、顕著な下落が続いている、という事実です。
しかしながら、利益性や、将来のブラスを企業がつくるのか、それとも個人がつくるのか、といった問題はさておき、ブラスモデルが、高度な芸術的業績の集積を示すものである、という点に間違いはありません。
これらの宝物は、今後も多くの人々に大きな楽しみを与え続けるでしょう。「ブラスの芸術」にいまだ携わるわれわれには、この輝かしい事実があるだけで十分なのです。
熊田晴一
(アート・オブ・ブラス第2巻 序文 おわり)
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